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カテゴリ:上出遼平さん
記事の#2のタイトル「視聴者に無理やり答えを与えるテレビは宗教に近い?」とありますが、宗教というより「洗脳」でしょう。私は、テレビの洗脳にあらがう制作者にエールを送ります! 『エルピス』の脚本家・渡辺あやさんと佐野プロデューサー。そしてエンディングを制作された上出遼平プロデューサー。頑張っている! これからもその調子で! 上出さんが言われていることが的を射ています。 「上出さん:わからないことに対して踏ん張って耐えることは、とても体力のいることだと思っています。まずそこには知的な教養が必要なんですよね。教養の定義は難しいですが、いろんなことを学び続けて理解と知識を得ることで、不明なものも受容できるようになるのだと思います。 もし今、視聴者のわからないものへの耐性が低いのだとしたら、その教養の部分がどこかで失われているのではないでしょうか。あるいは経済的に安定しないということが理由の一端になっているということも。目の前のことで精一杯で、わからないものに対して費やせる知的な体力が身につけられない人も多いということはぼんやり思います。」 まさに、「(人文系・文学・詩歌・哲学などの)教養」の弱体化と(岡潔さんが重視した)「他者の悲しみが分かる情緒」「道義」「智力」の欠損が「今、ここ」にあらわれているんですよ。 石原慎太郎さんが都立大のフランス語学科などの人文系学部をつぶしたり、安倍晋三さんのような無学な人が日本のトップに8年いたりを野放しにした日本ですから。「彼ら」にやられっぱなしですよ。 夏目漱石の『こころ』に「おじさんを『(自分が思い描く、良い)おじさん』だと信じていたらそうではなく、預けていた金を使い込んでいた」ことが描かれています。主人公(先生)はショックを受けますが、そういうことではない。勝手に「意味」を決めつけて「安心」していただけなんだと。意味は固定されているんじゃないんだと、夏目先生は警告してくれているわけです。 ソシュールが言うように「意味は対比的(関係性で)に決まる(=そのもの自体に意味があるのではない)」というのは真理です。「悪い人」が「悪いという本質を持っている」のではない。それはハンナ・アーレントの言う「凡庸な悪」という概念も重なります。ユダヤ人を虐殺することに荷担したアイヒマンが「悪人」だと決めつけて人々は「安心」したがっているが、ハンナ・アーレントはそうじゃないと言った。そのせいで(安心したい人々に)バッシングされた。 これからも女性が革命を起こしていくと思いますね。 映画『ハンナ・アーレント』を制作したのも女性です。 キング牧師の伝記映画を作ったのも女性。 『エルピス』も女性。 その動きをサポートする男性が出てくる。 そういう流れですね。 「英文法のルターさん」も英語教育界に革命を起こしますよ。 ~~~~~~~~~ 以下、引用。 テレビはもう本当にダメなのか? 渡辺あやと上出遼平は、視聴者の「答えが知りたい」欲求に抗う 渡辺あや×上出遼平 #1 CULTURE 2022.12.20 https://crea.bunshun.jp/articles/-/39513?fbclid=IwAR2VZFh9mAsJrr9gvZOMGEueq3vqTG4w5HmoPi7qAyNtJFuRupCyjxDOc_k&page=3 渡辺さん: たとえば本当に数字が見込めるような企画しか通らないのかとか、言論封鎖的な圧力は存在するのかとか。でも今回佐野さんが見事突破されたので、実はその怖がっているものは何かしらの幻想だったということも結構あるんじゃないかなと。 お互いに怖がるばかりで誰もそこを押していなかったけど、佐野さんみたいな人がうっかり押したら、開いた。それは私にとって大きな希望ではありました。 ~~~~~~~~~ https://crea.bunshun.jp/articles/-/39513?fbclid=IwAR2VZFh9mAsJrr9gvZOMGEueq3vqTG4w5HmoPi7qAyNtJFuRupCyjxDOc_k&page=3 渡辺さん: ドキュメンタリーの場合は、例えばある人の犯した罪を本当に断罪できるのかどうかは実在の情報量を持って伝えられるところがあると思います。しかしフィクションはどうしても記号なので、私の場合は自分の実感を具現化するしかないんですよね。そういう意味では自分がどう社会や人間を見ているかということが、如実に出てしまうんだろうと思います。 すべての物事を一義化して善だとか悪だとか言い切ってしまう、そのような物語を大勢の人に見せるって結構怖いことだと思うんですが、とはいえ人間の多面性をそのまま見せようとすると、怒られがちなんです。あの登場人物はいい人なのか、悪い人なのか、このシーンではいいことを言ってたのに、ここではこんな態度を取るじゃないかみたいな。私が思ったままの人間の重層性や多面性を投影したときに、統一感がないという指摘を受けるということが多々あるんですよね。 上出さん: ドキュメンタリーであれば、「この人は悲しい人だ」と見せたいときに、悲しくない瞬間を全部切るというのが方法論であります。そういう意味では、ベテランドキュメンタリストからしたら、僕らみたいな見せ方は許せないと思いますよ。ゴミ山で暮らしてる青年が嬉しそうに何かをしていたら、そこは切ったほうがいいでしょとやはり言われます。それは悲しくないじゃんって。プラス悲しい音楽をかけて、悲しさを増し増しに演出しましょうというのが論法なので。 視聴者に無理やり答えを与えるテレビは宗教に近い? 「エルピス」のエンディングに迫る 渡辺あや×上出遼平 #2 https://crea.bunshun.jp/articles/-/39515?page=1 ――本当はどんな人であれ同じ世界の人間なんですけどね。それでも線を引くことでみんな勝手な理解をしてしまう。 渡辺さん: わかった気になって安心したいんですよね。今回は今までメディアがしてきたことをそのままを描きました。ただ同時に、犯罪被害者のことを自分と全く違う世界の人の話なんだと思いたがるような心理は、確実に自分の中にあるものだなと自戒を込めて思います。 ――上出さんは「ハイパー ハードボイルド グルメリポート」(テレビ東京・2017年~放送)で、人食い少年兵やカルト教団信者など、さまざまな方を取材をされてきました。それを「自分の知らない世界のヤバい人たち」として隔てて理解するためにして鑑賞している視聴者もいると思います。しかし上出さんが本当に伝えようとしているのは、「この人たちは同じ人間であり、あなたと変わりません」というところにあると思っています。 上出さん: そうですね。メディアはあまりにそれができていなかったんですよ。「あなたと違う人たちです」ということをわかりやすく伝えてることが常識化しすぎてしまった。でも、誰もがあなたであり、あなたの隣人であるということは意識する必要があると思います。 渡辺さん: 勧善懲悪の「水戸黄門」がずっと変わらぬ人気を誇っていたこともそうですが、わかりやすさが求められる傾向はきっと昔からあることだという気はしています。たぶん、みんな人間が非常に複雑だということを知りたくないのかもしれないですね。 上出さん: わからないことに対して踏ん張って耐えることは、とても体力のいることだと思っています。まずそこには知的な教養が必要なんですよね。教養の定義は難しいですが、いろんなことを学び続けて理解と知識を得ることで、不明なものも受容できるようになるのだと思います。 もし今、視聴者のわからないものへの耐性が低いのだとしたら、その教養の部分がどこかで失われているのではないでしょうか。あるいは経済的に安定しないということが理由の一端になっているということも。目の前のことで精一杯で、わからないものに対して費やせる知的な体力が身につけられない人も多いということはぼんやり思います。 渡辺さん: ジャンルによって、自分の不得意なところには、わかりやすい答えをつい求めています。たとえば、「今ここにある危機とぼくの好感度について」(NHK・2021年放送)というドラマで書いた神崎真 (松坂桃李) という役は、物事を単純に考えたいキャラクター。自分はくたびれてるし、難しいことが嫌いなので、なるべく世界は単純であり簡単であってほしいと願っている。あれはまさに自分自身の希望というか、願いでもあるなと思いながら書いたんですよね。ただやはり世界で簡単なものなんて何もひとつなくて、複雑さを複雑であるということのままに受け入れられていくというのが、成熟していくということなんだろうなとわかってはいるのですが。 https://crea.bunshun.jp/articles/-/39515?page=2 渡辺さん: 田舎ってすごいなと思うんですが、たとえば祭りとか、右であろうが左であろうが今日はそれを置いといてなんとか成功させなければいけない、みたいな状況が年に1回あったりするんですよね。そしたらホリエモンとひろゆきと内田樹先生みたいな人がみんなでひとつの祭りを盛り上げるというようなことが起こるわけで、なんだか非常に豊かなことですよね。 上出さん: 僕ら、過激派ですもんね(笑)。佐野さんがおっしゃっていたような悩みとか葛藤の中には、制作者としてのエゴなどいろいろなものが含まれています。それは僕も同じです。 この物語のレイヤーについていえば、誰かが死んでしまうというすさまじい不幸を起点に、主人公たちは正義を実現しようとする。でもその正義の実現の中には自己実現も含まれているし、さらに言えば、商業も含まれています。ある人の不幸をもとに物語が始まっていって、そこからいろんな人の幸福が生まれていくという構造が「エルピス」にはあるわけですよね。 正義を追求することが良くないことだとは全く思わないけれども、ただそこで正義を実現しようとしている世界に、被害者のメリットというのはほぼないんですよ、多くの場合。簡単に言えば、この被害、この不幸をほぼ100パーセント搾取しているという構造がここにある。これはものすごいグロテスクで、だけど、否定しがたいものです。でも誰もこれがグロテスクだということは言おうとしていない。そこに佐野さんや渡辺さんの葛藤もあったはずなんですよね。 https://crea.bunshun.jp/articles/-/39515?page=3 上出さん: 物語のもうひとつの層でいえば、今回は実在する事件を下敷きにしているから同じ構造に取り込まれているし、なおかつ同じような事件をエンターテインメントの中で再生産している。それを持ってみんなは飯を食っていて、それは僕も同じです。この、テレビが元来持っている「人の不幸をエンターテイメントにして金を生む」見世物小屋的な構造を、今度こそ示唆したいと思ったのが今回のエンディングの目的なんです。 みんなが心を痛めたりするような悲劇を我々は作り出している。正直、佐野さんや渡辺さんや演出家の大根仁さんからしたら、そんな制作者のエゴをほじくり出さないでくれよと思われてしまうでしょう。 でも僕は佐野さんから依頼を受けた段階で、制作陣を満足させようと思っていないんですよ。視聴者に向けてつくっているので。制作陣はテレビの業界をえぐることで自分たちの恥部を晒しているけど、グロテスクなこの構造自体は晒していない。それを僕がエンディングで見せることで、もう1段階深い視聴体験になるのではないかと思いました。もっと丸出しで言うこともできるんですけど、ふんわりとオブラートに包むとこんな感じです。 渡辺さん: テレビというか、表現がそのまま持っている原罪については私も同じことを思っていました。私たちは基本的に、人の不幸を搾取しながら仕事をしています。しかも、そんなことは見せずに「いいことをしている風」に仕事をしてきてしまっている。それは視聴者にはあまり共有されてないことでもあるので、今回、上出さんがおっしゃったことが視聴者の方々に読まれることはとても意義のあることだと思います。私自身もこれをいつ打ち明けたらいいだろうとずっと思っていたので、いい白状の機会を与えていただきました。 佐野さん: 内容に関して視聴者の方に「よくやった」「攻めてる」と言われるのですが、本作は実在の事件に着想を得ていて、参考元の事件にはまだ未解決のものも多く含まれています。そこには被害者やご遺族・ご家族などがいるなかで、やはり誰かの不幸を、乱暴な言い方をすれば食い物にして物語をつくっているという、うしろめたさがずっとありました。その方々に対する気持ちはもちろん本編にも描かれてはいるのですが、個人としてそういった気持ちを言うことはできないじゃないですか。「それでもこれを放送することに意義がある」と一方的に決めつけて、結局実際につくってしまっている。 渡辺さん: 制作陣の恥ずかしい思いや罪悪感を含めて、あのエンディングは意味があるものになっていると思っています。それをやってもらえたことは、私たちにとってもありがたかったです。 上出さん: この状態で得をしているの、僕だけですね(笑)。でも、制作陣の思いがエンディングを含めたドラマ全体を通して伝わっていたらうれしいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.05.24 20:56:57
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