カテゴリ:誘水日記
「粋な生き方」というのは、
日本独自のものだそうだ。 『「いき」の構造』という本を書いた偉い哲学者の九鬼周造という人は、 「「いき」とは――運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのである」 と言っているが、 何のことやら意味がわからない。 自分なりに解釈すれば、 まずは「あきらめ」というのが「粋」のひとつの要素に入っていて、 これは、人事を尽くして天命を待つということに通じるのかなと思う。 「あきらめない」というのは、 何でも自分の思い通りにしようというエゴなのだと思う。 だいたい、そんなのは無理な話なのに、その無理を通そうとして、 さまざまな不調和を起こしてしまう。 帯津先生は、 「あきらめないけど、こだわらない」という言い方をする。 たとえば、がんの患者さん。 がんを宣告されたとたんに「もうだめだ」とあきらめてしまう必要はない。 いくら進行したがんであっても、 病院での治療以外にいくらでも治療はあるし、いわゆる科学的ではない治療法で良くなった人はたくさんいる。 あきらめる必要はない。 しかし、 人間は一度は死ぬのが運命。 がんになったのをきっかけに、死についてもしっかりと考えてみる。 死ぬのは何もがんだけではない。 交通事故の人もいれば、 脳や心臓のトラブルで倒れて亡くなる人もいる。 災害に巻き込まれて突然亡くなる場合もある。 いつどこで自分があの世へ旅立つかはわからない。 だから、 あきらめないという気持ちと同時に、 いつでも死ねるという思いを心の片隅にもっていること。 それが、「諦観」=「あきらめ」だ。 「媚態」とはどういうことか。 一般的に、媚態というのは、こびへつらう態度だから、カッコいいものではない。 ぼくの勝手な解釈だが、 これは人間関係のことを言うのではないだろうか。 「武士は食わねど高楊枝」もいいけれども、 自分の本当に大きな夢のためには、 武士のプライドを捨てて頭を下げることも必要だ。 何が大切なのかを知って行動ができる人間的な大きさをもつこと。 それが「媚態」ではないだろうか。 潔さにもつながる。 もうひとつが「意気地」。 よく意気地があるとかないとか言う。 人としての一本の筋だと思う。 自分はこう生きるんだという信念。 この信念があるからこそ、 諦観も媚態も輝く。 「粋」という一語で、 深いことを考えさせられる。 帯津良一著「粋な生き方」(幻冬舎ルネッサンス)、好評発売中! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014年11月06日 08時10分10秒
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