|
カテゴリ:中山道
三日目です。疲れてきました。今日も天気は良いようです。暑いのが予想されますのでタイツはやめて、上はワコールの速乾性のもの、またインナーは夏用クロスウォーカーとしました。高崎では駅前から少し歩き中山道にでます。高崎の浮世絵ポイントは実は昨日歩いたところのようでした。 遠景に榛名山 碓氷川と烏川の合流近く 昨日の夕暮れ 素晴らしかったけどここが 浮世絵ポイントなのかは十分わかりません まずは高崎城址に寄りました。公官庁も整備されています。公園も新しく整備した感じがします。中山道に戻ります。しばらく行くと倉賀野宿です。高札場などが目に入ってきます。 高札場跡です。復元されています。 脇本陣跡です。宿場の感じでてきました。 本陣跡は大きなスーパーになっていました。 倉賀野宿のでぐちあたりは三差路になっています。常夜灯もありますが、道標もあり、そこには「右江戸道 左日光道」と彫られています。だんだん江戸が近くなってきた気がします。ここの日光街道を通って家康の命日(4/17)に日光例幣使が東照宮へ行ったそうですが、日光例幣使は普段は貧乏な下級公家であるのだが、道中では権力をいいことにゆすりたかりをおこなっていたらしい。また、日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は東海道・江戸を経由せず、中山道~倉賀野宿~例幣使街道という内陸経由で日光へ往復した(wikiより)。勉強になるなぁ、、、。 ところで関東地方の同様に「ずいずいずっころばしごまみそずい 茶壷に追われてどっぴんしゃ 抜けたらドンドコショ、、、、」というのがありますね、その意味をwikipediaで見たら以下のようにありました: 引用:「胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払っており、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえてくる。」と。(勉強のしすぎかなぁ、、。) しばらく行くと道は烏川に架かる橋のほうに曲がりますが、当時は橋はなく渡しだったようです。その辺が倉賀野宿の浮世絵ポイントのような気がします。浮世絵では子供たちが裸で水遊びしています。 この辺が浮世絵ポイントかどうかわかりません。 現在は橋を渡りますが当時は少し下流で 渡しが利用されていたようです。 埼玉県に入りました 東京まで94キロとでています。 次は新町宿ですが、浮世絵では温井川を描いているとありました。しかし温井川はなんだかぱっとしない川でした。しかし温井川を渡ると新町宿に入りましたのでたぶんここが浮世絵ポイントなんだろうと思います。 この山は赤城山らしいです この川を描いたのかなぁ? 新町宿を歩いていたら沢山車が来ていたので何かなぁと思っていたら、ハラダという洋菓子店でした。ちょうどおなかも減って昼食も食べていないのでお店に入ったのですが、パンはなく洋菓子ばかりでしかもレジには10人以上並んでいましたので見るだけにしました。 その先に巨大スーパーみたいな建物と駐車場がありましたが、この洋菓子店と同じ名前でしたので、もうけた資本でここに出店したのかもしれません。 本庄宿の浮世絵ですが神流川だそうです 現在は立派な橋がかかっています 戦国時代の古戦場の碑もありました
本庄宿に入ると宿場の趣が見られました
ちょっと入ったところに田村本陣の門が移設されていた
今日は39,468歩、27.6キロきました。市内で投宿しました。暑くて疲れました。昨日は排気ガスのため、咳と痰が絡みましたので、今はマスクをして歩きました。顔が熱かったです。 フ~。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.05.19 10:52:44
コメント(0) | コメントを書く |
|