カテゴリ:誘水日記
今年の最初の気づき。
「みんな幸せなんだ」 ということ。 にもかかわらず、 人と比較して自分を見たり、 自分の価値観の中で人を見たりして、 「幸せ」「不幸せ」を決めているのではないだろうか。 自分の幸せに気づいてなかったり、 不幸だと思い込んでいる人も、 もう一皮むいてみると、 どんな状況にあっても、今が幸せだという自分が顔を出す。 幸せとはこういうものだという幻想があって、 その幻想に振り回されてしまっている。 相手が幻想だから、 現実は、その通りにならない。 だから、 だれもが幸せなのに、 幸せを感じていない人がたくさんいるという構図だ。 まわりから、ああすればいい、こうすればいいと、 いくらそれが好意からくるものであっても、 言われたり、されたりすると、 腹が立ったりする。 自尊心というやつがあるからだ。 自分を尊敬し尊重する心。 だれもがもっているもので、 自分を尊敬しているということは、 それこそ、幸せであることの証拠でもある。 この人、もっとこう生きれば幸せになれるのにと思うことはある。 でも、 それは、あくまでも自分の価値観の中での判断に過ぎないということも覚えておかないといけない。 わが家の娘は、2人が不登校を体験した。 先生方は、 何とか学校へ行けるようにしてあげようと、 あれこれ面倒を見てくれる。 とてもありがたいことなんだけど、 娘たちは、学校へ行かないことが不幸だとは思っていない。 親も、最初こそ、戸惑いはあったけれども、 これでいいのかなと思えるようになってきている。 逆に、 学校へ行かない子はかわいそうな子だという思い込みから脱することができて、 ずいぶんと、心が安定した。 それこそ、不登校という一見、ネガティブな状況にあっても、 幸せでいられる自分を体験できたわけだ。 そんな自分ににんまりすることもある。 自尊心が一回り大きくなったような気がする。 そんな状況の中で、 「私は、どんな不登校の子でも学校へ行けるようにします」 と言う人が現れて、 ああしなさい、こうしなさいと助言してくれたとしたら、 正直、 ありがた迷惑ということになってしまう。 そんなことを、 けっこう、ぼくたちはやってしまっているのかなと思ったりしたわけだ。 だれもが幸せなんだよというのが前提。 その上で、 何か一緒にできることがあればやればいい。 なければ、 幸せなんだから余計なことはしない方がいい。 ただし、 何か困っていることがあれば、 「助けてほしい」 と、声を上げることは大事だし、 困ったり悩んだ顔をしている人がいれば、 「何かできることあるかなあ」 と、声をかけてあげることが必要なときもある。 そして、「助けてほしい」と言われたら、一緒にどうすればいいかを考える。 そんな関係がベストなのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年01月04日 09時33分43秒
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