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2024.10.29
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カテゴリ:旅行 福岡県
大宰府政庁跡

7世紀後半から12世紀、大宰府は行政機関として
九州を統括し、西に都として役割を果たした

日本の外交と防衛の最前線、貿易の窓口として
機能した。

建物は残っていないが、礎石を見ることができる

大宰府天満宮は観光客でにぎわっているが拠点
である政庁跡に来る観光客はほぼいない



案内板はわかりやすく説明
日本は平城京の時代



国としての体制が整ったばかりの日本
大国「唐」との親交を深め唐の​政治や経済​
​など国造りを学び取り入れた。​

​海外からの疫病対策の検疫機能もあったのでは​



古代山城や土塁で4方面から大宰府を守った
山城も大陸の技術によって築かれた



大宰府の花「梅」



南門の復元図

1300年前の建造物とは思えないほど巨大
中華風の建物、沖縄の首里城にも似ている




サッカー場3個分ぐらいの敷地
建物もなく芝生なので子供連に
人気のお遊びスポット



日本遺産




記念碑の後方には大野城(山城)



かつて建物があった場所には礎石が残っている



山城が築かれた大野城
西の都「大宰府」を背後から守った



大野城山頂から大宰府方面の眺め




古代の官道は大宰府を中心に広がった​




官道沿いに建てられた古代山城
大宰府を守る防衛基地

山城には兵士の宿舎、食料の備蓄倉庫
などが見つかっている



「白村江の戦い」に負けた倭国(日本)​
古代山城は「唐」や「新羅」からの防衛
の為に造られたとされる

​日本初の対外戦争(日中戦争)​
国力の差は明らかだったのになぜ戦ったか?







​​​​西の都「大宰府」は「小水城」「大野城」「基肄城」「阿志岐城」​​​​
​の4つの山城と堀と土塁で守られた「水城」により守りを固めた​



博多湾に上陸後に大宰府に向かうルートは2つ
​​​必ず「水城」「東門」「西門」をけ通らなければ​​​
大宰府に入れなかった



水城に向かいます





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最終更新日  2024.10.29 00:10:09
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