我々、日本人の経済システムは、実は三千年前から変わってきません。
投資をして、生産性を高める。
三千年前、唐津市の菜畑で水田稲作が始まった以降、我々は、
「将来のために生産資産を蓄積し、生産する」
ことで生産物や所得を獲得する経済の下で暮らしてきたわけです。
ちなみに、水田稲作という「投資」で生きていく弥生文明は、900年くらいかけて青森にまで伝播していきました。(約2100年前 青森県 垂柳(たれやなぎ)遺跡 水田稲作跡) もっとも、水田稲作は青森には合わなかったようで、北海道の続縄文文化が南下してくることになりますが。
ちなみに、
「日本に大量の渡来人が訪れ、水田稲作を伝えた」
「縄文人を渡来人が駆逐していった」
といった風説は、全て考古学により否定されています。
ついでに、板付遺跡や菜畑遺跡が発見されたことで、
「紀元前三世紀に中国の動乱から逃げてきた人々が日本に稲作を伝えた」
という、司馬史観的な出鱈目も成立しなくなっています。何しろ、菜畑遺跡は紀元前十世紀の水田稲作跡なのです。
縄文時代から、日本人は朝鮮半島南部を交易圏としており、朝鮮半島にも大勢の日本人が住んでいました。結果、朝鮮半島から縄文土器や翡翠(日本の糸魚川でしか取れない)が発見され、韓国南部にだけ(ごくわずかな人数)Y染色体ハプログループD1a2の男性が存在しているわけでございます。
というわけで、元々、多少の陸稲はやっていた縄文人(我々の先祖)は、朝鮮半島のどこかで水稲を目にし、
「お? これ、すごくね?」
ということで、菜畑(現時点では)で極小さな規模から始め、それがほとんど千年もかけて本州の北部までいったわけです。(水田稲作は津軽海峡は越えなかった)
現代から千年前といえば、平安後期でございますよ。水田稲作が、どれほど長い時間をかけて北上していったかが分かるでしょ?
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