間もなく母の命日
7月29日は2年前に亡くなった母の命日。段ボール箱に両親の日記が残っている。日々の生活を簡単に綴ったものだが、その中に、鉛筆で書きなぐったような母のメモがあった。自分が亡くなったあとのこと。ぼくにやってほしいことをまとめていたようだ。80歳を過ぎて、夫を亡くし、まさかの娘、息子の死(ぼくの妹と弟)。長男のぼくは、東京暮らし、山梨暮らし。母は、一人ぼっちになって不安だったのだろうと思う。メモには、自分を無縁仏にしないでほしいと何度も書いてあった。弟が亡くなったときに、立派なお墓を作った。弟の供養と死んだあとの自分の居場所と考えてのことだっただろう。しかし、だれもいなくなったら、花も供えられず、草に覆われてしまう。そんな未来はつらかったのだと思う。2年前の朝、布団の上で意識不明になっているところを発見された。病院へ運ばれた。脳出血だった。しばらくして意識は戻ったが、ぼんやりしている状態。山梨まで介護タクシーで移動して、我が家の近くの病院に入院。しばらくして介護施設に入り、そこで亡くなった。正気に返った瞬間が3度あった。亡くなる2日前、一方通行であったが、ゆっくり話ができた。ぼくの言うことはわかっていたと思う。ベッドに横たわる母の目から涙がこぼれた。その後の実家だが、次女の氣恵が住んでくれるようになり、仏壇にもお墓にも、きれいな花が供えられている。ありがたいことだ。ぼくはいま、鈴鹿に来ている。ヤギが6頭、こちらへ移ったので、世話をするのがぼくの仕事。汗だくになって、あいつらのご飯(草や葉っぱ)をとっている。本当はもっと早くに山梨に帰るつもりだったが、いろいろ用が重なって、まだこちらにいるわけだ。そのおかげで、母の命日には、お墓参りができる。朝、お墓に行って、お線香をあげて手を合わせてから、山梨に帰ろうと思っている。次女のおかげで、たぶん、母が望んだ以上のことが、今はできているだろうと思う。心配症の母だったから、満足しているかどうかわからないが、こんな展開になるとは、母としてもうれしい誤算だっただろう。次女は、自分で決断したこととは言え、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さんのためという気持ちもあったと思う。もっと自由に生きてもいいのだが、無意識のうちに、ぼくがプレッシャーをかけてきたのかもしれない。ご先祖様を大切にしたいという次女の気持ちは、本当にありがたい。ご先祖様にも伝わったやずだ。応援してくれると思う。あとは、やりたいことをやって生きるということにフォーカスして、思う存分、自分の才能を生かしてもらいたいものだ。この村のことは、お父さんに任せればいい。ぼくは、外の世界で思いっ切りやりたいことをやってきた。今度は、実家をベースに好きなことをする。お父さんが死んだら、そこで、この村の物語はジエンドにすればいい。3人の娘たちは、それぞれが自分たちの物語を編んでいっておくれ。それで、ぼくの父母たちも喜んでくれるに違いない。だれもが、こう生きたいという思いをもって生まれてきた。その思いを実現することが、ご先祖孝行であり、親孝行だ。