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 殿上人日記

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京都の旅

2020年10月16日
XML
カテゴリ:京都の旅
この京都旅行は、今年3月7日のものです


気がつけば、もう10月も半ばである
実の話、この最近は、かなり大変で
今回の日記を書いたのは、いつもの
ノートPCではなくって、3年程前まで
愛用していたものだ




当時、このPCに写真がいっぱいになった
ので要らないのを消して整理して外付け
HDDに移さなきゃいけないのに、面倒で
使っていなかった、娘のお古のPCに乗り
換えていたのだが、ここにきて大きな音で
ガガガ~~とやりだしてしまってヤバい




やばい。やばすぎる!と前に使っていた
方を引っ張り出し、写真を減らしてます
3年前にやらなきゃいけなかった事だし
ウィンドウズ10には直してたんですが
その後のアップデートがされてないので
時間がかかる、かかる




3年も経てばセキュリティも、ブラウザも
新しいものにアップグレードしてくれと
次から次に。ブログのログインとかブック
マークとかお引越しもままならず悪戦苦闘
こんなんじゃ、スマホのお引越しとか無事
出来るんだろうか




お引越しをしたとは言え、こちらのPCも
10年超えで使用していると、本体が
熱くなるので先も短そうだ。今は一刻も
早く写真を外付けHDDに移してしまい
もう一つのガガガ~という娘から貰った
PCの写真も救い出さねば・・・




あまり使わないから。。。という娘が現在
使っているノートPCを、譲ってくれるそう
なので購入はしなくてもいいけど。ネット
見たりするのに、タブレットを1つ欲しい
ものだ。PCもつけっぱなしを防げて寿命が
少しはのびるのかもしれない




さてさて写真の方は、今年3月初旬に
娘と二人で出かけた、京都旅行の続き
です。嵐山から次にやってきたのは
嵯峨野の大覚寺です。まるで平安期の
殿舎を思わせる風情は




見覚えがありませんか? 数多の時代劇
ドラマや、映画のロケ地として有名です
東映の太秦映画村からも近いので、利用
しやすいのかもしれません。そういった
事もあるのか




撮影禁止と表示された一部をのぞいて
寺院内も、写真撮影をしても良いとの
事でした。このお部屋で法王が院政を
行っていたそうだ。ではでは何時もの
ようにウィキペディアで説明をすると




>大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区
>嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。
>山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を
>中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇で
>ある。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室
>ゆかりの寺院である。




>嵯峨野の北東に位置するこの地には、
>平安時代初期に在位した嵯峨天皇が
>離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を
>得ていた空海が、離宮内に五大明王を
>安置する堂を建て、修法を行ったのが
>起源とされる。




>嵯峨天皇が崩御してから30数年後の
>貞観18年(876年)、皇女の正子内親王
>(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが
>大覚寺である。嵯峨天皇には孫にあたる
>淳和天皇の皇子恒貞親王を開山(初代
>住職)とした。




>鎌倉時代の徳治3年(1308年)に後宇多
>法皇が大覚寺を再興した。法皇は伽藍の
>整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と
>称されている。また、ここで院政を行った
>ため嵯峨御所(さがごしょ)とも呼ばれた。




>法皇の父である亀山法皇[注 2]から続く
>系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と
>呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と
>交代で帝位についた(両統迭立)。この
>両系統が対立したことが、後の南北朝
>分裂につながったことはよく知られる。




>元中9年(1392年)、南北朝の和解が
>成立し、南朝最後の天皇である後亀山
>天皇から北朝の後小松天皇に「三種の
>神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺に
>おいてであった。




>ただし、南北朝時代を通じて南朝方寺院
>であったというのは事実ではなく、南北朝
>分裂後に南朝方の性円法親王(後宇多法皇の
>皇子)と北朝方の寛尊法親王(亀山法皇の
>皇子)が相並ぶ分裂状態が続いたものの、




>南北朝が和解した時期には北朝・室町
>幕府方の有力寺院となり、後に室町幕府
>3代将軍であった足利義満の子・義昭を
>門跡に迎える素地となった。このように、
>皇室ゆかりの寺院であり、




>代々法親王が住職となった門跡寺院で
>あるため、現在でも御所風の雰囲気が
>ただよっている。

と、いった感じで歴史的にも重要な位置に
ある格調高いお寺である




この廊下とか、よく時代劇に出て
きたりしますよ。映画の陰陽師の
シーンとかも印象的です。名前は
村雨(むらさめ)の廊下といいます




直角に曲がっているさまが、まるで
稲光のようだから名付けられたよう
ですよ




こちらは石舞台。雅楽などが
この上で開かれたりします




朱色でひときわ色鮮やかなのは
霊明殿です。昭和11年の二・二六
事件で凶弾に倒れた斎藤実第30代
首相が、昭和3年に自費で建設を
したという




東京都の練馬区沼袋の日仏寺の本堂を
百草園へ移築を経て、昭和33年に
こちらへ再移築したものだそうです
華やかですよね




奉納をされた般若心経の写経を納める
心経殿は鉄筋コンクリートで模した
八角円堂で、設計は昭和初期を代表
する住宅建築家の藤井厚二氏による
ものだそうだ




やっぱ、ここは見どころいっぱいで
良いお寺だなぁ。などと思いながら
広いお寺をてくてくと歩くが、他に
拝観者は誰もいなかった。まっ3月
だしね




ここ最近はGOTOトラベルとか
GOTOイートで盛り上がってる
けれど、コロナ感染者の数は
一向に減らないどころか、微増?




五大堂(本堂)からは、大沢の
池を眺めることが出来た。この
池も時代劇とかで使われてそう




この大沢池だが大覚寺の東側にある
広大な溜池で、平安時代に営まれた
嵯峨天皇の離宮造営にあたり、唐の
洞庭湖を模して作られ、「庭湖」と
呼ばれてもいる




このお庭、これまでは無料で見学が
出来たけど、今春から有料化がされる
そうで、この時は料金所を作っていた




そこに詰める係員の日当くらいは
入金されたらいいけど。このような
池越しのお寺の風景も、今となれば
もう有料




しっしまった~。この日記を書く為
境内図を見ていて、亀山城のものを
移築したという、明智門があったそう
だけども見逃してしまった。むろん
写真もない




こんなタイムリーな時期なのに、下
調べを、しっかりとやるべきだった
何時もの事だけど、行き当たりばったり
後でブログを書くために調べていて
初めて知るパターン




それでも今はスマホで、ネットが使用
出来るから、交通機関や、食事とかも
かなり情報を、タイムリーに得られる
のは、行楽好きにはありがたい話だ




このお寺を選んだのも、嵐山に行くに
あたって、その時期の花が楽しめると
いうので出かけた部分もある。この
梅園には、他にも梅の花を見に来て
いた中高年の姿も幾人かあった




今でこそお花見というと桜だけども
そもそも奈良時代に始まったという
当時のお花見は、中国から渡来した
ばかりの梅の花だったという。その
為に万葉集の桜の歌は43首で




かたや梅を詠んだ歌は、110首程
あるそうだ。かの令和のきっかけに
なったのも、大伴旅人の観梅の宴の
席であったそうだし




万葉集と言えば、藤原道長の嵯峨逍遥の
折に三十六歌仙の一人である前大納言公任が
詠んだ歌に出てくる名古曽の滝も、この
大沢池にあった。今は枯れてしまったそう
だけど




  滝の音は絶えて久しくなりぬれど
      名こそ流れてなほ聞こえけれ

あっ、その当時に既に枯れていたのか。流石
日本最古の人口の林泉(庭池)とも言われる
わけだ




今日は午前10時から、GOTOイートの紙の
プレミアムお食事券(岐阜県版)の事前予約が
あって無事に、1万円で12500円(千円券
10枚+500円券5枚)を一人2セットまでと
いうのを予約が出来た




予約サイトでポイント貰うのは、田舎では利用
出来る店舗が皆無だったが、紙の方は市内だけ
でも100店舗近くあって、いつものコメダや
ガスト、丸亀製麺など大手チェーンも使える。
とは言え、2月末迄なので2セットが限度かな

            旅は続く



       2020年3月7日に京都で撮影

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最終更新日  2020年10月16日 17時09分56秒
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2020年09月28日
カテゴリ:京都の旅


​※ 今年3月7日の京都旅行です ※

さてさて直前のUSJ大阪の閉園に伴って
かわりに麒麟がくる!の岐阜市を観光を
してから、娘とやってきたのは京都です




大阪&京都旅行は昨年末には予約をして
いたので、最初から行くつもりだったん
ですが、新型コロナによって海外からの
団体客の受け入れもなくなり




いつもは観光客でごった返している嵐山
渡月橋も、人のいない写真すら撮れます
週末なんですが、久しぶりに静かな嵐山
京都ではアジア系の観光客は皆無でして
日本人の他に、欧米の高齢観光客などが
ちらほら




本当は、梅小路の京都鉄道博物館とか
京都水族館に行きたかったんですけど
それらの施設も、新型コロナで閉館を
してしまったので、じゃ人の少なそう
だという嵐山にでも行くかと




鎌倉時代に、満月の晩に舟遊びをされていた
亀山天皇が、曇りのない夜空に月がさながら
橋を渡るような様を見て「くまなき月の渡るに
似る」と詠まれた事から渡月橋となったとか




ベンチで休んでいると、足元にハトが
やってきました。何も食べていないん
だけどもね




なんだか風情のある橋もありました。詳細は
不明です




再び渡月橋を渡り、駅側に戻ってきました
こちらには観光客向けのお土産屋さんが軒を
連ねています




嵐電(京福電気鉄道)の嵐山駅も、のぞいて
みました。江ノ電とか都電荒川線みたいに
街中の家の軒先すれすれを走り抜けていく
かわいい電車です




「マルダイ」とも称される、モボ101形の
車両がいた。1975年製造、武庫川車両
工業製だ




娘は橋とか公園とか神社、お寺よりも
こういった商業施設などを、ぶらぶらと
まわるのが好きのようでして




食べ歩きも出来ますし。桜と、竹の
ミックスのソフトクリームは、娘と
半分こ




ブラックサンダーは、応仁の乱以来の
衝撃!!だそうです




ローソンも京都っぽくなってました




自販機も、おこしやす




しば漬にもなれます。てな事で嵐山の
定番の観光地巡りもしてみましょうか




まず外せないのが野宮(ののみや)神社
でしょうか。ここが一番、観光客の姿が
見られました。神社は無料ですし、願い
事も出来ます。源氏物語にも登場しており
王朝文化を垣間見るような場所である

ウィキペディアによりますと




>豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する
>斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に
>由来する神社であると伝えられる。天皇が
>代替わりすると、未婚の皇女・女王(平均
>12-13歳、最年少2歳、最年長で28歳)の
>中より新たな斎王が卜定され、




>宮中の初斎院で1年間、そして嵯峨野の清ら
>かな場所を選び造営された野宮に入り1年間
>潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡
>明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだ。




>野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の
>代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の
>鎮座地に野宮が作られるようになった。斎王の
>制度は南北朝時代、後醍醐天皇の代の祥子
>内親王を最後に廃絶し、その後は天照大神を
>祀る神社として存続していたが、度重なる
>戦乱の中で衰退した




>後に後奈良天皇、中御門天皇らの綸旨により
>再興され、現在まで皇室からの厚い崇敬を
>受ける。源氏物語「賢木」の巻の舞台とされ、
>謡曲「野宮」の題材ともなっており境内
>各所に案内板が設けられ授与される御守にも、
>それらをモチーフにしたものが見られる。




>鳥居は樹脂加工がされており、樹皮がついた
>ままのクヌギの原木(徳島県剣山産)を使用し
>作られた貴重な「黒木の鳥居」で、形として
>のみは日本最古の鳥居形式を伝えている。
>また、脇に備えられた垣根は、クロモジで
>作られた小柴垣であり、




>鳥居とともに源氏物語作中での風景描写と
>して描かれた往古の潔斎空間の風情を醸し
>出している。苔を用い嵐山を表した美しい
>庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」を
>はじめ、モミジ・椿・石楠花・馬酔木などが
>境内を彩り、




>季節毎にその表情を変え参拝者を楽し
>ませる。境内社の野宮大黒天は縁結びの
>神として有名で、大黒天に参詣し、その
>横の「お亀石」をさすれば願いが叶うと
>言われ、多くの参拝者の祈願によって
>美しく黒光りしている。




と、言ったわけで次ぎは嵐山でというよりも
京都にやってきた外国人観光客が、こぞって
やってくるという竹林の道だ。ここ最近にも
私も2度ほど出かけたが、外国人がぞろぞろ
歩いていて、風情もへったくれもない




最近はSNSやネットで、人気が火が付く
場合も多く、名古屋では栄オアシスの
ライトアップが外国人観光客に人気がある
そうだが、京都では東山界隈とか伏見稲荷と
並び、ここも大人気である




まるで昔の嵐山に戻ってきたような風情
このあたりは王朝貴族の別荘などが建て
られていたそうで、ここに因んだ和歌も
多く、小倉百人一首もここで編纂をされた
そうである




>嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野
>(現在の京都市右京区嵯峨)に建てた別業
>(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の
>和歌を1首ずつ揮毫して欲しいとの要望を
>受けて、定家は天智天皇から順徳院に至る
>までの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで




>頼綱に対して書き送る。後に、これが定家が
>小倉山で編纂したことに因んで『小倉百人
>一首』という通称で呼ばれるようになった。
ウィキペディアより転載

本来は、渡月橋のかかる桂川の右岸が嵐山
左岸は嵯峨であるそうだが、観光的にはこの
あたりも「嵐山」って言っちゃてますね




天龍寺のある地名も、ウィキペディアでは
>天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市
>右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきの
>ばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派
>大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)




>寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎ
>ざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。
>本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、
>開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利
>将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都
>五山の第一位とされてきた




>天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の
>皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その
>後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に
>後嵯峨天皇(在位1242年 – 1246年)とその
>皇子である亀山天皇(在位1259年 – 1274年)は
>離宮を営み、「亀山殿」と称した




>足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺
>統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を
>寺に改めたのが天龍寺である。(略)足利尊氏は、
>後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に
>反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は
>尊氏追討の命を出している




>いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に
>際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に
>強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を
>受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺の
>建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船
>(寺社造営料唐船)が




>天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が
>仕立てられたことは著名である。落慶供養は
>後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に
>行われた。天龍寺は京都五山の第一として
>栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の
>嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大な
>もので、子院150か寺を数えたという




>しかし、その後のたびたびの火災により、
>創建当時の建物はことごとく失われた。
>中世に6回も火災に遭っている。応仁の
>乱による焼失・再建後、文禄5年(1596年)
>慶長伏見地震にて倒壊




>その後しばらくは安泰であったが、江戸
>時代の文化12年(1815年)にも焼失、
>さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の
>変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存
>伽藍の大部分は明治時代後半以降のもの
>である。




結構、京都の中心から離れているのに
ここも、戦乱などに巻き込まれていた
のか。仏殿は新しくなったものであるが
王朝の昔を今に残しているのが




夢窓疎石の広大な庭園である。詳しくは
↓の立て看板を読んで下さい。岐阜県の
多治見市にも夢窓疎石のお庭が残された
寺院があるので、昔から親しみ深い方だ
ここの他に残された庭園の名をあげると




西芳寺庭園、京都市。世界遺産、国の特別名勝
天龍寺庭園、京都市。世界遺産、国の特別名勝
永保寺庭園、岐阜県多治見市。国の名勝
瑞泉寺庭園、神奈川県鎌倉市。国の名勝
恵林寺庭園、山梨県甲州市。国の名勝
覚林房庭園 、山梨県身延町。町指定文化財ほか




>夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代末
>から南北朝時代、室町時代初期にかけての
>臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を
>木訥叟。尊称は七朝帝師(しちちょうていし)
>宇多天皇9世孫を称する。建仁寺の無隠円範
>らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の




>首座となったものの印可に至らず、のち
>浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖
>後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を
>受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。
>以降、入滅後も含めると計7度の国師号を
>授与され、後世には七朝帝師と称えられる。




高さ2メートルもある硯石は、鈴木松年氏が
明治32年に法堂に雲龍図を描いた時に墨を
摺った硯石だそうで、書画が上達するご利益が
あるといわれてます




中国から伝来したという平和観音の前にある
愛の泉は80メートル地下から湧き出る霊水
なんだとか。という訳で、嵐山をうろついて
次に向かったのは・・・   つづく




      2020年3月7日に京都で撮影

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最終更新日  2020年09月28日 12時15分32秒
コメント(52) | コメントを書く
2020年09月23日
カテゴリ:京都の旅


​※今回の日記は3月上旬のものです※

さてさて、今春に娘と岐阜城に出かけた
時の日記を、ここで紹介した事があるが
実はそのまま岐阜から、京都へと足を
延ばしていたのだ。その当時、都会では
クラスターなど数十人程の感染だったが
岐阜県は2名、京都は8名と少なかった




本当は、懸賞で当たったUSJ大阪に行く
予定だったが、数日前に閉園となっていた
既に、その旅行の為にJR東海のぷらっと
こだま(帰り用)と、青春18きっぷとを
2万円程で購入していたので、これって
どうしよう・・・




青春18きっぷは、金券ショップで少し
安く買ったけど、これ他人がクレジット
カードを利用したのを、持ち込んだもの
だから、未使用でも換金など出来ないし
旅行会社で購入をしたぷらっとこだまも
既にキャンセル料が必要な時期だった




USJ大阪には今回は行けないが、これは
関西方面に予定通り、行くしかないなっと
もともと次の日には京都に行く予定だった
ので、ぷらっとこだまは京都からのもので
感染者も少ない京都なら大丈夫そう




それに海外のお客さんでごった返して
いた京都が、昔のように静かさを取り
戻しているというのも、逆にチャンス
なのかもしれない。関ヶ原の駅には
このような車両がいた




USJ大阪最寄りのホテルは、無事に
キャンセル出来たので、かわりに京都
駅付近のホテルの予約をするが、当然
だが、かなりお得な宿泊料金だった

伊吹山を過ぎると関西に来た感じがする




米原駅の近くには、新幹線高速
試験車両保存場がある。公開は
してないみたいだが、特別公開も
するらしい




これも何かの実験研究とかするもの
だろうか




彦根の伊佐山城は、石田三成の居城だ
その真横を通るので、いつもカメラを
向けてしまう




JRの彦根駅の真横には近江鉄道。ここは
西武系なので、西武鉄道のお古の車両も
走っているそうだ。西武の創業者は滋賀県
出身である




安土駅近くの安土城郭資料館。近くに
織田信長の安土城址もあるが、行った
事がない




大津の瀬田川? 京都も間もなくだ




という訳で京尾駅に到着。真ん前には
京都タワーが西日を受けて、まるで
和ろうそくみたいだし




巨大な京都駅では、ついつい上を
見上げてしまう




この巨大な階段も、脇にエスカレーターも
あるので、一度は一番上にまで行く




そこの展望台から夕暮れの京都市街を
眺めてみる




落日時に間に合い、西の空が色鮮やかな
茜色となり、のちに夜の帳が下りてきた




私の子供時代はかなり複雑なものでして
15室位ある大きな田舎家に、子供の
いない伯父夫婦、両親、伯父夫婦の養子に
なっている長兄親子と大所帯だった




私は親が40歳位の子だったので、兄姉
よりも甥姪の方が年が近くてサザエさんの
ワカメちゃんみたいなものかな




その叔母の父親は、この家から養子に出ている
そうだし何が何だか。江戸中期からの農家で
実家は10代を越えているが、何でも長男が
家を継げないジンクスがあるそうで




元が先妻の子が大人になったので家に残して
後妻と家を新たに建てたから、その因縁では
ないかとも言われている




幕末のご先祖なんぞ、長男と次男のどちらも
養子に出して娘に婿を取って、この家を継いだ
そうだし。その前には本家が後継ぎがおらず
うちの長男が養子に行った事もらるらしい




まっ長兄も三男の長男だし。娘は嫁に行って
外孫いるけど、息子二人は40歳過ぎで独身
既に親もいないし、兄嫁は新興宗教に凝って
いる事もあって




私も行く事も殆どない。近くのスーパーで
顔をあわす位だ。千葉の次兄の家に行く方が
多いくらいか? 今夏も東京オリンピックが
あれば姉とのぞく予定でいたが延期になって
しまったし




私が小学校に上がったころから、教員
だった父親が寝付く事が増えて、長期
入院などもして経済的に、恵まれては
いなかった。次兄は京都大学に入学を
したが、バイトなどで賄っていたようだ




結局、父親は糖尿病による合併症などが
悪化し、最後は入院中にストーブに乗って
いたやかんをひっくり返して、その湯を
浴びて重度の火傷で死亡をした。そんな事
から、子供の頃には家族旅行は無縁だった




幼稚園の頃に日帰りの地元の日帰りバス
旅行に、母親と善光寺に行ったのが最初で
次は子供会で名古屋城へ行った覚えがある
お泊りは母親の長兄親子と大阪の妙見山と
母親の次兄親子と福井に海水浴というのが
初めての海




母親とは父親が入院する名古屋の病院に
見舞いに行ったのが、2回位なもので
あと、京都にいる次兄のところに遊びに
行った事があっただけ。京都タワーでは
かっぱ寿司を食べた覚えがある




後は修学旅行で奈良、京都、広島といった
あたりか。母親とは姫路&京都、明治村に
学生期に行った事がある。これだけかなぁ
で、20歳頃になると1980年代に突入し
世の中はバブル!




郵便貯金の金利も、国債も10年も持てば
倍増する時代で、長兄に勧められて母親は
国債のほかに、株なんかも持っていたので
多少なりとも金銭的には恵まれていた。私も
少しの間だけど働いていたし




母親と二人で100万円のヨーロッパ
周遊旅行はフランス、ドイツ、スイス
オーストリア、オランダ。北海道旅行
九州旅行などなど。桜の頃の吉野山や
京都哲学の道なども出かけた。友達と
奈良ホテルとか、正倉院展にも毎年の
ように出かけた




旦那とは22歳の時に結婚して、初の
旅行先は東京ディズニーランド。家族
旅行は定番の関西の他に、倉敷、尾道
鎌倉、伊豆、北陸で海水浴・・・更に
懸賞スタートですよ




テレビのなすびの懸賞生活に触発をされて
懸賞を始めて半年もたたずスペイン旅行が
あたり娘と。息子とはイタリア旅行。旦那と
ハワイ旅行。姉と韓国旅行、姪と韓国旅行
といった感じの頃もありました




今は娘と二人で出かける事が多いです。で
この時も娘と出かけた京都でして、昼飯が
午後遅かった事から、夕飯代わりに和風
パフェでも食べようという話になって
先ほどの階段の上部にある




拉麺小路の入り口にある「茶筅」で抹茶
パフェを食べました。海外からの観光客も
増えて京都には、新しいホテルも幾つも
出来ていて、新型コロナで大打撃を受けて
いる訳ですが




今回泊まったのは、京都駅から少し南に
下ったところの「ホテルアンテルーム
京都」で、10年程前に学生寮をリノ
ベーションしたものでして




ホテル内はアーティストの作品が飾られた
ギャラリーや、落ち着いたバーなどもあり
こじゃれています




廊下すらも異空間な感じです




まるで自分の部屋にでもいるような
リビングを備えたお部屋でして




清潔感もあるし、素敵なホテルでした
こんなホテルが、3月には二人で僅か
5600円で泊まれました




今はGOTOキャンペーンもあって
宿泊料金も、通常期のものに戻って
いるかもしれませんが、春のホテル
料金は、すごい事になっていました
照明もかっこいいや




ホテルの部屋から東の方を。この辺り
普通に住宅街。2日目にもこの近くの
ホテルに泊まるので、チェックアウトを
してから、そちらに事前に荷物を預けて




地下鉄でやってきたのは京都のど真ん中
四条烏丸です。ここにやってきた理由は
モーニングです。ネットで調べたお店が
おばんざいが手軽に食べれて、なかなか
良さそうで。外観写真、撮り忘れました




「京菜味のむら烏丸本店」は朝早くから
開いていて、おばんざいの小鉢を好きな
ものを4つ選べて、ご飯と味噌汁が付き
650円です




娘は、ご飯を湯葉丼にランクアップを
したもので850円。しかも食後には
セルフでコーヒーなどもいただけます




↓1916年の建築で、東京駅や日本銀行の
設計もした辰野金吾氏の設計による、旧
北國銀行の建物。てな訳で新型コロナの
影響が出始めた、3月上旬の京都の旅は
続きます




    2020年3月6.7日に京都で撮影

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最終更新日  2020年09月23日 15時36分25秒
コメント(57) | コメントを書く
2019年07月16日
カテゴリ:京都の旅


​日帰り旅だった割に、中身が濃かったので​
3回に分けての旅日記。今回は伏見稲荷の
後半戦と、八つ橋屋さんへの立ち寄りを
紹介したいと思います。更に帰路では・・・




前回のスタートに紹介をした表参道にある
大きな鳥居の下の狐の像は、本当は参拝の
後の帰り際に立ち寄っただけで、実際には
北側の神幸道(浦参道)から、伏見稲荷に
向かいました




きゃ~、なんだこれは!といった混み具合で
千本鳥居は、人だらけになるんじゃないかと
心配をしたが全員がそちらに行く訳でもなく
知らないのかな? 興味がないとか? 鳥居は
願い事が「通った」というお礼で奉納される




千本鳥居とか言うが、実際には奉納をされた
鳥居の数は1万基位あるらしい。そんなお金は
ないというなら、気軽に、鳥居の絵馬を買って
奉納するのも良いかもしれない。朱色は魔を
防ぐと言うが、伏見稲荷では稲荷神の力である
豊穣を表す色であるそうだ




白狐さんの絵馬は馬みたいなのや、ジャニーズ
みたいなのも、思い思いに描かれている。時間が
あれば、私もイケメンのお狐様を描きたいのに
羽生ユズや及川ミッチーとか、星野ゲンあたり
かな。お公家さんの烏帽子が似合いそうな気も




さてさて奥社参拝所の境内には、おもかる石が
あり、願い事をしてから石を持ち上げて思った
よりも軽いと感じれば願い事が叶うし、重いと
感じれば叶わないというので、幾人も並んで
順番を待っていた




私も持ち上げてみて、軽くも重くもなくって
ま、これ位だろうな~ってのはどんなもん
でしょうね。業の深い人はどんな力持ちでも
持ち上がらないんだとか




こちらは利き腕でない方で、小石を投げて
うまく穴を通れば願いが叶うという「投げ
石占い」で、こちらはやらなかった。利き
腕でも入りそうもないし




江戸期の国学者で伏見稲荷大社の社家の出の
荷田春満(かだのあずままろ)を祭っている
春満は賀茂真淵の師であり、本居宣長らと並び
国学の四大人の一人でもあるそうで、学問の
神様となった




前回のコメントで、お稲荷さんは怖いというものが
あったが、これは神仏習合の荼枳尼天(だきにてん)は
白狐に乗る天女の姿で表されるが、起源であるインドの
ダーキニーは裸身で虚空を駆け、人の心臓を食らう夜叉で
あった為である(なんだか鬼子母神を思い出す)無論
大日如来(毘盧遮那仏)が化身した大黒天にの霊力に
心服して善神となり、名だたる戦国武将が信仰していた




あとお稲荷様は願い事が叶うと、ちゃんとお返しを
する必要があると言われ、それで伏見稲荷大社でも
沢山の鳥居が建っている訳だが、私の子供の頃も
失くしものを探す時に、近くのお稲荷さんで願って
出てきたら油揚げを(袋から出し)お礼にお供え
していた




日本三大酒どころといえば、兵庫の灘に
広島の西条、そして京都は伏見という訳で
月桂冠や松竹梅、黄桜など全国でも名の
知れた日本酒の酒蔵が並ぶ。でも大関や
白鶴、沢の鶴とかは灘のお酒だけど。その
飲み口の違いから灘はキリッとした辛口の
男酒で、伏見は柔らかな甘口の女酒らしい




明治期に建てられた能舞台(神楽殿?)では
この後に、ちょっとした神楽?の演奏がされ
演者の写真&動画撮影は禁止だった




何やら、由緒ありげな日本家屋があった
↓詳しくは、このような感じだそうである
社家(しゃけ)についてウィキペディアに
よると・・・・




>社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々
>特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家
>(氏族)のことである。明治維新後、現代まで
>世襲している神職家のことをいう。

有名なのは出雲大社の千家で天穂日命を初代とし
84代の千家尊祐氏の長男である、千家国麿氏が
高円宮憲仁親王の次女の典子女王と結婚をされた




伏見稲荷大社の社家の場合、前に紹介した
荷田氏と、渡来系の秦氏の両家の分家を合わせ
15家があった。3家は境地に居住し、12家は
社頭に居を列ねたそうだ




現存する旧社家は大西家である。そうそう海外の
人に千本稲荷が知られたキッカケだが、ネットに
よるとチャン・ツィイー主演の映画「SAYURI」で
主人公が子供時代に、ここを駆け抜けるシーンが
あったからだとか



↑ユーチューブ予告編でも千本鳥居のシーンがある
他に嵐山の竹やぶも出てくるし。それにしても中国
女優がゲイシャを演じるとは・・・




伏見では粘土を産しており、古くから土師器が焼かれ
稲荷山の土に物を利する霊験があると言われ、江戸期
には、京都を経由する旅人や商人、西国大名の参勤交代
行列により伏見人形は日本各地に伝わって、それぞれの
土地の土人形・郷土玩具の原型となったそうだ。蔵元は
かつては数十あったが衰退し、今では「丹嘉」一カ所
だけらしい




伏見稲荷の名物グルメは小鳥の丸焼き(雀)
だけど、それは苦手なので、ガイドブックで
見つけた、いなり煎餅を購入する事にした




キツネのお面は、よく名古屋のどまつりで
豊川方面の踊り手が、つけていそうな感じ




鳥居のマスコットの横には、相撲レスラーの
Tシャツがどすこい。名古屋場所が始まって
いるが大関が次から次に離脱で、結局は
横綱になってしまうのか




こちらはJR奈良線の電車で




踏切では、レンタル着物女子も待っていた




そして今度の踏切は、京阪本線の電車のだ




踏切の横にあった京阪電車の伏見稲荷駅には
こんなカワイイ、看板キツネがちょこんと
お出迎えしてくれていた




駅横には、どど~んと白狐のコインロッカー




白狐の自動販売機




駐車場の近くには忍者~。特に伏見稲荷に
関係もないと思うが、外国人受けするの
だろう。でも近くの伏見城には甲賀忍者も
馳せ参じているそうだから、まっいいか




そういった訳で、最後に立ち寄ったのは
お買い物タイムと言う訳で、江戸後期の
文化二年創業の老舗「井筒八つ橋本舗」だ
生チョコレートとか生キャラメルと同様で
本来の八ツ橋はカタイおせんべいであった
箏曲の祖である八橋検校を偲び箏の形を
模したことに由来するとする説や




伊勢物語の第九段「かきつばた」の舞台である
「三河国八橋」にちなむとする説などがあり
聖護院八ツ橋総本店、本家西尾八ッ橋、聖光堂
八ツ橋總本舗、八ツ橋屋西尾為忠商店、おたべ
といった総本店や本家や本舗がいろいろ・・・
「夕子」は、 水上勉の小説「五番町夕霧楼」の
主人公、片桐夕子から名付けられたそうだ




京都八つ橋商工業協同組合に属すのは14社で
聖護院八ツ橋総本店のお嬢さんが伏見の酒蔵の
御子息と結婚したとか、昨年の葵祭の斎王は
本家西尾八ッ橋のお嬢さんだとか京都において
かなりウェートの高い業界、お家柄らしい




うちの娘はあんこが苦手なので、短冊形の生の
八つ橋や、カタイ本来の八つ橋の方が好きだ

店舗の前のお水だが、ちょっと読みにくいが
↑こんなお水らしい




店の前にはなぜだか坂上田村麻呂

像についてネットニュースに紹介がしてあった
のでリンクを↓。詳しくはこちらをご覧ください
「滋賀と京都が一丸に」 坂上田村麻呂像が除幕式




そして天智天皇(中大兄皇子)の石像もあった
白村江の戦いで大敗し、飛鳥より近江国大津に
遷都をした天智天皇は、「扶桑略記」によると
馬で山科に行き行方不明になり、そのまま戻ら
なかったとされ、沓が見つかった山科に陵墓が
造られたと言われてもいる




>東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭
>茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624-
>1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は
>信仰の一環として描かれたものであったが、やがて
>世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・
>風刺的な道歌を伴うようになった。ウィキペディアより




八つ橋の他に大津絵も売っていた。ちょっと欲しかった




>大津算盤(おおつそろばん)は、日本式のそろばんの
>ルーツ。かつては「算盤といえば大津、大津といえば
>算盤」と全国的に名を馳せた。現代のものと異なり、
>五つ玉が2つある。(中略)現代において生産高8割を
>占める播州そろばんは、 天正年間の三木城落城に
>際して大津に避難してきた人々が、技術を習得し
>持ち帰ったものである。     ウィキペディアより




江戸期の京都付近の街道は、人や馬の通る人馬道とは
別に、二列に花崗岩の車石が敷かれている一種の軌道
(車道)があり、その上を牛車の車輪が通ることから
輪通り石、輪石、輪形石などと呼ばれていた




石の右上に恵比寿さんが浮き出ているそうだ
こうして宝石店、宇治で昼食、伏見稲荷大社
井筒八つ橋本舗追分店(本店は京都祇園)と
まわって、京都東インターからバスは名神に
入ったが




10分もしないうちに大渋滞となり、全く
動かなくなってしまった。すぐ先で、外国人
観光客を乗せた大型観光バスが渋滞する車列の
最後尾に突っ込み、死傷者も出た大事故が起き
救急車や消防車が幾台も路側帯を走って行った
遠くに赤色灯が見えるくらい事故現場は近くで
あと時間が少し違えば、事故に巻き込まれて
いたかもしれない




2時間程の通行止めとなったが、1時間ほどして
すぐ横の草津パーキングエリアにバスが駐車した
のでトイレなどの心配はなかった。通行止めが
解除されると、パーキングエリアから本線へと
戻ったので、事故の現場を通過する事もなかった
本当に事故は他人事じゃない。今回も500円の
任意の保険に入ったが、これからも保険はかけて
おこうと思った




予定よりも2時間程遅くなって、夜遅くに自宅に
到着。無料で貰ったのはパックシートが3枚と
八つ橋1つ




自腹で購入したのは井筒の八つ橋と、生八つ橋
蕎麦ぼうろと、伏見稲荷で購入したおみくじの
入ったいなり煎餅。最後にお稲荷さんに油揚げを
お供えするというのの由来は、ウィキペディアに
よれば




>俗に「キツネの好物」とされ、故に稲荷神には
>油揚げを供える。キツネの好物とされた由来には
>諸説あるが、昔話などではキツネの好物はネズミの
>油揚げとされており、殺生を禁じた仏教の影響も
>あってかわりに豆腐の油揚げを供えたものという。




               令和元年5月24日に京都で撮影

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最終更新日  2019年07月16日 22時35分12秒
コメント(62) | コメントを書く
2019年07月11日
カテゴリ:京都の旅


​​コンコンコン!と、このキツネが見たいと
思っていた。伏見稲荷は以前にも何度か
出かけた事があるが、いつも京阪電車の
伏見稲荷駅からのルートで、このキツネの
像のある入り口には行った事がなくって




ガイドブックか何かで、伏見稲荷の紹介で
このキツネの像が載っているのを見つけて
一度、見てみたいなぁと思ってましたが
今回は見つけられましたよ。口には金色の
稲穂が・・・なかなか愛らしい顔をしてます




こっちは前回で紹介したJR奈良線の稲荷駅の
目の前にあるようですね。真横には大っきな
鳥居があります。それをくぐって参道へと




かなりの参拝者がおいでになるようですね。既に
インスタ映えをすると、外国人観光客からは日本
有数の観光スポットでしたし、修学旅行の生徒や
日本人団体客などなど・・・




さて今回のバス旅行では、徒歩10分近くはかかる
観光バス用の駐車場で下車して、ほとんど一本道を
自分たちで伏見稲荷(途中まで添乗員さんが引率)
まで出かけ、集合時間前に下車した観光バス駐車場
まで戻ってくるという自由行動で、時間も少し長め




あまり広いとは言えない、街中の観光バス駐車場は
次から次へと団体バスがやってくるので、下車時に
10分以内に駐車場から出て、他の所で時間を潰し
今度は集合出発時間の10分のみ、また駐車場に
入車が出来るというシステムで




添乗員さんから、早く戻ってきてもバスはいないし
絶対に、集合時間には遅れないようにして下さいと
念を押された。伏見稲荷までは迷う事はないにしても
途中に京阪電車とJRの線路の踏切があるので、その
あたりの時間も考えて戻ってくる必要がある




日本人は神社もお寺も、教会すらもあんまり
抵抗のない宗教観だから、神社も平気で参拝を
してる人が殆どだと思うけど、様々な宗教を
持つ海外の皆さんは神社仏閣、どんな気持ちで
参拝されてるんだろう




やっぱり文化財みたいな感じで、参拝ではなく
鑑賞目的なのだとは思うが、伏見稲荷は京都の
世界遺産には選ばれていない。赤い鳥居での
写真がSNSで話題になって、海外の皆さんが
押しかけているのだけど




京都での世界遺産の神社仏閣は、次の通りで
賀茂別雷神社(上賀茂神社) 賀茂御祖神社(下鴨神社)
教王護国寺(東寺) 清水寺 延暦寺 醍醐寺
仁和寺 平等院 宇治上神社 高山寺 西芳寺(苔寺)
天龍寺 鹿苑寺(金閣) 慈照寺(銀閣) 龍安寺 
西本願寺 二条城




唯一、苔寺だけ行ったことが無い。ここは予約も
必要だし、拝観料もお高い事もあって、なかなか
行こうという気持ちにもなれなくて。修学院離宮や
桂離宮とかも事前に予約が必要だが、無料なので
しっかり出かけた事がある




うちの息子など友達と奈良に出かけた時に、東大寺
大仏殿の前まで行きながら拝観料が高いので、入るの
やめたそうで、あそこまで行きながら~。奈良まで
行ったのに・・・と呆れたものだが




わざわざ海外から京都へやってきた観光客には、予約も
必要なく、参観時間もなく、しかも無料で、アクセスも
良い神社は良い観光先であろう。ここ伏見稲荷と他にも
八坂神社とかは、私も近くに行くとまず参拝をさせて
貰っているし・・・




さてさて、寺の門には阿吽の仁王さんがおいでになるが
神社では「随身像(ずいじんぞう)」となる。向かって
右が左大臣で、左は右大臣だそうで、左大臣の方が高位
なので老人の姿をしており、右大臣は若かったりもする
仁王同様に阿吽の口元をしているが、これは




ウィキペディアによれば
>阿吽(あうん、サンスクリット語: अहूँ 、a-hūṃ)は
>仏教の真言の一つ。古代インドのサンスクリットの
>悉曇文字(梵字)において、a(阿)は全く妨げの
>ない状態で口を大きく開いたときの音、m(hūṃ、
>吽)は口を完全に閉じたときの音である。




>悉曇文字の字母の配列は、口を大きく開いたa(阿)
>から始まり、口を完全に閉じたm(hūṃ、吽)で
>終わっており、そこから「阿吽」は宇宙の始まり
>から終わりまでを表す言葉とされた。宇宙のほか
>にも、a(阿)を真実や求道心に、m(hūṃ、吽)を
>智慧や涅槃にたとえる場合もある。




>阿吽は宗教的な像にも取り入れられ、口を開けた
>阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の
>一対の像は、神社の狛犬(本来は獅子と狛犬の一対)
>などにみられる。また、寺社の金剛力士像(仁王像)や
>沖縄のシーサーなどにも口を開けた阿形と口を閉じた
>吽形がみられる




キツネばかりの伏見稲荷でも、普通の神社のように
狛犬もいた。さてさてお稲荷さんでキツネがいるのは
前回の宇治神社でのウサギみたいなエピソードでも
あるのだろうか。そんな訳で伏見稲荷大社について
ウィキペディアにどう書いてあるかを紹介すると




>伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府
>京都市伏見区深草にある神社。旧称は稲荷神社。
>式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。
>旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない
>単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を
>神域とする。




>全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社
>である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を
>集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧
>社家は大西家。祭神は以下の五柱。これらの神々は
>稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている




>主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦
>大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年
>(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中
>大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの
>社殿に合祀する形)に祀っている




>稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が
>下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・
>芸能上達の守護神としても信仰されるようになった
>摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒が
>はっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と
>何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神
>的傾向が濃厚」としている




>下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおり
>田の神ではないかと考えられるが、かつては大己貴神や
>猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視された。中社の
>摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の
>神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かって
>いない




>「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったと
>されるものが有名である。(中略)秦氏と賀茂神社との
>関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを
>伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で
>作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請
>すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、
>五穀が稔って国が富んだ、とも伝えている。




>上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の
>表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが、
>『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月
>辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた(中略)
>また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』では(大意)
>ある書物では、100年の昔の和銅年間から竜頭太という
>者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を
>耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。




>その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり
>夜でも昼のように明るかった。姓は荷田、名は竜頭太と
>いった。これは稲を背負っていたからという。(中略)
>空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは
>収穫が絶えることがなくなった。この面は東寺の
>竃戸殿に祀ってある。




この竜頭太という山の神こそが、稲荷神であるそうだ
ちょっとまて。弘法大師は出てきてもキツネは出て
こないという事で、ウィキペディアで続きを・・・
>稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、稲を象徴
>する穀霊神・農耕神。「稲荷」とは食物の神(ウカノ
>ミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司
>旅芸人が町回りで立てる細長い旗などを指す言葉。




>「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の
>姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。
>もとは古代社会において、渡来民の秦氏から伝わった
>氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって
>信仰も広まっていった。本来の「田の神」の祭場は
>狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の
>穴)だったと推測されるが、




>近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が
>広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。五穀を
>つかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視される
>ことから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社では
>ウカノミタマを主祭神としている




>稲荷は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業
>全体の神として信仰されている。稲荷神は神仏習合
>思想において仏教の女神である荼枳尼天とも習合した
>ため、仏教寺院で祀られることもある。稲荷神を祀る
>神社を稲荷神社と呼び、京都市伏見区深草にある伏見
>稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本宮
>となっている。伏見稲荷大社では、狐は稲荷神の神使と
>される




>伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのもの
>ではないと述べていたり、また最上稲荷は白狐を稲荷神
>(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べて
>いたりするように、一般的に寺社においては祭神と狐は
>区別されている。民間伝承においては、稲荷と狐はしば
>しば同一視されており、例えば『百家説林』に「稲荷と
>いふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌が
>記されている。




>また、稲荷神が貴狐天皇(ダキニ天)、ミケツ(三狐・
>御食津)、野狐、狐、飯綱と呼ばれる場合もある。 日本
>では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、稲荷山も古くは
>蛇神信仰の中心地であったが、平安時代になってから
>狐を神使とする信仰が広まった。稲荷神と習合した宇迦之
>御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の
>古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と
>当て字したのが発端と考えられ、




>やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、
>「三狐神」は「サグジ」とも読む。かつて「シャグジ(石神)」
>または「三狐神(シャグジ)」であった岩屋(神)が、後に
>稲荷神・ウカノミタマを祀る神社となった事例もある。時代が
>下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の
>格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と
>呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。




>上記されているように稲荷神は元々は農業神であるが、
>狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や
>尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の
>使いに位置付けられたとも言われる。江戸時代に入って
>稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるように
>なった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、
>流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。




>また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、
>稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に
>祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である

と言った事らしいです。ハイ・・・・。といった事を
長々、説明しているうちに写真は有名な千本鳥居へ




このフォトジェニックな朱色の千本鳥居が大人気で
トリップアドバイザーで日本の観光地ランキングでは
1位を誇っている(2位は広島の原爆資料館)。海外の
方の姿も多かったけど、老若男女を問わずたくさんの
人で、この子たちは修学旅行中の男子学生みたいだが
レンタル着物で京都をまわるのも楽しそう




あちらの着物のお嬢さんは、海外からのお客様の
ようだ。外国の若い人に日本が人気なのも、この
レンタル着物も一役買っているのかも。気候的に
京都は夏はむちゃくちゃ暑いし、冬は底冷えだし
桜の春に、秋の紅葉。5月も観光には適していた
しかもかなりの良い天気




日差しが鳥居の隙間から、差し込んで良い感じだし
たくさんの人が訪れる伏見稲荷の鳥居だけど、狭い
一方通行の千本鳥居の奥の方も、ずっと鳥居が続き
そちらの方は人も少ない。まず海外の皆さんだけだ
千本鳥居も、人がぱっと少なくなるタイミングも
あったりするし、私はぐるっとまわってきて入口
からもう1度・・・




前に紹介した境内図にあるように、社殿の背後にある
標高232メートル。一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰と三つの
峰がある稲荷山が神体山で、朱色の鳥居で結ばれた先に
様々な神様が祭られている。千本鳥居の奥にあるのが
奥社参拝所(奥の院)からお参りが出来る




前に娘と稲荷山をぐるっと参拝をさせて貰ったが
今回はそのような時間がないので、ここまでで
引き返すことにした。と言っても千本鳥居をもう
一度、ぐるっと出来るだけの時間はあったけど




表からなだと朱色だけで無地な鳥居も、帰りに
裏側から見ると参拝者の名前と、奉納した日が
書かれている。人の名前の入っているのとかは
どうもなぁ~と思うところだが、漢字の読めない
海外の方は、漢字がクールだとこちらの方が人気
だそうだ




ウィキペディアによれば
>鳥居(とりい)とは、神社などにおいて神域と人間が
>住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への
>入口を示すもの。一種の「門」である。稲荷神社などの
>鳥居が朱色であるのは、古来その色が生命の躍動を
>表し災いを防ぐとして神殿などに多く使われたためで、
>これが鳥居にも影響しているとされる




>鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源に
>ついてはっきりしたことは分かっていない。単に
>木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると
>考えられる。文献に徴すれば古くは「於不葦御門
>(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳)と
>称して、奈良時代から神社建築の門の一種として
>いる。いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立
>している。




と言った訳で、前回にもましてウィキペディアに
よる説明文ばかりになってしまって申し訳がありま
せんでした。稲荷や狐、鳥居については少しは興味
持たれたでしょうか。中身が濃すぎる無料招待の
日帰りバス旅行、まだ1回あります! ではでは




            令和1年5月24日に京都で撮影

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最終更新日  2019年07月11日 22時58分53秒
コメント(74) | コメントを書く
2019年07月02日
カテゴリ:京都の旅


さてさて前回の懸賞当選報告でも、少し紹介​
しました、いつもの日帰りバス旅行無料招待
いつものように一人で出かけたけど、今回も
とても良い方がお隣で、楽しい一日でしたよ




まずは、お決まりの宝石屋さんで90分間の
ショッピングタイム。誕生石クイズで当たり
パックのシートを今度も貰いましたが、お隣の
奥さんも当たった♪と、ニコニコされてました
この宝石は、コンクールとかに出すやつらしく
撮影が出来る入口の部屋で




今回はお買い上げになった方がいるらしく
その手続きなのか、バスの発車が遅れたので
先程のパックのシートをバス全員にも配って
くれました。バスは木曽川を超え名神高速を
西へと向かい




昼頃には、昼食場所の京都の宇治に到着!
家族旅行などを含めて、宇治は今までに
数度は来ているが、嵐山同様に風光明媚で
いいところだなぁ~




川の畔の喜撰茶屋で、団体料理を
いただきますが、今までは早くに
食べても、土産物屋を見物する位
でしたが、ここならお散歩に行け
そうだし!




お店のホームページを見たところ、たぶん
1500円位のお料理かな。冷たくなった
天ぷらは湯豆腐に投入し、温かで美味しく
なりました。お散歩時間確保の為に早食い
しちゃいまして




集合時間までの時間はありますし、早足
ではありますが、宇治の散歩に行くぞ~
宇治に来ると、平等院が満足度が高いし
抹茶パフェとか食べに行くので、実の話
川の向う(東側)は行った事が無いのだ
まずは朱色の喜撰橋を渡る




鵜飼いと言えば、岐阜市の長良川が有名
だけど、ここ宇治でも鵜飼をやっている
ようだ。私は岸からだけど以前に嵐山で
泊まった時に、遠くから鵜飼を見た事が
ある




お~~、鵜がいるよ♪ 鵜飼について
ウィキペディアで、紹介させて貰うと

>鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を
>使ってアユなどを獲る、漁法のひとつ。中国、
>日本などで行われていた。現在では漁業という
>より、観光業(ショー)として行われている
>場合が多い。 また、ヨーロッパでは16世紀
>から17世紀の間、スポーツとして行われた。




>鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の
>条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを
>問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、
>此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部の
>ことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った
>歌謡が載っている。




>天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある。
>また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の
>条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法と
>して『以小環挂鸕鷀項、令入水捕魚、日得百餘頭』
>(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と
>記されている。




>延喜年間(901年 - 923年)には長良川河畔に
>7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁により鮎が献上
>された。そして、それを時の天皇が気に入り、
>方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料として
>賜り、鵜飼七郷と読んだ




>『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、
>『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰
>美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。
>文明年間(1469年 - 1486年)、一条兼良が
>美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録が
>ある。




>永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の
>鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を
>授け鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵を
>当て、給与した。

う~む、古くから鵜飼されていたんだ。しかも
美濃国の長良川河畔でされていたとは。岐阜県民
だというのに見物したことが無い




「浮島」「浮舟ノ島」などの人工島の一つである
「塔の島」には、現存をする近世以前の石塔では
日本最大(約15.2メートル)の十三重石塔が建つ
これは鎌倉時代に、宇治橋の大掛かりな修造がされ
宇治川の川中島として、大橋の南方に舟を模した
人工島を築き、放生会を修する祈祷道場とした




宇治川で漁撈される魚霊の供養と、橋の安全の祈念を
旨にして島の中央に大塔婆が造立されたそうである
島は宇治川の氾濫にも耐えて、激流に浚われる事が
無く「浮島」「浮舟ノ島」と呼ばれるようになったが
大塔は氾濫の被害を受けて、倒伏と修復を繰り返し
江戸時代に起きた氾濫で倒伏し、川底の泥砂に埋もれ
明治末に発掘されて再建をした。国の重要文化財だ




近江より奈良へ帰る途中、宇治川付近で歌われた
柿本人麻呂の歌碑があった。「宇治川の網代木で
一時停滞し、やがて行方知らずとなる波のように
滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったい
どうなったのであろうか」との意で、




もののふの八十氏河(やそうじがわ)の網代木
(あじろき)にいざよふ波の行く方しらずも

こちらは橘橋と言うらしい。時間がないので
渡らず遠くから、眺めて拝観終了




宇治川の向こう岸には、道元が興聖宝林寺を
建立した事に始まる、日本の曹洞宗としては
最初の寺院となった興聖寺。宇治川に面した
総門より本堂に通じるまでの緩やかな参道は
「琴坂」と呼ばれ、宇治十二景の1つにも数え
られている




更に、源氏物語の宇治十帖に縁があるという
「手習観音(聖観音)」が安置されていると
いうので、いつかは参拝に出かけたいけど
今回も時間的に無理のようだ




そして宇治川と言えば、源義仲と鎌倉の源頼朝
から派遣をされた源範頼、源義経との宇治川の
戦いとしても有名で、佐々木高綱と梶原景季の
宇治川の先陣争いなども




それに先んじて、以仁王(高倉天皇の兄宮)と
源頼政が平氏打倒のための挙兵を計画し、諸国の
源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発したが、準備
不足の雨に露見し追討を受けて、以仁王と頼政は
宇治平等院の戦い(橘合戦)で敗死をしてしまった




単に風光明媚な土地と言うわけではなく、交通の
要所がゆえに、歴史に幾たびか登場する宇治だが
やっぱり、その名が一番知れ渡ったのは紫式部が
執筆した「源氏物語」の存在が大きいと思われる
私も子供の頃に、これで宇治の名を知った




とは言っても現代語訳のものだし、光源氏の物語は
真剣に読んだけど、亡くなったのちの宇治十帖とか
流し読み状態だったが。ここでの主人公は薫の君で
光源氏(本当は柏木)と女三宮の息子で、生まれつき
体から良い薫がするので、そう呼ばれている




こちらは匂宮と浮舟が、小舟の上で愛を語らう場面
らしい。匂宮は今上帝の三の宮(第三皇子)で、母は
光源氏の娘である明石の中宮で、光源氏の孫となる
薫の君に対抗し、薫物(たきもの)に心を砕いており
二人は世間から「薫る中将、匂ふ兵部卿」と呼ばれ
世間の評判はこの二人に集中していたそうだ




イケメンでイケイケな匂宮は、薫の君から宇治八の宮の
姫君たちの噂を聞き、薫の手引きによって中君と結婚
するが、夕霧の娘六の君を北の方に迎えると、中君を
ないがしろにしてしていた。しかも中君の異母妹である
浮舟が、薫君の恋人と知りながらも薫になりすまして
契りを結んだ為、浮舟は苦悩のあまり入水を図ったのだ




もともとが昼食タイムなので、あまり時間がないけど
この神社位なら参拝が出来そうだ。このすぐ近くには
世界遺産にも登録されている、宇治上神社もあるが
時間のある時にゆっくりと参拝をさせて貰おうかと
思う。先程の曹洞宗のお寺や源氏物語ミュージアム
なども行きたいし




といった訳で今回お邪魔をしたのは、かわいらしい
「宇治神社」である。普通であれば龍の口からだが
ここではウサギだし。中世に宇治茶の象徴としての
宇治七名園が作られて、お茶には不可欠な水として
「宇治七名水」も定められ、現存する唯一のものが
この「桐原水」で、宇治上神社の境内に沸いている




この樹は「兎楽の樹(うらくのき)」といい、簡単な
説明は下の写真をご覧下さい。宇治神社と宇治上神社の
御祭神は、ウサギに導かれた菟道稚郎子命である




彼は第15代応神天皇の皇子(日本書紀では皇太子)で
16代仁徳天皇の異母弟であるそうだ。宇治の地名は
古くは宇遅、莵道、兎道などとも表記されており
菟道稚郎子の宮があった

ウィキペディアによると
>『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐と
>王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された。




>応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、
>日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り
>捨てている。応神天皇40年1月に皇太子となった。
>翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と
>互いに皇位を譲り合った。




>そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが
>太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと
>挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して
>郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に
>遭って殺された。




>この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を
>譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の
>煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期す
>べく、自ら果てた。




>尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に
>招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田
>皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという
>『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載が
>あり、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚
>郎子を指すと見られている




壬申の乱を前にして大海人皇子(天武天皇)も
近江を後に吉野へ向かう途中で、ここ宇治にも
立ち寄っていたという。宇治川のあたりでの別れ
際に、舎人たちは大海人皇子の吉野行きを「翼を
つけた虎を野に放したようなものだ」と言った
そうだ




そんなこんなの歴史の端々に登場する宇治、歴史
ファンならば妄想モード最強になれるのは間違い
なし。宇治川の東側のこの道をさわらびの道といい
川の西側はあじろぎの道で、良い散策路になって
いる




万葉集にある詠み人知らずの歌

宇治川は淀瀬無(よどせな)からし網代人(あじろひと)
舟呼ばふ声をちこち聞ゆ




現代においては宇治と言えば、やっぱお茶という
事で、さわらびの道沿いに「福寿園 宇治茶工房」が
あったので、次に来た時には立ち寄りたいが時間も
ないので、そろそろ戻るとするか




お昼をいただいた喜撰茶屋で、50円の割引券を
貰っていたので、喜撰ソフトをぱくり。八つ橋が
ささっているよ




自分が喜撰ソフトになる事も出来るし♪ 




と言った訳で集合時間になったので、バスに
乗車して、今回のメインの伏見稲荷大社へと
向かう事にする




バスの車窓からは宇治の縣神社。大和政権下に
おける県(あがた)に関係をする神社と見られ
1052(永承7)年に、藤原道長が別業(別荘)を
寺院である平等院とする際、鎮守としたそうだ




「宇治橋」は「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に
日本三古橋の一つに数えられ、日本霊異記に道登が
宇治橋を架けたのは、646(大化2)年と伝えられて
いる。古今和歌集や紫式部の源氏物語に登場し、能の
「鉄輪」で登場する橋姫伝説でも有名である




現在の橋は、1996(平成8)年に架け替えられ
長さは155.4m、幅25m。橋の姿が宇治川の自然や
橋周辺の歴史遺産と調和するよう、擬宝珠を冠する
木製高覧という伝統的な形状を使用している




宇治へは京都から京阪宇治線と、JR奈良線があり
京阪は宇治が終着となるが、JRは宇治川を渡って
奈良へと。この電車はJRの「みやこ路快速」だ




昨日あたり、娘が最近は奈良に行って
いないし、久しぶりに京都や奈良とかに
行きたいなぁ♪なんて嬉しい事を言って
いたので、この夏は関西地方に出かける
事が出来るかも♪




秀吉が隠居の為に建てた伏見城は、戦いも
経て、関ヶ原の戦いで勝利した家康が再建を
したが、一国一城令で二条城を残し伏見城は
廃城となり、一帯には桃が植えられ桃山と
呼ばれたそうだ。戦後になって遊園地が出来
模擬天守も作られた




          令和1年5月24日に京都で撮影

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最終更新日  2019年07月02日 15時44分29秒
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2017年12月13日
カテゴリ:京都の旅


長らくここで紹介をしてきた10月末と
11月中旬の​国宝展目当ての京都行きの
紹介も、いよいよ最後の回となりました
2度目の京都。11月16日の最終日に
出かけた先は・・・




黄金の菊の御紋と、桐の紋のある由緒
ありげな立派な門。真言宗醍醐派総本山
醍醐寺の塔頭の三宝院(さんぼういん)に
ある国宝の唐門である。菊と言えば皇室
そして桐は豊臣秀吉の紋として有名であり
ここは秀吉が醍醐の花見を行った寺である




本来は三宝院の為に造られたものでなくて
違う場所に建立する予定のものが、ここに
建立されたたしく、北政所の寄進によって
前田玄以の奉行により建立されたと伝わる
桃山時代の門で、2011年の改修により
黒漆塗が施され一層、立派になった




ウィキペディアの記述を引用すると
>永久3年(1115年)、左大臣 源俊房の
>子で、醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院
>(かんじょういん)として開き、後に
>仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。




>応永3年(1396年)に足利義満の猶子と
>なって醍醐寺座主に任じられ、続いて
>准三后となり、後には足利義教の室町
>幕府将軍擁立にも活躍するなどした。
>以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる
>慣例が成立する




>古くから醍醐寺は真言宗系の修験の
>中心であったが、この頃から三宝院が
>真言宗系の修験者、山伏の取締にあたる
>ようになる。(中略)応仁の乱で三宝院が
>焼失し廃寺同然となるが、




>安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主で
>あった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かった
>ため、同院を中心に有名な醍醐の花見が
>開かれた。義演は准三后となり、秀吉の
>許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を
>三宝院と改称した




>桜で有名な醍醐寺三宝院庭園はその時期に
>整備された。義演は徳川家康からも信任を
>受け、江戸時代初期の天台宗系修験道で
>ある本山派本山の聖護院との相論では江戸
>幕府の支援を受けて、慶長18年(1613年)に
>修験道法度が制定された。




この中央の3つの石は阿弥陀三尊を表す
「藤戸石」であるが天下人が所有すると
いう名石である。源平の戦いで源氏方の
佐々木盛綱が、馬で海を渡ろうと思いつき
藤戸の渡(倉敷)の浅瀬を土地の若い漁師
から教わり、他言をされては先陣を人に
奪われてしまうと思い漁師を切り殺した




謡曲「藤戸」にも描かれた、漁師を殺した
場にあり、浅瀬の目印でもあった藤戸石は
勝利へ導いた石として足利義満が金閣寺へ
移し、その後は細川典厩家の庭に置かれて
いたものを、信長が足利将軍の為に建てた
二条城に据え置き、後に豊臣秀吉の聚楽第
から、花見の為の造園で醍醐寺三宝院へと
運ばせた




派手好きな豊臣秀吉のエピソードで必ず
出てくるのはこの醍醐寺三宝院の山麓で
開催をされた醍醐の花見であろう。その
様子はウィキペディアの記述によれば




>豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を
>初めとして、諸大名からその配下の
>女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な
>催しで、九州平定直後に催された北野
>大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の
>催し物として知られる。




>記録に残るその日の輿の順は、1番目に
>北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、
>3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、
>5番目に加賀殿、その後に側室ではない
>前田利家正室・まつが続いた。宴会の
>席では、正室である北政所の次に杯を
>受けるのを淀殿と松の丸殿が争い




>北政所とは家族ぐるみの長い付き合いの
>まつが「歳の順から言えばこの私。」と、
>申し出てその場をうまく取りおさめたと
>いう話が伝わっている。(中略)花見に
>招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の
>他には唯一前田利家の名が見えるのみである




>応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた
>醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主
>である義演は、秀吉の帰依を得て良好な
>関係を築いていたが、秀吉の最期が近い
>ことを感じ取り、一代の華麗な英雄の
>最後にふさわしい大舞台をしつらえる
>ために、あちこちにそれとなく手配をして




>この醍醐の花見を実現させたともいう。
>秀吉はこの約5か月後に没した。花見の
>責任者に奉行の前田玄以を任命し、秀吉
>自ら下見のために醍醐寺へ足繁く通い、
>殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の
>山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の
>桜を植樹した




>参加した女性たちには2回の衣装替えが
>命じられ、一人3着ずつ着物が新調され
>衣装代だけで2015年現在の39億円に
>相当する金額がかかった
       ウィキペディアより転載




との事で今でも醍醐は桜の名所で、私も
桜の頃にも来たことがあるけど、今回は
紅葉狩り。庭は撮影OKだが建物内部は
撮影禁止なので写真はないが、表書院は
醍醐の花見の際して奈良から移された能の
楽屋を中門を付加するなど、書院造風に
整えたもので国宝に指定をされている




更に玄関、勅使の間・秋草の間・葵の間
庫裏、宸殿(奥宸殿)、純浄観、護摩堂
(本堂)など殿堂6棟の他、 長谷川等伯
一派と、石田幽汀による障壁画の数々が
重要文化財に指定をされている




今週末に最終回を迎える大河のおんな城主
直虎だが、海老蔵信長の最後がどうなるかと
楽しみだったのにとりあえず死んだらしいと
伝聞。ナレ死すらもなくて、桶狭間の戦いを
すっとばした大河だけあるわと拍子抜けで
やっぱ岩村のおんな城主の方が素材として
面白かったんじゃない?




旦那は後半の阿部家康が気に入ってしたけど
信長に殺されるかもと光秀に吹き込まれて
戦々恐々。直虎がわざわざ関西まで出向いて
家康の逃げ道の段取りをを作るなんてこじつけ
すぎ。まっお江が一緒に家康と伊賀越えをした
ってファンタジー(妄想)大河もあったけど
もうわき役女性を主役にするのは辞めたら?




それだけに来年は堂々と西郷隆盛するのは
好感が持てるが、西田敏行と鹿賀丈史の
イメージがまだ残っている。西田さんの
秀吉もぴったりだったなぁ(おんな太閤記)
まっ、これは北政所が主役だけど関ケ原の
キーパーソンではないかと言われる程だし
北条政子や日野富子、春日局にしても別格




持統天皇とかやったらいいのになぁ~。天皇家
内紛だから古代でも無理なのかなぁ。天智天皇の
皇女として生まれ、政略結婚で姉と共に叔父の
天武天皇(大海人皇子)に嫁ぎ、甥と夫の確執に
よっての逃避行から戦乱。戦いに勝利し天皇と
なった夫を支えて(姉は既に亡くなっている)




病弱な息子を天皇にするべく有力な皇子を
策略で追い落とし(姉の忘れ形見も)たが
息子が亡くなると、7才の孫を天皇にする
まではと、自分が皇位につき藤原不比等と
いう優秀な腹心もいた事もあって、律令国家
建設を推し進めた、類まれな才能と行動力を
持った女帝であった




と断線しましたが三宝院から、今度は醍醐寺の
広大な境内へと向かいました。その入り口には
西大門(仁王門)。豊臣秀頼が再建したもので
そこに安置された仁王像(重文)は、もともとは
南大門に祀られていた尊像で、平安後期に仏師
勢増、仁増によって造立された尊像である




醍醐寺についてウィキペディアによれば
>真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を
>醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は
>薬師如来、開基(創立者)は理源大師
>聖宝である。古都京都の文化財として
>世界遺産に登録されている。




>醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、
>空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が
>准胝観音並びに如意輪観音を笠取山
>頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂
>付近を「醍醐山」と名付けた。




>醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)
>を中心に、多くの修験者の霊場として
>発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの
>祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、
>その圧倒的な財力によって醍醐山麓の
>広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展
>することになる。




>その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は
>荒廃し、五重塔のみが残された。しかし
>豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけ
>に、紀州などから寺院建築が移築されたり
>三宝院が建設されたりなどし、今日の姿
>となった。




国宝の金堂であるが
>入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。
>平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願に
>より紀州から移築したもので、慶長3年
>(1598年)から移築を開始し、秀吉
>没後の慶長5年(1600年)に落慶して
>いる。当初は紀州湯浅の満願寺本堂で
>あったという。




>部材には平安時代のものが残るが、堂が
>湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、
>移築時の桃山時代の手法も混在する。内部
>には本尊薬師三尊像(重要文化財)を
>安置する    ウィキペディアより転載




同じく国宝の五重塔は
>天暦5(951)年建立。承平元(931)年
>その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を
>祈るために第三皇子の代明親王が発願し、
>穏子皇太后の令旨で建立が計画された。
>しかし、代明親王の死去(937年)などの
>影響で工事は停滞し、発願の20年後に
>完成した。




>総高38メートル。うち相輪部が12.8メートル
>で、全体の3割以上を占める。創建以来修理を
>重ねたが、特に天正13年(1585年)の地震
>では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な
>被害を受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長
>3年(1597年)に修理が完成している




>京都に残る数少ない平安時代建築として
>貴重であるとともに、初重内部の両界
>曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安
>絵画の遺品として重要であり、塔本体
>とは別に「絵画」として国宝に指定
>されている。




今回は行く気にもならなかったが、下醍醐に
対してお山の上には、上醍醐にも伽藍が幾つも
あって国宝の薬師堂とか、国宝の清滝宮拝殿
などもあり、お寺の名の由来となった醍醐水
という霊泉もわいている




下醍醐から上醍醐までは、山道を1時間ほど
登らなければならず、まだ若い頃に一度だけ
参拝をさせていただいたが、キツかった覚えが
標高450メートルの醍醐山の山上にある




今回出かけた京都のお寺は、南禅寺や
青蓮院、知恩院といいどこも格式も
高くて、歴史もある権力者に近しい
お寺ばかりを紹介したけど、ここも
もう、どこもかしこも国宝だ、重要
文化財だとわんさか




上醍醐の薬師堂にはかつて、国宝の薬師三尊像
重要文化財の閻魔天像、帝釈天像、千手観音像
といった諸像があったのだが、今は防犯&保存
から下醍醐にある最新の設備を持った霊宝館に
保管&展示がされている




五重塔など数棟の建造物の国宝の他にも、絵画
9件、彫刻(仏像)二体、文書&書籍は7件と
24件の国宝があり、重要文化財に至っては
快慶の仏像や俵屋宗達の屏風絵など、数十件は
軽くありそうだ。国宝展にでかけなくても
国宝が幾つも拝見できる




なんでも仏像・絵画・工芸品など10万点以上の
寺宝があるそうだ。なんでこんな膨大な数に
なるかというと文書とかお経などは1件あたりの
数量が膨大であるので。2017年に国宝に
なったばかりの「宋版一切経」も 6,102帖(附
経箱604合)と数千点で構成をされている




霊宝館ではこのような貴重な寺宝を、テーマなど
決めて展示をしており、先ほどの国宝ほやほやの
「宋版一切経」も見る事が出来た。宋版一切経は
南宋時代初期に木版で印刷刊行された仏教経典の
一大全集で、ほぼ完全に残っており経箱に南宋の
年号が確認され、醍醐寺に伝わった経緯も判るので
重要文化財から国宝に格上げがされた




貴重な仏教関連のお宝の他にも、醍醐の花見で
秀頼、前田利家らが詠んだ和歌の短冊など所縁の
宝物も展示をされていて、歴史ファンには興味
深かった




「醍醐大しだれ桜」は樹齢180年。東西24メートル
南北20メートルもある大樹で、霊宝館にはこの他にも
40本以上の桜がある。推定樹齢百年のソメイヨシノは
ソメイヨシノとしては京都最古、高さは11メートルを
超えるを越える




醍醐寺は、地下鉄で醍醐駅まで行って、そこからは
コミュニティバスのようなもので行ったが、帰りは
東山三条まで行く路線バスが、ちょうど時間がよく
それを利用した。他にも京都駅からのバスもあった




           平成29年11月16日に京都で撮影

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最終更新日  2017年12月13日 17時29分52秒
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2017年12月11日
カテゴリ:京都の旅


京都で紅葉のシーズンともなると​、幾つもの
お寺で夜のライトアップが始まって、市内に
泊まる観光客や地元民で多少なりとも賑わう
様は冬のイルミネーション輝く東京や大阪の
都会のようだ




とは言っても繁華街でもなく、元々が
お寺などのある静かな街なので、大きな
声を出すのすら憚れて、夜のしじまの中
こんな京都の夜を楽しめるのも、一興と
いうもの。ホテルから近いここは白川で
テレビドラマでもよく登場したりする




比叡山と如意ヶ嶽の間に水源があり、全長は
9.3キロ。京都市動物園付近で琵琶湖疏水に
入り慶流橋から疏水と分れ、四条大橋付近で
鴨川に注ぎ、平安期には付近に白河院御所も
あったそうだ。このあたりは東山三条の東側
あたりで




坂本龍馬とお龍が元治元(1864)年
8月に、祝言をあげたという青蓮院の塔頭
金蔵寺のあった跡で、お龍の父は青蓮院宮
に仕えた医師だったので、その関係もあり
金蔵寺住職の智息院が仲人を務めたそうだ
そうそう、その日は11月13日で竜馬の
誕生日であり、暗殺された日でもあった




流石に京都だけあって、犬も歩けば神社仏閣
旧跡に当たる。その日の夕食は繁華街へ出る
のも面倒で、ホテルからライトアップをする
寺院へ行く途中で、東山三条あたりでと考え
灯りが暖かなほうざんに立ち寄ることにした




最近になって出来た和食処のようで(不明)
開店祝いらしき蘭の花が隅に置かれていた
お値段も一品物から手頃な価格で、場所柄
地元民より観光客相手でもあるのかな?




税込み千五百円の都膳で




デザートに柿も出た。他にも日替わりで
750円の定食もあるようだが、その日の
メインは苦手な食材(たぶん鶏肉)だった
のでパス




姉の方はさっぱりと、うどん。お腹も
一杯になったし、ではではライトアップに
参戦といきますか(本当は食事から白川
構成上、食事が最初ではと逆にしました)




それでなくても迫力のある青蓮院の門前の
大楠も、ライトアップで夜空を遮るように
覆っていた。青蓮院が現地に移転をした
13世紀以降に植採をされたものだそうで
5本あり市の天然記念物に指定されている




今はないが、かつてこの向いにあった
旅館に家族連れで20年以上前に泊まった
時だが、部屋に通されからお茶を出した
高齢の中居さんが、胸元に挟んだのし袋を
出し入れをしてチップをさりげなく(?)
要求してきたけど、用意などしてなかった
ので、鬼瓦のような顔になったのが怖かった




露骨に要求されたのこれっきりだった
けど、他の観光地の旅館では部屋係の
お姉さんが退出した時に、廊下で他の
中居さんから「幾ら貰った?」と聞かれ
口ごもっていたのが気の毒だった。まっ
そうゆうのもあって中居さん恐怖症で
旅館よりホテルばかり使ってた時期も




最近は温泉目当てもあって、旅館も使うが
チップとかは渡していないです。食事も
食堂だったり、布団敷きも男の人たちだし
特に同じ中居さんが担当をって事も皆無で
フロントで鍵を貰い、食事の時間を決めて
自分たちで部屋に行くのも増えてきたし




帰り際のフロントで宿泊料を払う時に
料理が良かったとか、温泉が最高でした
などと褒め、感謝の気持ちを伝えて帰る
ようにはしているが。美味しかったとか
良かった思い出は忘れても、不快な事や
予想外の事は昨日の事に思い出される




お造りで、お腹がそぎ落ちたお魚が
ピクッと動いたので、姪がびびり魚の
頭を紙で隠していた伊豆の温泉旅館も
民事再生して、立て直し系のチェーンに
資金援助を受け再出発をしたとテレビで
やっていたし、旅館業も大変だ




そんな訳で青蓮院に戻ります。ここの
ライトアップは春と秋に行われており
幾つもある中で、ここを選んだ理由は
青いライトが庭に施され、夜空に輝く
星空のようだというので、紅葉がまだ
でも楽しめそうだと




特別拝観料は800円(昼間は500円)と
少し高めだが、本堂や諸堂御殿の中も靴を
脱いで拝観が出来た。その後に玄関に戻って
ライトアップをされた庭をまわるのだが
足元を照らすように、丸い提灯を手渡され
なんだかテーマパークみたいで楽しい




流石に名のあるお寺であるだけに、豊臣
秀吉が寄進したといわれる巨大な一文字の
自然石で作られた「一文字型手水鉢」なども
水がたまるところ、とりあえず硬貨を投げ
込むのが日本人のようだ




室町期の相阿弥の作と伝えられ、粟田山を
借景にし、その山裾を利用した池泉回遊式の
庭は、龍心池の対岸南に高く石積みした滝口を
中心とし、東側にかけて築山が設けられた
築山泉水庭でもある




11月の半ばとは言っても、やっぱり紅葉
には早くて、これらが赤くなるのはまだまだ
先のようだ




でも、その代わりとはいってはなんだが竹林の
ライトアップが印象的。さて青蓮院門跡について
このあたりで紹介をしておくと開基は伝教大師
最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)
である。梶井(三千院)、妙法院と共に天台宗の
三大門跡寺院である




ウィキペディアによると
>「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が
>入寺する寺院の事であり、青蓮院は多くの
>法親王・入道親王(皇族出身で親王の
>称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を
>務め格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所と
>なったことがあるため「粟田御所」の
>称もある




>梶井、妙法院とともに、青蓮院も比叡
>山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院が
>その起源となっている。青蓮院は比叡山
>東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源で
>あり、門跡寺院となって山下に移ったのは
>平安時代末期の行玄大僧正の時である




>久安6年(1150年)に鳥羽上皇の皇后
>美福門院は青蓮院を祈願所とした頃から
>寺格が上がり始め、鳥羽上皇の第七皇子
>覚快法親王が行玄の弟子として入寺して
>より後は、皇家や摂家の子弟が門主を
>務める格式高い寺院となった。




>江戸時代の天明8年(1788年)、天明の
>大火で内裏が焼失した折には、青蓮院が
>後桜町上皇の仮仙洞御所となった。この
>ため青蓮院旧仮御所として国の史跡に
>指定されている。近代に入り、明治26年
>(1893年)の火災で大部分の建物が
>失われた




>平成4年(1993年)には過激派(中核派)の
>放火により好文亭が焼失したが2年後に再建
>されている。  以上、ウィキペディアより
青蓮院の鎮守神として比叡山の山王日吉社から
勧請された十禅師社。 日吉の神さまは天台宗の
宗護神だそうで、古い天台宗の寺院には必ず
祀られているんだとか




青蓮院と言えば1144年の創建以来初めて
国宝の「青不動明王二童子像」が平成21年に
御開帳があり私も姉と出かけてきたが、この
青不動は、高野山明王院の赤不動、三井寺の
黄不動とともに日本三不動画の一つで、現存
する平安仏画の最高傑作であるそうだ




そんな事も意識をしての青い色のライト
アップであろうか。 宸殿は門跡寺院特有の
もので主要な法要はここで行われる。有縁の
天皇及び歴代門主の御尊牌を祀る。宸殿前に
右近の橘、左近の桜を配するのは、御歴代
尊儀の在ます所の意味であり、親鸞聖人が
第三代門主慈圓により得度をした場所でも
あり、お得度の間とも言うそうだ




ご本尊の織盛光如来であるが、織盛光仏頂・
摂一切仏頂輪王とも言う。釈迦牟尼仏が衆生
教化のため忿怒(怒り)の相を表わした姿と
いい、身の毛孔から熾盛の光明を出すという
天災地異の際これをまつり除災招福を祈ると
いう熾盛光法がある




その為、特に平安時代から鎌倉時代にかけては
宮中から勅命を受け、折々に天変地異の息災と
皇室の安寧を祈願する役割を担っていたそうだ
ご本尊の「熾盛光如来曼荼羅」は、天台第3世
座主円仁が唐から持ち帰ったものは戦乱で焼失し
現在のものは、安土桃山時代の作で豊臣秀吉が
奉納したものだそうだ




国宝の青不動の他にも数多くの重要文化財の
寺宝が残されているが、第二次世界大戦以後
この寺から流出した寺宝も多く、重要文化財
クラスでも16点もあるそうだ。なんだか
このように格式の高いお寺も、神社も色々と
あるんだろうな・・・・




親方と相撲協会の確執に続き、今度は
有名神社の相続争いと神社本庁の関係
まるでサスペンスドラマみたいな展開
神聖な神社が金の亡者と化した一家に
食い物にされ、神様もお怒りだと思う




先日は南禅寺の三門を紹介したけど
闇に浮かび上がるのは徳川秀忠の命に
よって建立をされた知恩院の三門で
高さ24メートル、横幅50メートル
屋根瓦は約7万枚。「華頂山」の額の
大きさは畳二畳以上にもなるそうだ




楼上内部は仏堂となっており、その中央に
宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇に十六羅漢像が
安置をされており、天井や柱、壁などには
迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が
極彩色で描かれていている。竜神は水を
操るので火災除けであると、ここの特別
公開で聴いた




更には知恩院の七不思議の一つである
白木の棺があり、三門造営の命を受けた
造営奉行の五味金右衛門夫妻の木像が
安置をされている。これは懸命に三門を
完成させたのだが、工事の予算が超過し
その責任をとって自刃をした夫妻を弔う
為であるとか




この知恩院でも七不思議があるので
他のものもざっと紹介をしておくと
御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に
至る廊下は、全長数百メートルもあり
歩くと、鶯の鳴き声に似た音が出るが
曲者の侵入を知る為のもの(忍び返し)




御影堂正面の軒裏には和傘があるが
左甚五郎が魔除けの為に置いたもの
だそうだが、他にも雄誉霊巌上人が
御影堂を建立する時に、このあたりに
住んでいた白狐が自分の新しい棲居を
作って欲しいと上人に依頼し、それが
出来たお礼にこの傘を置いて、知恩院を
守る事を約束したという説もある




大方丈入口の廊下の梁に置かれた大きな
杓子は長さ2.5メートル、重さ約30キロも
あり、三好清海入道が大坂夏の陣の時に
大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の
御飯をすくい、振る舞ったというもので
あるそうだ。全ての人々を救いとるという
意味から




方丈の廊下の杉戸に描かれた狩野信政の
猫の絵は、どちらから見ても見る人の方を
正面から睨んでいるよう見える。大方丈の
菊の間の襖絵(狩野信政)の数羽の雀も
上手に描かれたので雀が生命を受け、飛び
去ったので、飛び去った跡しか残ってない




黒門への登り口の路上にある大きな石は
知恩院が建立される前からあると言われる
瓜生石で、誰も植えたおぼえがないのに
瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜があおあおと
実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が
瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現して
一夜のうちに瓜が生え実ったという説がある




更に瓜生石を掘ると、二条城までつづく抜け
道があるとか、隕石が落ちた場所であるなど
様々な伝説があるんだとか。こんな不思議が
一杯の知恩院の紅葉のライトアップ、11月も
半ばだというのにまだまだといった感じだし
高いお金を払って階段上って、中の拝観も
できる訳でもなく、ちとしまった~感が・・・




ま、それでも除夜の鐘の中継でも有名な日本
最大級の鐘も見れたし、夜のお寺は幻想的でも
ある。寛永13(1636)年に鋳造された鐘は高さ
3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン
「えーいひとーつ」「そーれ」の掛け声のもと
親綱、子綱を17人の僧侶が最大限の力を振り
絞り、108つの除夜の鐘を打ち鳴らす




最後に知恩院についてであるが、浄土宗総本山で
山号は華頂山(かちょうざん)で、華頂山知恩教院
大谷寺という。ご本尊は法然上人像と阿弥陀如来で
開基は浄土宗の宗祖である法然だ。法然が後半生を
過ごし没した草庵のあった地に建てられ、現在の
大規模な伽藍が建立されたのは、江戸期である




二条城同様に徳川家の京都での拠点とされ
将軍家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし
朝廷を牽制するという位置づけでもあった
かつて門主は皇族から任命をされたが、更に
その皇子は徳川将軍家の猶子となったとか




         平成29年11月15日に京都で撮影

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最終更新日  2017年12月11日 19時05分33秒
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2017年12月06日
カテゴリ:京都の旅
​​
​​
この写真は、最初に国宝展(第二期)に
出かけた10月末の​京都なのですが既に
紅葉も始まっていました。テレビか何かで
水辺は夜など冷え込むと言ってましたが
それで、紅葉の進みも周囲よりも少しは
早いのかな




紅葉の盛りにはさぞかし美しいであろう
このお寺は京都でも有数の紅葉スポット
浄土宗西山禅林寺派の総本山。禅林寺
またの名を永観堂というが、その名の
由来は、優れた徳の高い第7代の住職
永観律師の永観からだとか




しかし永観堂はえいかんどうと読むが
永観律師の方はようかんと読むそうだ
山号は聖衆来迎山、院号は無量寿院で
本尊は阿弥陀如来。御開基は、空海の
高弟の真紹僧都だそうで、古くより
「秋はもみじの永観堂」と言われている




禅林寺の本尊である阿弥陀如来立像は
顔を左に曲げている像であるのだが
永保2(1082)年、永観が日課の
念仏を唱え、阿弥陀如来像の周囲を
行道していると、須弥壇から下りた
阿弥陀如来が永観と共に行道を始めた




それに驚いた永観が歩みを止めると
阿弥陀如来は振り返って、永観遅しと
言葉を発したそうだ。それより阿弥陀
如来像の首の向きが元に戻らないまま
なんだとか




このような「みかえり阿弥陀」は、中国
では北宋時代に遡る例があり、国内では
この像が最古で、山形県の善光寺像など
他にも若干の作例があるそうで、阿弥陀
来迎時に浄土へと戻る際に、往生者を
見守る為に阿弥陀が振り返る姿なのだとか




東京国立博物館に寄託をされている寺宝の
仏具の「金銅蓮華文磬」は国宝展で実物を
見る事が出来た。今まさに臨終をしようと
する信仰者の前に、阿弥陀仏と眷属たちが
極楽から迎えに来た来迎の場面を描いた
絹本著色山越阿弥陀図の方は東京で見たか
どうかは覚えがない




今回の国宝展では、京都国立博物館にある
ものであったが、仏の胸と右掌には小さな
絵絹の欠失があって、かつては五色の糸が
結びつけられ、今まさに臨終をしようとする
信仰者の手に握らせ、阿弥陀の縁を結ばせて
いたんそうだ。この話は金戒光明寺で聞いた




ところで「極楽」とは、阿弥陀の浄土の事
だそうで、阿弥陀経には「衆苦あることなく
ただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」と
あるそうだ ウィキペディアによれば↓




>この極楽という仏土は広々としていて、
>辺際のない世界であり、地下や地上や
>虚空の荘厳は微をきわめ、妙をきわめて
>いる。この浄土にある華池や宝楼、宝閣
>などの建物もまた浄土の宝樹も、みな
>金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の
>宝をもって厳飾されている




>しかも、それらは実に清浄であり、光明
>赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の
>意のままに得ることができ、寒からず
>暑からず、気候は調和し、本当に住み
>心地のよいところである。また、聞こえて
>くる音声は、常に妙法を説くがごとく、
>水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。




>したがって、この浄土には一切の苦は
>なく、ただ楽のみがある。(前後するが)
>いまをさること十劫の昔、阿弥陀仏は
>成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に
>浄土を構えられた。そして、現在でも、
>この極楽で人々のために説法している。




他にも薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」や
阿閦(あしゅく)仏の「東方妙喜世界」、
釈迦仏の「西方無勝世界」、観音菩薩の
「南海補陀落山」など諸仏の浄土が、娑婆
(現実)世界から見ればあらゆる方向に
あるそうで、それを十方浄土という




各経に説かれた十方の如来や、仏を信じて
いればその浄土に行くという話だ。更に
「一蓮托生」という言葉があるが、これは
死後に阿弥陀の極楽浄土に往生し、同じ
蓮花の上に生まれ変わって身を託したいと
いう事から




「他力本願」とは、阿弥陀仏が衆生を救済
する本願の働きの事であり、「自業自得」は
自ら行なった善悪の行為により本人自身が
その報いを受けるで「因果応報」も同様で
どれもが仏教から派生した熟語である




南無阿弥陀仏というお念仏は、阿弥陀に帰依し
極楽浄土に導いて欲しいという、浄土宗や浄土
真宗で使われ、姉も西本願寺系だけど、うちの
あたりは曹洞宗や臨済宗の土地柄だが、年寄りが
御詠歌の他に、なむあみだぶつ~なんまいだ~と
念仏をやっていたような




まっ、明治期の廃仏毀釈で虚無僧の普化宗が
なくなったとドラマの中で扱われていたけど
それまでは神仏習合。神様、仏様。お念仏も
盂蘭盆会も先人の行ってきた事は、昭和とかに
なっても続けられていたけど、戦後生まれが
多くなってきた最近は風前の灯火




ある意味で楽しみのない田舎での老後の娯楽
でもあったように思います。それが昨今では
ゲートボールとかカラオケ、ダンス、手芸や
旅行となんでもありな老後の趣味。ご朱印状
ブームのようにお寺や神社も、年配の人より
若い人や海外の人の方が多いくらいですが




それもまた文化財があったり、歴史的な
由緒を持つような、限られた寺社仏閣に
限られた事であって、地域の人たちの為に
ある無名のところは檀家も減って、兼業
でもしてないと生活も立ちゆかない




修理も出来ずに、雨漏りだらけの屋根に
食事はカップラーメンばかり。年収は
生活保護以下といった地方のお寺の惨状を
テレビで特集をしており、限界集落同様に
限界のお寺も地方には数多くある。対策と
してお寺の統廃合を打ち出そうとしても
当然、廃寺となる側では反発をする声も




うちの地域の神社も禰宜様が高齢で、最近
廃業をしたので、神社の神事などは近隣の
神社の禰宜様がやってきてくれるのだが
地域での祭りでは、地域の住民が神事を
簡素化し見よう見まねで行っている有様だ




地域の要になる産業が無くなり、人が減り
学校が無くなり、お店が無くなり、交通が
無くなり、寺社が無くなり、集落が消え
もとの野山となってしまうのも仕方がない
話なのかもしれない。まだ、うちのあたりは
観光業があるので、今後も集落が残るのは
確実ではあるし




なによりも観光客の為に、駅から路線バスが
一定時間毎に運行されているので、車のない
老人の足が確保されているのも有難い事だ
更に中央道の神坂パーキングエリアに長年
話だけはあったスマートインターの設置が
具体化(2021年)したので交通の便が
更によくなる




話逸れました。戻します
今は神社は彫刻もあって、朱色で華やかで
お寺は茶色で、地味なイメージがあるけど
それらは、鎌倉期に武士に好まれた禅宗の
影響があっての事で、それまでのお寺など
朱塗りは魔よけの意味もあって派手な彩色
などもされていたようだ




そういやぁ~京都の醍醐寺とか鞍馬寺
平等院とか色鮮やかな朱色だし。この
永観堂の今は緑の葉っぱも、11月の
半ばになれば真っ赤っか。それもまた
見てみたかった




紅葉の有名なお寺なのに、その時期に
一度も来た事がない。でも見返り観音
とか、斜面を利用したお寺が面白くで
何より、この階段のカーブが好きでして
永観堂には七不思議があるそうでして
この階段もその一つであるそうだ




御影堂、阿弥陀堂、開山堂に続いている湾曲
している急こう配の階段を臥龍廊(がりゅう
ろう)といい、まるで龍が体をうねらせて
いるように見えるので名づけられたんだとか




永正年間(1504~1521)に造られたものが
昭和に改修されたそうである。ここも屋根が
ある回廊で巡れるので、雨の日観光に良いと
考えてコースに入れたが、この頃には雨も
止んでいた




七不思議のひとつ悲田梅は、永観律師が境内に
薬王寺(悲田院)という施療院を置いて、梅を
育てて、梅の実を病人や貧しい者に分け与えた
もので、その梅の木が一本だけ残っている




更に七不思議の三鈷の松は、普通の松葉は
二本であるが、この木の松葉は三本で葉の
長さも30センチ近くにも及ぶ珍しい松で
財布に入れておくと、お金がたまるとか
箪笥に入れると服がたまると言われている




更に春に三鈷の松の辺り一帯に棲んでいる
蛙の鳴き声が、まるで木魚を叩くようなので
木魚蛙と呼ぶが、誰もその姿を見た事は無い
伝法堂(瑞紫殿)の阿弥陀如来坐像は応仁の
乱で諸堂が焼け落ちた時も、右手が焦げた
のみで焼け残ったといい火除けの阿弥陀如来
として火除けの信仰を集めている




古方丈の孔雀の間の欄間には、雀が描かれて
いるが、向って右端の欄間には五羽の雀が
描かれているハズなのに、四羽しかおらず
一羽少なく抜け出してしまったと言われる
臥龍廊や多宝塔付近の急斜面に生えている
紅葉は、寺が建立される前にこの地に住んだ
藤原関雄の和歌にちなんで岩垣紅葉と言う




  おく山の岩垣紅葉散りぬべし照る
  日の光みる時なくて (古今和歌集)

「菟芸泥赴」の中には「本堂の傍に聖衆来迎の
松があり。永観説法の時、この松に弥陀如来
影向ありしとなり。今は枯てなし」とあり、
山号の由来を示す伝承で、阿弥陀堂の右手に
ある松がそれなんだとか




と数えると1,2,3・・・8つ。あれれ
七不思議なのに八つとはいかに。お寺には
水琴窟などもあれば、足の悪い方のために
エレベーターなども設置がされていたので
見返り阿弥陀も容易に参拝も出来る。と
いう訳で10月の国宝展(2期)目当ての
京都初日は祇園、東山、三十三間堂、国宝展
二日目は二条城、南禅寺、永観堂であった




午後には京都駅に出て小腹も空いたので
食事をする事にしたが、私はどうしても
京都らしいパフェが食べたくて、丼も
どちらも食べられるという京都駅地下
ポルタにある「nana's green tea」だが
ここって東京本社の全国チェーンなのね




ナゴヤドーム前のイオンとか、名古屋パルコ
にもお店があるんだ、まっいいか。姉はご飯が
食べたいというし




私はパフェが食べたいのだから、何も京都の
お店に拘る事は無い。とは言っても本当は
湯豆腐が食べたかったんだけど・・・次は
11月の4期の国宝展の時の京都観光を紹介
します。ではでは




     平成29年10月28日に京都永観堂で撮影

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最終更新日  2017年12月09日 10時11分44秒
コメント(80) | コメントを書く
2017年12月01日
カテゴリ:京都の旅


テレビやネットニュースで、紅葉時期の
京都の寺社における観光客の迷惑行為を
報道をしていた。お土産に持ち帰ろうと
ぶちぶちと紅くなった葉を枝からちぎる
高齢女性が次々に映り、葉の無くなった
枝が痛々しい




はらはらと葉が舞い落ちる風情が好きだと
枝を揺すっては葉を落とす高齢女性とか
カメラマン同士が場所取りでなのか喧嘩
して、写真撮影を禁止したお寺(記念写真
程度ならOK)とか、自分勝手な人たちに
つける薬はなさそうだ




2期の国宝展で出かけた10月下旬の
京都2日目は生憎のお天気で、あまり
歩きたくもなかったし、雨の日の風情を
楽しむならここかなぁ~とやってきた
お寺は東山の南禅寺。ひと月もしたら
この緑の葉っぱもみんな真っ赤に色づく
事だろう




歌舞伎の「楼門五三桐」で、石川五右衛門が
南禅寺の三門の上から満開の桜を眺めて言う
台詞は「絶景かな、絶景かな。春の眺めは
価千金とは小せえ小せえ。この五右衛門には
価万両・・・」との事。しかしこの門だけど
五右衛門の死後30年後に再建されたものだ




門とは鳥居同様に外部の邪悪なものと内部の
聖なるものとの境界に位置し、邪悪なものは
一切入らない結界の印が「しきみ(閾)」で
あったのが「しきいき」→「いしきいき」→
「しきい(敷居)」という言葉に転化された
したがって神聖な「敷居」は、またぐもので
踏んではいけないそうだが座っていいのか?





寺社は観光施設ではなくて、宗教施設であると
いう事を今一度われわれも認識する必要がある
のかも。藤堂高虎が、大坂夏の陣で戦死をした
一門の武士らの冥福を祈る為に寄進したものだ

三門とは空門、無相門、無願門の三境地を経て
仏国土に至る門の事で三解脱門を表すとされ
〇〇山の山号より山門という事もあるそうだ




天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽による
もので、知恩院三門、身延山久遠寺と共に
日本三大門の一つでもある。三門の中には
門に扉を設けないものもあるが、これは
一切衆生が、仏門に入る事を拒まない仏の
大慈悲心を表すものだとか




実は私が子供の時に、亡き母親と最めて
京都に来た時に訪れたのが南禅寺だった
(他には方広寺、豊国神社)。その前の
年位に叔父親子と東本願寺に行ったのが
初・京都寺社拝観になったのだけど




やっぱ母親に連れられ出かけた南禅寺の
思い出は今も色あせる事は無い。先程の
三門は重要文化財だが、方丈(大方丈と
小方丈からなる)は国宝に指定をされて
いる。大方丈は慶長期の御所建て替えに
際し、天正期に建設をされた女院御所の
対面御殿が下賜されたもの




名勝に指定をされている方丈前の枯山水
庭園は「虎の子渡しの庭」といい、小堀
遠州の作庭だとか。虎の子渡しと言えば
竜安寺のそれでも有名だが、その由来は
      ウィキペディアによれば↓




>虎は、3匹の子供がいると、そのうち
>1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放って
>おくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を
>食ってしまうという。そこで、母虎が
>3匹の虎を連れて大河を渡る時は次の
>ようにする




>母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう
>岸に渡してからいったん引き返す。次に
>残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に
>行くと、今度は、どう猛な子虎だけを
>連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、
>3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。




>この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹
>だけが残っているので、母虎は最後に
>これを連れて向こう岸へ渡る、という
>中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に
>基づくものである。




こちらは妙心庭。お庭などは写真の
撮影が出来るが、建物の中は撮影禁止に
なっているので写真はありませんが




>大方丈の間取りは六間取で、南側が西から
>順に花鳥の間(西の間)、御昼の間、麝香の
>間、北側が西から順に鶴の間、仏間(内陣)
>鳴滝の間である。建物の東端は幅一間半の
>細長い部屋で、柳の間と呼ばれる




>仏間を除く各室に桃山時代、狩野派の
>障壁画があり、計124面(附指定4面を
>含む)が重要文化財に指定されている。
       ウィキペディアより転載

接続して建つ小方丈は、寛永期のもの
だそうで、障壁画は狩野探幽の作と伝え
られるが、作風上からは数名の絵師に
よるのであるらしい。南禅寺については




>臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。
>山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平
>興国南禅禅寺である。本尊は釈迦如来、
>開基(創立者)は亀山法皇、開山
>(初代住職)は無関普門(大明国師)




>日本最初の勅願禅寺であり、京都五山
>および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの
>寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も
>高い格式をもつ。(略)南禅寺の建立以前
>この地には後嵯峨天皇が文永元(1264)年に
>造営した離宮の禅林寺殿があった。




>亀山上皇は正応2(1289)年、40歳の
>時に落飾(出家)して法皇となった。
>2年後の正応4年(1291年)、法皇は
>禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の
>無関普門を開山として、これを龍安山
>禅林禅寺と名づけた。




↑ウィキペディアより転載
それが南禅寺の前身となるらしい
時代が下り、応仁の乱などで焼失し
荒廃した寺を再興したのは、徳川
家康の側近として幕府の法律の立案
外交、宗教統制を一手に引き受けて
その権勢から黒衣の宰相の異名を
取った以心崇伝である




そして南禅寺と言えば三門同様に有名
なのが、この水路閣である。片平なぎさ
さんとかが佇んでいると、どこからか
現れる狩矢警部。色んな男優さんが演じ
られているが、私的には若林豪さん




皆さんもきっと、テレビか何か一度
くらいは水路閣を見た覚えがあるの
ではないでしょうか。この紅葉なども
真っ赤になればさぞかし綺麗だろうな
でも京都の秋の特別公開とか、紅葉
より一足早く京都に出かける事が多い




向こうからも、早くどかないかなぁ~と
思っているだろう観光客。何でも南禅寺
境内は一脚、三脚による写真撮影は禁止
みたいだ。今後、このような流れはより
増えてくのではないのかな




ボケて、なんだかフォトジェニック
これだけ見たら京都だとは思われず
スペインあたりな佇まいも。水路閣
であるが、建設当時は京都の景観を
破壊すると反対の声もあったそうだ




琵琶湖から京都市内へ水を引いている
琵琶湖疎水の為のものであり、上部に
水が流れている。明治維新で都も東京に
なってしまい、産業も停滞しつつある
京都に元気を取り戻そうとして始めた
京都の年間予算の2倍を要した明治の
一大プロジェクトである




疏水の水力によって新しい工場を興し
舟で物資の行き来を盛んにしようという
計画だった。水路閣は明治21年に完成
南禅寺境内を通過する為、周辺の景観に
配慮して田辺朔郎が設計、全長は93.2
メートル、幅4メートル、高9メートルの
レンガ、花崗岩造りだ




ここもまた、雨の日はしっとりと
した雰囲気が良く、ホテルで起きて
朝の雨を受けて南禅寺に久しぶりに
行こうかなと思いついた訳でして




東山の麓で冷えるのは、10月末で
あるのに少し色づき始めてた塔頭の
天授庵は細川幽斎が復興したお寺で
2013年のそうだ京都、行こうの
秋のキャンペーンで使われた紅葉の寺




先程の以心崇伝が中興の祖である塔頭の
金地院にある東照宮。寛永5(1628)年の
造営で権現造り様式。家康の遺髪と念持仏
とを奉戴しており、国の重要文化財に
指定されている




応仁の乱の西軍の総大将であった山名
宗全の墓所があるのは塔頭の真乗院だ
結構、南禅寺って戦国武将にゆかりの
あるお寺であったみたいだ




応仁3(1469)年、東軍が西軍本陣に
斬り込んできた際には齢66歳ながらも
具足をつけて刀をとり庭に出て、敵兵
を追い払ったという記録もあるんだとか
西軍の諸将からは宗全入道とか、赤入道
などと呼ばれていたんだとか




明治期に作られた蹴上インクライン
(傾斜鉄道)のトンネルは、レンガを
斜めにする事で強度を増させ、その
形状からねじりまんぽ(まんぽは鉄道
下のトンネル)と言うそうで、それを
くぐれば地下鉄の蹴上駅もすぐだ

 


蹴上駅からすぐの南禅寺みたいに駅近で
便利なのが二条城で、城内を歩くので雨の
日の観光にももってこいだ。南禅寺の
方丈もだけど、以前は本物の障壁画で
あったのが、その保存を考慮し複写画
などが御殿に使用をされている




本物の障壁画は、収蔵庫などで厳重に
収蔵されるようになった。それが時期に
よって交代で公開をされており、今回は
大政奉還150周年記念展示第2弾:歴史の
舞台 〈大広間〉一の間・二の間の障壁画の
本物を見る事が出来た




二条城は足利将軍家のものや、信長が足利
十五代将軍に作った城や、自分の宿泊所を
作り、後に皇太子に寄進をしたものなども
あったが、今のものは関ケ原の戦いに勝利
した徳川家康が、京都滞在の為に作った城
であるが、朝廷は二条亭と呼んでいた




家康と豊臣秀頼の会見が行われたり、秀忠の
娘の和子が二条城から後水尾天皇の元へ入内
後水尾天皇の御幸も行われた、徳川の栄光の
城も、慶応3(1867)年10月14日に
徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上すると
いう大政奉還の場ともなった




黄金ソフト、秋麗(あきうらら)という
神々しいソフトクリームを売っていたが
寒い雨の日というのは関係なく、看板の
写真を撮った。お見送りは前日に出かけた
国宝展をしていた京都国立博物館のトラりん






         平成29年10月28日に京都で撮影

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最終更新日  2017年12月01日 17時36分31秒
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