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京都の旅

2019年07月16日
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カテゴリ:京都の旅


​日帰り旅だった割に、中身が濃かったので​
3回に分けての旅日記。今回は伏見稲荷の
後半戦と、八つ橋屋さんへの立ち寄りを
紹介したいと思います。更に帰路では・・・




前回のスタートに紹介をした表参道にある
大きな鳥居の下の狐の像は、本当は参拝の
後の帰り際に立ち寄っただけで、実際には
北側の神幸道(浦参道)から、伏見稲荷に
向かいました




きゃ~、なんだこれは!といった混み具合で
千本鳥居は、人だらけになるんじゃないかと
心配をしたが全員がそちらに行く訳でもなく
知らないのかな? 興味がないとか? 鳥居は
願い事が「通った」というお礼で奉納される




千本鳥居とか言うが、実際には奉納をされた
鳥居の数は1万基位あるらしい。そんなお金は
ないというなら、気軽に、鳥居の絵馬を買って
奉納するのも良いかもしれない。朱色は魔を
防ぐと言うが、伏見稲荷では稲荷神の力である
豊穣を表す色であるそうだ




白狐さんの絵馬は馬みたいなのや、ジャニーズ
みたいなのも、思い思いに描かれている。時間が
あれば、私もイケメンのお狐様を描きたいのに
羽生ユズや及川ミッチーとか、星野ゲンあたり
かな。お公家さんの烏帽子が似合いそうな気も




さてさて奥社参拝所の境内には、おもかる石が
あり、願い事をしてから石を持ち上げて思った
よりも軽いと感じれば願い事が叶うし、重いと
感じれば叶わないというので、幾人も並んで
順番を待っていた




私も持ち上げてみて、軽くも重くもなくって
ま、これ位だろうな~ってのはどんなもん
でしょうね。業の深い人はどんな力持ちでも
持ち上がらないんだとか




こちらは利き腕でない方で、小石を投げて
うまく穴を通れば願いが叶うという「投げ
石占い」で、こちらはやらなかった。利き
腕でも入りそうもないし




江戸期の国学者で伏見稲荷大社の社家の出の
荷田春満(かだのあずままろ)を祭っている
春満は賀茂真淵の師であり、本居宣長らと並び
国学の四大人の一人でもあるそうで、学問の
神様となった




前回のコメントで、お稲荷さんは怖いというものが
あったが、これは神仏習合の荼枳尼天(だきにてん)は
白狐に乗る天女の姿で表されるが、起源であるインドの
ダーキニーは裸身で虚空を駆け、人の心臓を食らう夜叉で
あった為である(なんだか鬼子母神を思い出す)無論
大日如来(毘盧遮那仏)が化身した大黒天にの霊力に
心服して善神となり、名だたる戦国武将が信仰していた




あとお稲荷様は願い事が叶うと、ちゃんとお返しを
する必要があると言われ、それで伏見稲荷大社でも
沢山の鳥居が建っている訳だが、私の子供の頃も
失くしものを探す時に、近くのお稲荷さんで願って
出てきたら油揚げを(袋から出し)お礼にお供え
していた




日本三大酒どころといえば、兵庫の灘に
広島の西条、そして京都は伏見という訳で
月桂冠や松竹梅、黄桜など全国でも名の
知れた日本酒の酒蔵が並ぶ。でも大関や
白鶴、沢の鶴とかは灘のお酒だけど。その
飲み口の違いから灘はキリッとした辛口の
男酒で、伏見は柔らかな甘口の女酒らしい




明治期に建てられた能舞台(神楽殿?)では
この後に、ちょっとした神楽?の演奏がされ
演者の写真&動画撮影は禁止だった




何やら、由緒ありげな日本家屋があった
↓詳しくは、このような感じだそうである
社家(しゃけ)についてウィキペディアに
よると・・・・




>社家(しゃけ)とは、日本の身分のひとつ。代々
>特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家
>(氏族)のことである。明治維新後、現代まで
>世襲している神職家のことをいう。

有名なのは出雲大社の千家で天穂日命を初代とし
84代の千家尊祐氏の長男である、千家国麿氏が
高円宮憲仁親王の次女の典子女王と結婚をされた




伏見稲荷大社の社家の場合、前に紹介した
荷田氏と、渡来系の秦氏の両家の分家を合わせ
15家があった。3家は境地に居住し、12家は
社頭に居を列ねたそうだ




現存する旧社家は大西家である。そうそう海外の
人に千本稲荷が知られたキッカケだが、ネットに
よるとチャン・ツィイー主演の映画「SAYURI」で
主人公が子供時代に、ここを駆け抜けるシーンが
あったからだとか



↑ユーチューブ予告編でも千本鳥居のシーンがある
他に嵐山の竹やぶも出てくるし。それにしても中国
女優がゲイシャを演じるとは・・・




伏見では粘土を産しており、古くから土師器が焼かれ
稲荷山の土に物を利する霊験があると言われ、江戸期
には、京都を経由する旅人や商人、西国大名の参勤交代
行列により伏見人形は日本各地に伝わって、それぞれの
土地の土人形・郷土玩具の原型となったそうだ。蔵元は
かつては数十あったが衰退し、今では「丹嘉」一カ所
だけらしい




伏見稲荷の名物グルメは小鳥の丸焼き(雀)
だけど、それは苦手なので、ガイドブックで
見つけた、いなり煎餅を購入する事にした




キツネのお面は、よく名古屋のどまつりで
豊川方面の踊り手が、つけていそうな感じ




鳥居のマスコットの横には、相撲レスラーの
Tシャツがどすこい。名古屋場所が始まって
いるが大関が次から次に離脱で、結局は
横綱になってしまうのか




こちらはJR奈良線の電車で




踏切では、レンタル着物女子も待っていた




そして今度の踏切は、京阪本線の電車のだ




踏切の横にあった京阪電車の伏見稲荷駅には
こんなカワイイ、看板キツネがちょこんと
お出迎えしてくれていた




駅横には、どど~んと白狐のコインロッカー




白狐の自動販売機




駐車場の近くには忍者~。特に伏見稲荷に
関係もないと思うが、外国人受けするの
だろう。でも近くの伏見城には甲賀忍者も
馳せ参じているそうだから、まっいいか




そういった訳で、最後に立ち寄ったのは
お買い物タイムと言う訳で、江戸後期の
文化二年創業の老舗「井筒八つ橋本舗」だ
生チョコレートとか生キャラメルと同様で
本来の八ツ橋はカタイおせんべいであった
箏曲の祖である八橋検校を偲び箏の形を
模したことに由来するとする説や




伊勢物語の第九段「かきつばた」の舞台である
「三河国八橋」にちなむとする説などがあり
聖護院八ツ橋総本店、本家西尾八ッ橋、聖光堂
八ツ橋總本舗、八ツ橋屋西尾為忠商店、おたべ
といった総本店や本家や本舗がいろいろ・・・
「夕子」は、 水上勉の小説「五番町夕霧楼」の
主人公、片桐夕子から名付けられたそうだ




京都八つ橋商工業協同組合に属すのは14社で
聖護院八ツ橋総本店のお嬢さんが伏見の酒蔵の
御子息と結婚したとか、昨年の葵祭の斎王は
本家西尾八ッ橋のお嬢さんだとか京都において
かなりウェートの高い業界、お家柄らしい




うちの娘はあんこが苦手なので、短冊形の生の
八つ橋や、カタイ本来の八つ橋の方が好きだ

店舗の前のお水だが、ちょっと読みにくいが
↑こんなお水らしい




店の前にはなぜだか坂上田村麻呂

像についてネットニュースに紹介がしてあった
のでリンクを↓。詳しくはこちらをご覧ください
「滋賀と京都が一丸に」 坂上田村麻呂像が除幕式




そして天智天皇(中大兄皇子)の石像もあった
白村江の戦いで大敗し、飛鳥より近江国大津に
遷都をした天智天皇は、「扶桑略記」によると
馬で山科に行き行方不明になり、そのまま戻ら
なかったとされ、沓が見つかった山科に陵墓が
造られたと言われてもいる




>東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭
>茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624-
>1644年)のころに仏画として描かれ始めた。当初は
>信仰の一環として描かれたものであったが、やがて
>世俗画へと転じ、加えて18世紀ごろより教訓的・
>風刺的な道歌を伴うようになった。ウィキペディアより




八つ橋の他に大津絵も売っていた。ちょっと欲しかった




>大津算盤(おおつそろばん)は、日本式のそろばんの
>ルーツ。かつては「算盤といえば大津、大津といえば
>算盤」と全国的に名を馳せた。現代のものと異なり、
>五つ玉が2つある。(中略)現代において生産高8割を
>占める播州そろばんは、 天正年間の三木城落城に
>際して大津に避難してきた人々が、技術を習得し
>持ち帰ったものである。     ウィキペディアより




江戸期の京都付近の街道は、人や馬の通る人馬道とは
別に、二列に花崗岩の車石が敷かれている一種の軌道
(車道)があり、その上を牛車の車輪が通ることから
輪通り石、輪石、輪形石などと呼ばれていた




石の右上に恵比寿さんが浮き出ているそうだ
こうして宝石店、宇治で昼食、伏見稲荷大社
井筒八つ橋本舗追分店(本店は京都祇園)と
まわって、京都東インターからバスは名神に
入ったが




10分もしないうちに大渋滞となり、全く
動かなくなってしまった。すぐ先で、外国人
観光客を乗せた大型観光バスが渋滞する車列の
最後尾に突っ込み、死傷者も出た大事故が起き
救急車や消防車が幾台も路側帯を走って行った
遠くに赤色灯が見えるくらい事故現場は近くで
あと時間が少し違えば、事故に巻き込まれて
いたかもしれない




2時間程の通行止めとなったが、1時間ほどして
すぐ横の草津パーキングエリアにバスが駐車した
のでトイレなどの心配はなかった。通行止めが
解除されると、パーキングエリアから本線へと
戻ったので、事故の現場を通過する事もなかった
本当に事故は他人事じゃない。今回も500円の
任意の保険に入ったが、これからも保険はかけて
おこうと思った




予定よりも2時間程遅くなって、夜遅くに自宅に
到着。無料で貰ったのはパックシートが3枚と
八つ橋1つ




自腹で購入したのは井筒の八つ橋と、生八つ橋
蕎麦ぼうろと、伏見稲荷で購入したおみくじの
入ったいなり煎餅。最後にお稲荷さんに油揚げを
お供えするというのの由来は、ウィキペディアに
よれば




>俗に「キツネの好物」とされ、故に稲荷神には
>油揚げを供える。キツネの好物とされた由来には
>諸説あるが、昔話などではキツネの好物はネズミの
>油揚げとされており、殺生を禁じた仏教の影響も
>あってかわりに豆腐の油揚げを供えたものという。




               令和元年5月24日に京都で撮影

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最終更新日  2019年07月16日 22時35分12秒
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2019年07月11日
カテゴリ:京都の旅


​​コンコンコン!と、このキツネが見たいと
思っていた。伏見稲荷は以前にも何度か
出かけた事があるが、いつも京阪電車の
伏見稲荷駅からのルートで、このキツネの
像のある入り口には行った事がなくって




ガイドブックか何かで、伏見稲荷の紹介で
このキツネの像が載っているのを見つけて
一度、見てみたいなぁと思ってましたが
今回は見つけられましたよ。口には金色の
稲穂が・・・なかなか愛らしい顔をしてます




こっちは前回で紹介したJR奈良線の稲荷駅の
目の前にあるようですね。真横には大っきな
鳥居があります。それをくぐって参道へと




かなりの参拝者がおいでになるようですね。既に
インスタ映えをすると、外国人観光客からは日本
有数の観光スポットでしたし、修学旅行の生徒や
日本人団体客などなど・・・




さて今回のバス旅行では、徒歩10分近くはかかる
観光バス用の駐車場で下車して、ほとんど一本道を
自分たちで伏見稲荷(途中まで添乗員さんが引率)
まで出かけ、集合時間前に下車した観光バス駐車場
まで戻ってくるという自由行動で、時間も少し長め




あまり広いとは言えない、街中の観光バス駐車場は
次から次へと団体バスがやってくるので、下車時に
10分以内に駐車場から出て、他の所で時間を潰し
今度は集合出発時間の10分のみ、また駐車場に
入車が出来るというシステムで




添乗員さんから、早く戻ってきてもバスはいないし
絶対に、集合時間には遅れないようにして下さいと
念を押された。伏見稲荷までは迷う事はないにしても
途中に京阪電車とJRの線路の踏切があるので、その
あたりの時間も考えて戻ってくる必要がある




日本人は神社もお寺も、教会すらもあんまり
抵抗のない宗教観だから、神社も平気で参拝を
してる人が殆どだと思うけど、様々な宗教を
持つ海外の皆さんは神社仏閣、どんな気持ちで
参拝されてるんだろう




やっぱり文化財みたいな感じで、参拝ではなく
鑑賞目的なのだとは思うが、伏見稲荷は京都の
世界遺産には選ばれていない。赤い鳥居での
写真がSNSで話題になって、海外の皆さんが
押しかけているのだけど




京都での世界遺産の神社仏閣は、次の通りで
賀茂別雷神社(上賀茂神社) 賀茂御祖神社(下鴨神社)
教王護国寺(東寺) 清水寺 延暦寺 醍醐寺
仁和寺 平等院 宇治上神社 高山寺 西芳寺(苔寺)
天龍寺 鹿苑寺(金閣) 慈照寺(銀閣) 龍安寺 
西本願寺 二条城




唯一、苔寺だけ行ったことが無い。ここは予約も
必要だし、拝観料もお高い事もあって、なかなか
行こうという気持ちにもなれなくて。修学院離宮や
桂離宮とかも事前に予約が必要だが、無料なので
しっかり出かけた事がある




うちの息子など友達と奈良に出かけた時に、東大寺
大仏殿の前まで行きながら拝観料が高いので、入るの
やめたそうで、あそこまで行きながら~。奈良まで
行ったのに・・・と呆れたものだが




わざわざ海外から京都へやってきた観光客には、予約も
必要なく、参観時間もなく、しかも無料で、アクセスも
良い神社は良い観光先であろう。ここ伏見稲荷と他にも
八坂神社とかは、私も近くに行くとまず参拝をさせて
貰っているし・・・




さてさて、寺の門には阿吽の仁王さんがおいでになるが
神社では「随身像(ずいじんぞう)」となる。向かって
右が左大臣で、左は右大臣だそうで、左大臣の方が高位
なので老人の姿をしており、右大臣は若かったりもする
仁王同様に阿吽の口元をしているが、これは




ウィキペディアによれば
>阿吽(あうん、サンスクリット語: अहूँ 、a-hūṃ)は
>仏教の真言の一つ。古代インドのサンスクリットの
>悉曇文字(梵字)において、a(阿)は全く妨げの
>ない状態で口を大きく開いたときの音、m(hūṃ、
>吽)は口を完全に閉じたときの音である。




>悉曇文字の字母の配列は、口を大きく開いたa(阿)
>から始まり、口を完全に閉じたm(hūṃ、吽)で
>終わっており、そこから「阿吽」は宇宙の始まり
>から終わりまでを表す言葉とされた。宇宙のほか
>にも、a(阿)を真実や求道心に、m(hūṃ、吽)を
>智慧や涅槃にたとえる場合もある。




>阿吽は宗教的な像にも取り入れられ、口を開けた
>阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の
>一対の像は、神社の狛犬(本来は獅子と狛犬の一対)
>などにみられる。また、寺社の金剛力士像(仁王像)や
>沖縄のシーサーなどにも口を開けた阿形と口を閉じた
>吽形がみられる




キツネばかりの伏見稲荷でも、普通の神社のように
狛犬もいた。さてさてお稲荷さんでキツネがいるのは
前回の宇治神社でのウサギみたいなエピソードでも
あるのだろうか。そんな訳で伏見稲荷大社について
ウィキペディアにどう書いてあるかを紹介すると




>伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府
>京都市伏見区深草にある神社。旧称は稲荷神社。
>式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。
>旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁に属さない
>単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を
>神域とする。




>全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社
>である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を
>集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧
>社家は大西家。祭神は以下の五柱。これらの神々は
>稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている




>主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦
>大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年
>(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中
>大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの
>社殿に合祀する形)に祀っている




>稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が
>下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・
>芸能上達の守護神としても信仰されるようになった
>摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒が
>はっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と
>何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神
>的傾向が濃厚」としている




>下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおり
>田の神ではないかと考えられるが、かつては大己貴神や
>猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視された。中社の
>摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の
>神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かって
>いない




>「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったと
>されるものが有名である。(中略)秦氏と賀茂神社との
>関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを
>伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で
>作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請
>すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、
>五穀が稔って国が富んだ、とも伝えている。




>上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の
>表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが、
>『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月
>辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた(中略)
>また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』では(大意)
>ある書物では、100年の昔の和銅年間から竜頭太という
>者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を
>耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。




>その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり
>夜でも昼のように明るかった。姓は荷田、名は竜頭太と
>いった。これは稲を背負っていたからという。(中略)
>空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは
>収穫が絶えることがなくなった。この面は東寺の
>竃戸殿に祀ってある。




この竜頭太という山の神こそが、稲荷神であるそうだ
ちょっとまて。弘法大師は出てきてもキツネは出て
こないという事で、ウィキペディアで続きを・・・
>稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、稲を象徴
>する穀霊神・農耕神。「稲荷」とは食物の神(ウカノ
>ミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司
>旅芸人が町回りで立てる細長い旗などを指す言葉。




>「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の
>姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。
>もとは古代社会において、渡来民の秦氏から伝わった
>氏神的な稲荷信仰であり、秦氏の勢力拡大によって
>信仰も広まっていった。本来の「田の神」の祭場は
>狐塚(キツネを神として祀った塚・キツネの棲家の
>穴)だったと推測されるが、




>近世には京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰が
>広まり、狐塚に稲荷が祀られるようになった。五穀を
>つかさどる神・ウカノミタマと稲荷神が同一視される
>ことから、伏見稲荷大社を含め、多くの稲荷神社では
>ウカノミタマを主祭神としている




>稲荷は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業
>全体の神として信仰されている。稲荷神は神仏習合
>思想において仏教の女神である荼枳尼天とも習合した
>ため、仏教寺院で祀られることもある。稲荷神を祀る
>神社を稲荷神社と呼び、京都市伏見区深草にある伏見
>稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本宮
>となっている。伏見稲荷大社では、狐は稲荷神の神使と
>される




>伏見稲荷大社は狐を稲荷神の神使とし、稲荷神そのもの
>ではないと述べていたり、また最上稲荷は白狐を稲荷神
>(最上位経王大菩薩)の御眷属(お使い)と述べて
>いたりするように、一般的に寺社においては祭神と狐は
>区別されている。民間伝承においては、稲荷と狐はしば
>しば同一視されており、例えば『百家説林』に「稲荷と
>いふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌が
>記されている。




>また、稲荷神が貴狐天皇(ダキニ天)、ミケツ(三狐・
>御食津)、野狐、狐、飯綱と呼ばれる場合もある。 日本
>では弥生時代以来、蛇への信仰が根強く、稲荷山も古くは
>蛇神信仰の中心地であったが、平安時代になってから
>狐を神使とする信仰が広まった。稲荷神と習合した宇迦之
>御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の
>古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と
>当て字したのが発端と考えられ、




>やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、
>「三狐神」は「サグジ」とも読む。かつて「シャグジ(石神)」
>または「三狐神(シャグジ)」であった岩屋(神)が、後に
>稲荷神・ウカノミタマを祀る神社となった事例もある。時代が
>下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の
>格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と
>呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。




>上記されているように稲荷神は元々は農業神であるが、
>狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食すること、狐の色や
>尻尾の形が実った稲穂に似ていることから、狐が稲荷神の
>使いに位置付けられたとも言われる。江戸時代に入って
>稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるように
>なった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、
>流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。




>また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、
>稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に
>祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である

と言った事らしいです。ハイ・・・・。といった事を
長々、説明しているうちに写真は有名な千本鳥居へ




このフォトジェニックな朱色の千本鳥居が大人気で
トリップアドバイザーで日本の観光地ランキングでは
1位を誇っている(2位は広島の原爆資料館)。海外の
方の姿も多かったけど、老若男女を問わずたくさんの
人で、この子たちは修学旅行中の男子学生みたいだが
レンタル着物で京都をまわるのも楽しそう




あちらの着物のお嬢さんは、海外からのお客様の
ようだ。外国の若い人に日本が人気なのも、この
レンタル着物も一役買っているのかも。気候的に
京都は夏はむちゃくちゃ暑いし、冬は底冷えだし
桜の春に、秋の紅葉。5月も観光には適していた
しかもかなりの良い天気




日差しが鳥居の隙間から、差し込んで良い感じだし
たくさんの人が訪れる伏見稲荷の鳥居だけど、狭い
一方通行の千本鳥居の奥の方も、ずっと鳥居が続き
そちらの方は人も少ない。まず海外の皆さんだけだ
千本鳥居も、人がぱっと少なくなるタイミングも
あったりするし、私はぐるっとまわってきて入口
からもう1度・・・




前に紹介した境内図にあるように、社殿の背後にある
標高232メートル。一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰と三つの
峰がある稲荷山が神体山で、朱色の鳥居で結ばれた先に
様々な神様が祭られている。千本鳥居の奥にあるのが
奥社参拝所(奥の院)からお参りが出来る




前に娘と稲荷山をぐるっと参拝をさせて貰ったが
今回はそのような時間がないので、ここまでで
引き返すことにした。と言っても千本鳥居をもう
一度、ぐるっと出来るだけの時間はあったけど




表からなだと朱色だけで無地な鳥居も、帰りに
裏側から見ると参拝者の名前と、奉納した日が
書かれている。人の名前の入っているのとかは
どうもなぁ~と思うところだが、漢字の読めない
海外の方は、漢字がクールだとこちらの方が人気
だそうだ




ウィキペディアによれば
>鳥居(とりい)とは、神社などにおいて神域と人間が
>住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への
>入口を示すもの。一種の「門」である。稲荷神社などの
>鳥居が朱色であるのは、古来その色が生命の躍動を
>表し災いを防ぐとして神殿などに多く使われたためで、
>これが鳥居にも影響しているとされる




>鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源に
>ついてはっきりしたことは分かっていない。単に
>木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると
>考えられる。文献に徴すれば古くは「於不葦御門
>(うへふかずのみかど)」(皇太神宮儀式帳)と
>称して、奈良時代から神社建築の門の一種として
>いる。いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立
>している。




と言った訳で、前回にもましてウィキペディアに
よる説明文ばかりになってしまって申し訳がありま
せんでした。稲荷や狐、鳥居については少しは興味
持たれたでしょうか。中身が濃すぎる無料招待の
日帰りバス旅行、まだ1回あります! ではでは




            令和1年5月24日に京都で撮影

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最終更新日  2019年07月11日 22時58分53秒
コメント(74) | コメントを書く
2019年07月02日
カテゴリ:京都の旅


さてさて前回の懸賞当選報告でも、少し紹介​
しました、いつもの日帰りバス旅行無料招待
いつものように一人で出かけたけど、今回も
とても良い方がお隣で、楽しい一日でしたよ




まずは、お決まりの宝石屋さんで90分間の
ショッピングタイム。誕生石クイズで当たり
パックのシートを今度も貰いましたが、お隣の
奥さんも当たった♪と、ニコニコされてました
この宝石は、コンクールとかに出すやつらしく
撮影が出来る入口の部屋で




今回はお買い上げになった方がいるらしく
その手続きなのか、バスの発車が遅れたので
先程のパックのシートをバス全員にも配って
くれました。バスは木曽川を超え名神高速を
西へと向かい




昼頃には、昼食場所の京都の宇治に到着!
家族旅行などを含めて、宇治は今までに
数度は来ているが、嵐山同様に風光明媚で
いいところだなぁ~




川の畔の喜撰茶屋で、団体料理を
いただきますが、今までは早くに
食べても、土産物屋を見物する位
でしたが、ここならお散歩に行け
そうだし!




お店のホームページを見たところ、たぶん
1500円位のお料理かな。冷たくなった
天ぷらは湯豆腐に投入し、温かで美味しく
なりました。お散歩時間確保の為に早食い
しちゃいまして




集合時間までの時間はありますし、早足
ではありますが、宇治の散歩に行くぞ~
宇治に来ると、平等院が満足度が高いし
抹茶パフェとか食べに行くので、実の話
川の向う(東側)は行った事が無いのだ
まずは朱色の喜撰橋を渡る




鵜飼いと言えば、岐阜市の長良川が有名
だけど、ここ宇治でも鵜飼をやっている
ようだ。私は岸からだけど以前に嵐山で
泊まった時に、遠くから鵜飼を見た事が
ある




お~~、鵜がいるよ♪ 鵜飼について
ウィキペディアで、紹介させて貰うと

>鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を
>使ってアユなどを獲る、漁法のひとつ。中国、
>日本などで行われていた。現在では漁業という
>より、観光業(ショー)として行われている
>場合が多い。 また、ヨーロッパでは16世紀
>から17世紀の間、スポーツとして行われた。




>鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の
>条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを
>問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、
>此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部の
>ことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った
>歌謡が載っている。




>天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある。
>また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の
>条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法と
>して『以小環挂鸕鷀項、令入水捕魚、日得百餘頭』
>(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と
>記されている。




>延喜年間(901年 - 923年)には長良川河畔に
>7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁により鮎が献上
>された。そして、それを時の天皇が気に入り、
>方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料として
>賜り、鵜飼七郷と読んだ




>『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、
>『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰
>美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。
>文明年間(1469年 - 1486年)、一条兼良が
>美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録が
>ある。




>永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の
>鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を
>授け鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵を
>当て、給与した。

う~む、古くから鵜飼されていたんだ。しかも
美濃国の長良川河畔でされていたとは。岐阜県民
だというのに見物したことが無い




「浮島」「浮舟ノ島」などの人工島の一つである
「塔の島」には、現存をする近世以前の石塔では
日本最大(約15.2メートル)の十三重石塔が建つ
これは鎌倉時代に、宇治橋の大掛かりな修造がされ
宇治川の川中島として、大橋の南方に舟を模した
人工島を築き、放生会を修する祈祷道場とした




宇治川で漁撈される魚霊の供養と、橋の安全の祈念を
旨にして島の中央に大塔婆が造立されたそうである
島は宇治川の氾濫にも耐えて、激流に浚われる事が
無く「浮島」「浮舟ノ島」と呼ばれるようになったが
大塔は氾濫の被害を受けて、倒伏と修復を繰り返し
江戸時代に起きた氾濫で倒伏し、川底の泥砂に埋もれ
明治末に発掘されて再建をした。国の重要文化財だ




近江より奈良へ帰る途中、宇治川付近で歌われた
柿本人麻呂の歌碑があった。「宇治川の網代木で
一時停滞し、やがて行方知らずとなる波のように
滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったい
どうなったのであろうか」との意で、




もののふの八十氏河(やそうじがわ)の網代木
(あじろき)にいざよふ波の行く方しらずも

こちらは橘橋と言うらしい。時間がないので
渡らず遠くから、眺めて拝観終了




宇治川の向こう岸には、道元が興聖宝林寺を
建立した事に始まる、日本の曹洞宗としては
最初の寺院となった興聖寺。宇治川に面した
総門より本堂に通じるまでの緩やかな参道は
「琴坂」と呼ばれ、宇治十二景の1つにも数え
られている




更に、源氏物語の宇治十帖に縁があるという
「手習観音(聖観音)」が安置されていると
いうので、いつかは参拝に出かけたいけど
今回も時間的に無理のようだ




そして宇治川と言えば、源義仲と鎌倉の源頼朝
から派遣をされた源範頼、源義経との宇治川の
戦いとしても有名で、佐々木高綱と梶原景季の
宇治川の先陣争いなども




それに先んじて、以仁王(高倉天皇の兄宮)と
源頼政が平氏打倒のための挙兵を計画し、諸国の
源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発したが、準備
不足の雨に露見し追討を受けて、以仁王と頼政は
宇治平等院の戦い(橘合戦)で敗死をしてしまった




単に風光明媚な土地と言うわけではなく、交通の
要所がゆえに、歴史に幾たびか登場する宇治だが
やっぱり、その名が一番知れ渡ったのは紫式部が
執筆した「源氏物語」の存在が大きいと思われる
私も子供の頃に、これで宇治の名を知った




とは言っても現代語訳のものだし、光源氏の物語は
真剣に読んだけど、亡くなったのちの宇治十帖とか
流し読み状態だったが。ここでの主人公は薫の君で
光源氏(本当は柏木)と女三宮の息子で、生まれつき
体から良い薫がするので、そう呼ばれている




こちらは匂宮と浮舟が、小舟の上で愛を語らう場面
らしい。匂宮は今上帝の三の宮(第三皇子)で、母は
光源氏の娘である明石の中宮で、光源氏の孫となる
薫の君に対抗し、薫物(たきもの)に心を砕いており
二人は世間から「薫る中将、匂ふ兵部卿」と呼ばれ
世間の評判はこの二人に集中していたそうだ




イケメンでイケイケな匂宮は、薫の君から宇治八の宮の
姫君たちの噂を聞き、薫の手引きによって中君と結婚
するが、夕霧の娘六の君を北の方に迎えると、中君を
ないがしろにしてしていた。しかも中君の異母妹である
浮舟が、薫君の恋人と知りながらも薫になりすまして
契りを結んだ為、浮舟は苦悩のあまり入水を図ったのだ




もともとが昼食タイムなので、あまり時間がないけど
この神社位なら参拝が出来そうだ。このすぐ近くには
世界遺産にも登録されている、宇治上神社もあるが
時間のある時にゆっくりと参拝をさせて貰おうかと
思う。先程の曹洞宗のお寺や源氏物語ミュージアム
なども行きたいし




といった訳で今回お邪魔をしたのは、かわいらしい
「宇治神社」である。普通であれば龍の口からだが
ここではウサギだし。中世に宇治茶の象徴としての
宇治七名園が作られて、お茶には不可欠な水として
「宇治七名水」も定められ、現存する唯一のものが
この「桐原水」で、宇治上神社の境内に沸いている




この樹は「兎楽の樹(うらくのき)」といい、簡単な
説明は下の写真をご覧下さい。宇治神社と宇治上神社の
御祭神は、ウサギに導かれた菟道稚郎子命である




彼は第15代応神天皇の皇子(日本書紀では皇太子)で
16代仁徳天皇の異母弟であるそうだ。宇治の地名は
古くは宇遅、莵道、兎道などとも表記されており
菟道稚郎子の宮があった

ウィキペディアによると
>『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐と
>王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された。




>応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、
>日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り
>捨てている。応神天皇40年1月に皇太子となった。
>翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と
>互いに皇位を譲り合った。




>そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが
>太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと
>挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して
>郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に
>遭って殺された。




>この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を
>譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の
>煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期す
>べく、自ら果てた。




>尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に
>招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田
>皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという
>『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載が
>あり、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚
>郎子を指すと見られている




壬申の乱を前にして大海人皇子(天武天皇)も
近江を後に吉野へ向かう途中で、ここ宇治にも
立ち寄っていたという。宇治川のあたりでの別れ
際に、舎人たちは大海人皇子の吉野行きを「翼を
つけた虎を野に放したようなものだ」と言った
そうだ




そんなこんなの歴史の端々に登場する宇治、歴史
ファンならば妄想モード最強になれるのは間違い
なし。宇治川の東側のこの道をさわらびの道といい
川の西側はあじろぎの道で、良い散策路になって
いる




万葉集にある詠み人知らずの歌

宇治川は淀瀬無(よどせな)からし網代人(あじろひと)
舟呼ばふ声をちこち聞ゆ




現代においては宇治と言えば、やっぱお茶という
事で、さわらびの道沿いに「福寿園 宇治茶工房」が
あったので、次に来た時には立ち寄りたいが時間も
ないので、そろそろ戻るとするか




お昼をいただいた喜撰茶屋で、50円の割引券を
貰っていたので、喜撰ソフトをぱくり。八つ橋が
ささっているよ




自分が喜撰ソフトになる事も出来るし♪ 




と言った訳で集合時間になったので、バスに
乗車して、今回のメインの伏見稲荷大社へと
向かう事にする




バスの車窓からは宇治の縣神社。大和政権下に
おける県(あがた)に関係をする神社と見られ
1052(永承7)年に、藤原道長が別業(別荘)を
寺院である平等院とする際、鎮守としたそうだ




「宇治橋」は「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に
日本三古橋の一つに数えられ、日本霊異記に道登が
宇治橋を架けたのは、646(大化2)年と伝えられて
いる。古今和歌集や紫式部の源氏物語に登場し、能の
「鉄輪」で登場する橋姫伝説でも有名である




現在の橋は、1996(平成8)年に架け替えられ
長さは155.4m、幅25m。橋の姿が宇治川の自然や
橋周辺の歴史遺産と調和するよう、擬宝珠を冠する
木製高覧という伝統的な形状を使用している




宇治へは京都から京阪宇治線と、JR奈良線があり
京阪は宇治が終着となるが、JRは宇治川を渡って
奈良へと。この電車はJRの「みやこ路快速」だ




昨日あたり、娘が最近は奈良に行って
いないし、久しぶりに京都や奈良とかに
行きたいなぁ♪なんて嬉しい事を言って
いたので、この夏は関西地方に出かける
事が出来るかも♪




秀吉が隠居の為に建てた伏見城は、戦いも
経て、関ヶ原の戦いで勝利した家康が再建を
したが、一国一城令で二条城を残し伏見城は
廃城となり、一帯には桃が植えられ桃山と
呼ばれたそうだ。戦後になって遊園地が出来
模擬天守も作られた




          令和1年5月24日に京都で撮影

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最終更新日  2019年07月02日 15時44分29秒
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2017年12月13日
カテゴリ:京都の旅


長らくここで紹介をしてきた10月末と
11月中旬の​国宝展目当ての京都行きの
紹介も、いよいよ最後の回となりました
2度目の京都。11月16日の最終日に
出かけた先は・・・




黄金の菊の御紋と、桐の紋のある由緒
ありげな立派な門。真言宗醍醐派総本山
醍醐寺の塔頭の三宝院(さんぼういん)に
ある国宝の唐門である。菊と言えば皇室
そして桐は豊臣秀吉の紋として有名であり
ここは秀吉が醍醐の花見を行った寺である




本来は三宝院の為に造られたものでなくて
違う場所に建立する予定のものが、ここに
建立されたたしく、北政所の寄進によって
前田玄以の奉行により建立されたと伝わる
桃山時代の門で、2011年の改修により
黒漆塗が施され一層、立派になった




ウィキペディアの記述を引用すると
>永久3年(1115年)、左大臣 源俊房の
>子で、醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院
>(かんじょういん)として開き、後に
>仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。




>応永3年(1396年)に足利義満の猶子と
>なって醍醐寺座主に任じられ、続いて
>准三后となり、後には足利義教の室町
>幕府将軍擁立にも活躍するなどした。
>以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる
>慣例が成立する




>古くから醍醐寺は真言宗系の修験の
>中心であったが、この頃から三宝院が
>真言宗系の修験者、山伏の取締にあたる
>ようになる。(中略)応仁の乱で三宝院が
>焼失し廃寺同然となるが、




>安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主で
>あった義演は豊臣秀吉の信頼が厚かった
>ため、同院を中心に有名な醍醐の花見が
>開かれた。義演は准三后となり、秀吉の
>許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を
>三宝院と改称した




>桜で有名な醍醐寺三宝院庭園はその時期に
>整備された。義演は徳川家康からも信任を
>受け、江戸時代初期の天台宗系修験道で
>ある本山派本山の聖護院との相論では江戸
>幕府の支援を受けて、慶長18年(1613年)に
>修験道法度が制定された。




この中央の3つの石は阿弥陀三尊を表す
「藤戸石」であるが天下人が所有すると
いう名石である。源平の戦いで源氏方の
佐々木盛綱が、馬で海を渡ろうと思いつき
藤戸の渡(倉敷)の浅瀬を土地の若い漁師
から教わり、他言をされては先陣を人に
奪われてしまうと思い漁師を切り殺した




謡曲「藤戸」にも描かれた、漁師を殺した
場にあり、浅瀬の目印でもあった藤戸石は
勝利へ導いた石として足利義満が金閣寺へ
移し、その後は細川典厩家の庭に置かれて
いたものを、信長が足利将軍の為に建てた
二条城に据え置き、後に豊臣秀吉の聚楽第
から、花見の為の造園で醍醐寺三宝院へと
運ばせた




派手好きな豊臣秀吉のエピソードで必ず
出てくるのはこの醍醐寺三宝院の山麓で
開催をされた醍醐の花見であろう。その
様子はウィキペディアの記述によれば




>豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を
>初めとして、諸大名からその配下の
>女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な
>催しで、九州平定直後に催された北野
>大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の
>催し物として知られる。




>記録に残るその日の輿の順は、1番目に
>北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、
>3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、
>5番目に加賀殿、その後に側室ではない
>前田利家正室・まつが続いた。宴会の
>席では、正室である北政所の次に杯を
>受けるのを淀殿と松の丸殿が争い




>北政所とは家族ぐるみの長い付き合いの
>まつが「歳の順から言えばこの私。」と、
>申し出てその場をうまく取りおさめたと
>いう話が伝わっている。(中略)花見に
>招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の
>他には唯一前田利家の名が見えるのみである




>応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた
>醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主
>である義演は、秀吉の帰依を得て良好な
>関係を築いていたが、秀吉の最期が近い
>ことを感じ取り、一代の華麗な英雄の
>最後にふさわしい大舞台をしつらえる
>ために、あちこちにそれとなく手配をして




>この醍醐の花見を実現させたともいう。
>秀吉はこの約5か月後に没した。花見の
>責任者に奉行の前田玄以を任命し、秀吉
>自ら下見のために醍醐寺へ足繁く通い、
>殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の
>山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の
>桜を植樹した




>参加した女性たちには2回の衣装替えが
>命じられ、一人3着ずつ着物が新調され
>衣装代だけで2015年現在の39億円に
>相当する金額がかかった
       ウィキペディアより転載




との事で今でも醍醐は桜の名所で、私も
桜の頃にも来たことがあるけど、今回は
紅葉狩り。庭は撮影OKだが建物内部は
撮影禁止なので写真はないが、表書院は
醍醐の花見の際して奈良から移された能の
楽屋を中門を付加するなど、書院造風に
整えたもので国宝に指定をされている




更に玄関、勅使の間・秋草の間・葵の間
庫裏、宸殿(奥宸殿)、純浄観、護摩堂
(本堂)など殿堂6棟の他、 長谷川等伯
一派と、石田幽汀による障壁画の数々が
重要文化財に指定をされている




今週末に最終回を迎える大河のおんな城主
直虎だが、海老蔵信長の最後がどうなるかと
楽しみだったのにとりあえず死んだらしいと
伝聞。ナレ死すらもなくて、桶狭間の戦いを
すっとばした大河だけあるわと拍子抜けで
やっぱ岩村のおんな城主の方が素材として
面白かったんじゃない?




旦那は後半の阿部家康が気に入ってしたけど
信長に殺されるかもと光秀に吹き込まれて
戦々恐々。直虎がわざわざ関西まで出向いて
家康の逃げ道の段取りをを作るなんてこじつけ
すぎ。まっお江が一緒に家康と伊賀越えをした
ってファンタジー(妄想)大河もあったけど
もうわき役女性を主役にするのは辞めたら?




それだけに来年は堂々と西郷隆盛するのは
好感が持てるが、西田敏行と鹿賀丈史の
イメージがまだ残っている。西田さんの
秀吉もぴったりだったなぁ(おんな太閤記)
まっ、これは北政所が主役だけど関ケ原の
キーパーソンではないかと言われる程だし
北条政子や日野富子、春日局にしても別格




持統天皇とかやったらいいのになぁ~。天皇家
内紛だから古代でも無理なのかなぁ。天智天皇の
皇女として生まれ、政略結婚で姉と共に叔父の
天武天皇(大海人皇子)に嫁ぎ、甥と夫の確執に
よっての逃避行から戦乱。戦いに勝利し天皇と
なった夫を支えて(姉は既に亡くなっている)




病弱な息子を天皇にするべく有力な皇子を
策略で追い落とし(姉の忘れ形見も)たが
息子が亡くなると、7才の孫を天皇にする
まではと、自分が皇位につき藤原不比等と
いう優秀な腹心もいた事もあって、律令国家
建設を推し進めた、類まれな才能と行動力を
持った女帝であった




と断線しましたが三宝院から、今度は醍醐寺の
広大な境内へと向かいました。その入り口には
西大門(仁王門)。豊臣秀頼が再建したもので
そこに安置された仁王像(重文)は、もともとは
南大門に祀られていた尊像で、平安後期に仏師
勢増、仁増によって造立された尊像である




醍醐寺についてウィキペディアによれば
>真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を
>醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は
>薬師如来、開基(創立者)は理源大師
>聖宝である。古都京都の文化財として
>世界遺産に登録されている。




>醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、
>空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が
>准胝観音並びに如意輪観音を笠取山
>頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂
>付近を「醍醐山」と名付けた。




>醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)
>を中心に、多くの修験者の霊場として
>発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの
>祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、
>その圧倒的な財力によって醍醐山麓の
>広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展
>することになる。




>その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は
>荒廃し、五重塔のみが残された。しかし
>豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけ
>に、紀州などから寺院建築が移築されたり
>三宝院が建設されたりなどし、今日の姿
>となった。




国宝の金堂であるが
>入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。
>平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願に
>より紀州から移築したもので、慶長3年
>(1598年)から移築を開始し、秀吉
>没後の慶長5年(1600年)に落慶して
>いる。当初は紀州湯浅の満願寺本堂で
>あったという。




>部材には平安時代のものが残るが、堂が
>湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、
>移築時の桃山時代の手法も混在する。内部
>には本尊薬師三尊像(重要文化財)を
>安置する    ウィキペディアより転載




同じく国宝の五重塔は
>天暦5(951)年建立。承平元(931)年
>その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を
>祈るために第三皇子の代明親王が発願し、
>穏子皇太后の令旨で建立が計画された。
>しかし、代明親王の死去(937年)などの
>影響で工事は停滞し、発願の20年後に
>完成した。




>総高38メートル。うち相輪部が12.8メートル
>で、全体の3割以上を占める。創建以来修理を
>重ねたが、特に天正13年(1585年)の地震
>では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な
>被害を受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長
>3年(1597年)に修理が完成している




>京都に残る数少ない平安時代建築として
>貴重であるとともに、初重内部の両界
>曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安
>絵画の遺品として重要であり、塔本体
>とは別に「絵画」として国宝に指定
>されている。




今回は行く気にもならなかったが、下醍醐に
対してお山の上には、上醍醐にも伽藍が幾つも
あって国宝の薬師堂とか、国宝の清滝宮拝殿
などもあり、お寺の名の由来となった醍醐水
という霊泉もわいている




下醍醐から上醍醐までは、山道を1時間ほど
登らなければならず、まだ若い頃に一度だけ
参拝をさせていただいたが、キツかった覚えが
標高450メートルの醍醐山の山上にある




今回出かけた京都のお寺は、南禅寺や
青蓮院、知恩院といいどこも格式も
高くて、歴史もある権力者に近しい
お寺ばかりを紹介したけど、ここも
もう、どこもかしこも国宝だ、重要
文化財だとわんさか




上醍醐の薬師堂にはかつて、国宝の薬師三尊像
重要文化財の閻魔天像、帝釈天像、千手観音像
といった諸像があったのだが、今は防犯&保存
から下醍醐にある最新の設備を持った霊宝館に
保管&展示がされている




五重塔など数棟の建造物の国宝の他にも、絵画
9件、彫刻(仏像)二体、文書&書籍は7件と
24件の国宝があり、重要文化財に至っては
快慶の仏像や俵屋宗達の屏風絵など、数十件は
軽くありそうだ。国宝展にでかけなくても
国宝が幾つも拝見できる




なんでも仏像・絵画・工芸品など10万点以上の
寺宝があるそうだ。なんでこんな膨大な数に
なるかというと文書とかお経などは1件あたりの
数量が膨大であるので。2017年に国宝に
なったばかりの「宋版一切経」も 6,102帖(附
経箱604合)と数千点で構成をされている




霊宝館ではこのような貴重な寺宝を、テーマなど
決めて展示をしており、先ほどの国宝ほやほやの
「宋版一切経」も見る事が出来た。宋版一切経は
南宋時代初期に木版で印刷刊行された仏教経典の
一大全集で、ほぼ完全に残っており経箱に南宋の
年号が確認され、醍醐寺に伝わった経緯も判るので
重要文化財から国宝に格上げがされた




貴重な仏教関連のお宝の他にも、醍醐の花見で
秀頼、前田利家らが詠んだ和歌の短冊など所縁の
宝物も展示をされていて、歴史ファンには興味
深かった




「醍醐大しだれ桜」は樹齢180年。東西24メートル
南北20メートルもある大樹で、霊宝館にはこの他にも
40本以上の桜がある。推定樹齢百年のソメイヨシノは
ソメイヨシノとしては京都最古、高さは11メートルを
超えるを越える




醍醐寺は、地下鉄で醍醐駅まで行って、そこからは
コミュニティバスのようなもので行ったが、帰りは
東山三条まで行く路線バスが、ちょうど時間がよく
それを利用した。他にも京都駅からのバスもあった




           平成29年11月16日に京都で撮影

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最終更新日  2017年12月13日 17時29分52秒
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2017年12月11日
カテゴリ:京都の旅


京都で紅葉のシーズンともなると​、幾つもの
お寺で夜のライトアップが始まって、市内に
泊まる観光客や地元民で多少なりとも賑わう
様は冬のイルミネーション輝く東京や大阪の
都会のようだ




とは言っても繁華街でもなく、元々が
お寺などのある静かな街なので、大きな
声を出すのすら憚れて、夜のしじまの中
こんな京都の夜を楽しめるのも、一興と
いうもの。ホテルから近いここは白川で
テレビドラマでもよく登場したりする




比叡山と如意ヶ嶽の間に水源があり、全長は
9.3キロ。京都市動物園付近で琵琶湖疏水に
入り慶流橋から疏水と分れ、四条大橋付近で
鴨川に注ぎ、平安期には付近に白河院御所も
あったそうだ。このあたりは東山三条の東側
あたりで




坂本龍馬とお龍が元治元(1864)年
8月に、祝言をあげたという青蓮院の塔頭
金蔵寺のあった跡で、お龍の父は青蓮院宮
に仕えた医師だったので、その関係もあり
金蔵寺住職の智息院が仲人を務めたそうだ
そうそう、その日は11月13日で竜馬の
誕生日であり、暗殺された日でもあった




流石に京都だけあって、犬も歩けば神社仏閣
旧跡に当たる。その日の夕食は繁華街へ出る
のも面倒で、ホテルからライトアップをする
寺院へ行く途中で、東山三条あたりでと考え
灯りが暖かなほうざんに立ち寄ることにした




最近になって出来た和食処のようで(不明)
開店祝いらしき蘭の花が隅に置かれていた
お値段も一品物から手頃な価格で、場所柄
地元民より観光客相手でもあるのかな?




税込み千五百円の都膳で




デザートに柿も出た。他にも日替わりで
750円の定食もあるようだが、その日の
メインは苦手な食材(たぶん鶏肉)だった
のでパス




姉の方はさっぱりと、うどん。お腹も
一杯になったし、ではではライトアップに
参戦といきますか(本当は食事から白川
構成上、食事が最初ではと逆にしました)




それでなくても迫力のある青蓮院の門前の
大楠も、ライトアップで夜空を遮るように
覆っていた。青蓮院が現地に移転をした
13世紀以降に植採をされたものだそうで
5本あり市の天然記念物に指定されている




今はないが、かつてこの向いにあった
旅館に家族連れで20年以上前に泊まった
時だが、部屋に通されからお茶を出した
高齢の中居さんが、胸元に挟んだのし袋を
出し入れをしてチップをさりげなく(?)
要求してきたけど、用意などしてなかった
ので、鬼瓦のような顔になったのが怖かった




露骨に要求されたのこれっきりだった
けど、他の観光地の旅館では部屋係の
お姉さんが退出した時に、廊下で他の
中居さんから「幾ら貰った?」と聞かれ
口ごもっていたのが気の毒だった。まっ
そうゆうのもあって中居さん恐怖症で
旅館よりホテルばかり使ってた時期も




最近は温泉目当てもあって、旅館も使うが
チップとかは渡していないです。食事も
食堂だったり、布団敷きも男の人たちだし
特に同じ中居さんが担当をって事も皆無で
フロントで鍵を貰い、食事の時間を決めて
自分たちで部屋に行くのも増えてきたし




帰り際のフロントで宿泊料を払う時に
料理が良かったとか、温泉が最高でした
などと褒め、感謝の気持ちを伝えて帰る
ようにはしているが。美味しかったとか
良かった思い出は忘れても、不快な事や
予想外の事は昨日の事に思い出される




お造りで、お腹がそぎ落ちたお魚が
ピクッと動いたので、姪がびびり魚の
頭を紙で隠していた伊豆の温泉旅館も
民事再生して、立て直し系のチェーンに
資金援助を受け再出発をしたとテレビで
やっていたし、旅館業も大変だ




そんな訳で青蓮院に戻ります。ここの
ライトアップは春と秋に行われており
幾つもある中で、ここを選んだ理由は
青いライトが庭に施され、夜空に輝く
星空のようだというので、紅葉がまだ
でも楽しめそうだと




特別拝観料は800円(昼間は500円)と
少し高めだが、本堂や諸堂御殿の中も靴を
脱いで拝観が出来た。その後に玄関に戻って
ライトアップをされた庭をまわるのだが
足元を照らすように、丸い提灯を手渡され
なんだかテーマパークみたいで楽しい




流石に名のあるお寺であるだけに、豊臣
秀吉が寄進したといわれる巨大な一文字の
自然石で作られた「一文字型手水鉢」なども
水がたまるところ、とりあえず硬貨を投げ
込むのが日本人のようだ




室町期の相阿弥の作と伝えられ、粟田山を
借景にし、その山裾を利用した池泉回遊式の
庭は、龍心池の対岸南に高く石積みした滝口を
中心とし、東側にかけて築山が設けられた
築山泉水庭でもある




11月の半ばとは言っても、やっぱり紅葉
には早くて、これらが赤くなるのはまだまだ
先のようだ




でも、その代わりとはいってはなんだが竹林の
ライトアップが印象的。さて青蓮院門跡について
このあたりで紹介をしておくと開基は伝教大師
最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)
である。梶井(三千院)、妙法院と共に天台宗の
三大門跡寺院である




ウィキペディアによると
>「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が
>入寺する寺院の事であり、青蓮院は多くの
>法親王・入道親王(皇族出身で親王の
>称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を
>務め格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所と
>なったことがあるため「粟田御所」の
>称もある




>梶井、妙法院とともに、青蓮院も比叡
>山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院が
>その起源となっている。青蓮院は比叡山
>東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源で
>あり、門跡寺院となって山下に移ったのは
>平安時代末期の行玄大僧正の時である




>久安6年(1150年)に鳥羽上皇の皇后
>美福門院は青蓮院を祈願所とした頃から
>寺格が上がり始め、鳥羽上皇の第七皇子
>覚快法親王が行玄の弟子として入寺して
>より後は、皇家や摂家の子弟が門主を
>務める格式高い寺院となった。




>江戸時代の天明8年(1788年)、天明の
>大火で内裏が焼失した折には、青蓮院が
>後桜町上皇の仮仙洞御所となった。この
>ため青蓮院旧仮御所として国の史跡に
>指定されている。近代に入り、明治26年
>(1893年)の火災で大部分の建物が
>失われた




>平成4年(1993年)には過激派(中核派)の
>放火により好文亭が焼失したが2年後に再建
>されている。  以上、ウィキペディアより
青蓮院の鎮守神として比叡山の山王日吉社から
勧請された十禅師社。 日吉の神さまは天台宗の
宗護神だそうで、古い天台宗の寺院には必ず
祀られているんだとか




青蓮院と言えば1144年の創建以来初めて
国宝の「青不動明王二童子像」が平成21年に
御開帳があり私も姉と出かけてきたが、この
青不動は、高野山明王院の赤不動、三井寺の
黄不動とともに日本三不動画の一つで、現存
する平安仏画の最高傑作であるそうだ




そんな事も意識をしての青い色のライト
アップであろうか。 宸殿は門跡寺院特有の
もので主要な法要はここで行われる。有縁の
天皇及び歴代門主の御尊牌を祀る。宸殿前に
右近の橘、左近の桜を配するのは、御歴代
尊儀の在ます所の意味であり、親鸞聖人が
第三代門主慈圓により得度をした場所でも
あり、お得度の間とも言うそうだ




ご本尊の織盛光如来であるが、織盛光仏頂・
摂一切仏頂輪王とも言う。釈迦牟尼仏が衆生
教化のため忿怒(怒り)の相を表わした姿と
いい、身の毛孔から熾盛の光明を出すという
天災地異の際これをまつり除災招福を祈ると
いう熾盛光法がある




その為、特に平安時代から鎌倉時代にかけては
宮中から勅命を受け、折々に天変地異の息災と
皇室の安寧を祈願する役割を担っていたそうだ
ご本尊の「熾盛光如来曼荼羅」は、天台第3世
座主円仁が唐から持ち帰ったものは戦乱で焼失し
現在のものは、安土桃山時代の作で豊臣秀吉が
奉納したものだそうだ




国宝の青不動の他にも数多くの重要文化財の
寺宝が残されているが、第二次世界大戦以後
この寺から流出した寺宝も多く、重要文化財
クラスでも16点もあるそうだ。なんだか
このように格式の高いお寺も、神社も色々と
あるんだろうな・・・・




親方と相撲協会の確執に続き、今度は
有名神社の相続争いと神社本庁の関係
まるでサスペンスドラマみたいな展開
神聖な神社が金の亡者と化した一家に
食い物にされ、神様もお怒りだと思う




先日は南禅寺の三門を紹介したけど
闇に浮かび上がるのは徳川秀忠の命に
よって建立をされた知恩院の三門で
高さ24メートル、横幅50メートル
屋根瓦は約7万枚。「華頂山」の額の
大きさは畳二畳以上にもなるそうだ




楼上内部は仏堂となっており、その中央に
宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇に十六羅漢像が
安置をされており、天井や柱、壁などには
迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が
極彩色で描かれていている。竜神は水を
操るので火災除けであると、ここの特別
公開で聴いた




更には知恩院の七不思議の一つである
白木の棺があり、三門造営の命を受けた
造営奉行の五味金右衛門夫妻の木像が
安置をされている。これは懸命に三門を
完成させたのだが、工事の予算が超過し
その責任をとって自刃をした夫妻を弔う
為であるとか




この知恩院でも七不思議があるので
他のものもざっと紹介をしておくと
御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に
至る廊下は、全長数百メートルもあり
歩くと、鶯の鳴き声に似た音が出るが
曲者の侵入を知る為のもの(忍び返し)




御影堂正面の軒裏には和傘があるが
左甚五郎が魔除けの為に置いたもの
だそうだが、他にも雄誉霊巌上人が
御影堂を建立する時に、このあたりに
住んでいた白狐が自分の新しい棲居を
作って欲しいと上人に依頼し、それが
出来たお礼にこの傘を置いて、知恩院を
守る事を約束したという説もある




大方丈入口の廊下の梁に置かれた大きな
杓子は長さ2.5メートル、重さ約30キロも
あり、三好清海入道が大坂夏の陣の時に
大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の
御飯をすくい、振る舞ったというもので
あるそうだ。全ての人々を救いとるという
意味から




方丈の廊下の杉戸に描かれた狩野信政の
猫の絵は、どちらから見ても見る人の方を
正面から睨んでいるよう見える。大方丈の
菊の間の襖絵(狩野信政)の数羽の雀も
上手に描かれたので雀が生命を受け、飛び
去ったので、飛び去った跡しか残ってない




黒門への登り口の路上にある大きな石は
知恩院が建立される前からあると言われる
瓜生石で、誰も植えたおぼえがないのに
瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜があおあおと
実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が
瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現して
一夜のうちに瓜が生え実ったという説がある




更に瓜生石を掘ると、二条城までつづく抜け
道があるとか、隕石が落ちた場所であるなど
様々な伝説があるんだとか。こんな不思議が
一杯の知恩院の紅葉のライトアップ、11月も
半ばだというのにまだまだといった感じだし
高いお金を払って階段上って、中の拝観も
できる訳でもなく、ちとしまった~感が・・・




ま、それでも除夜の鐘の中継でも有名な日本
最大級の鐘も見れたし、夜のお寺は幻想的でも
ある。寛永13(1636)年に鋳造された鐘は高さ
3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン
「えーいひとーつ」「そーれ」の掛け声のもと
親綱、子綱を17人の僧侶が最大限の力を振り
絞り、108つの除夜の鐘を打ち鳴らす




最後に知恩院についてであるが、浄土宗総本山で
山号は華頂山(かちょうざん)で、華頂山知恩教院
大谷寺という。ご本尊は法然上人像と阿弥陀如来で
開基は浄土宗の宗祖である法然だ。法然が後半生を
過ごし没した草庵のあった地に建てられ、現在の
大規模な伽藍が建立されたのは、江戸期である




二条城同様に徳川家の京都での拠点とされ
将軍家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし
朝廷を牽制するという位置づけでもあった
かつて門主は皇族から任命をされたが、更に
その皇子は徳川将軍家の猶子となったとか




         平成29年11月15日に京都で撮影

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最終更新日  2017年12月11日 19時05分33秒
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2017年12月06日
カテゴリ:京都の旅
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​​
この写真は、最初に国宝展(第二期)に
出かけた10月末の​京都なのですが既に
紅葉も始まっていました。テレビか何かで
水辺は夜など冷え込むと言ってましたが
それで、紅葉の進みも周囲よりも少しは
早いのかな




紅葉の盛りにはさぞかし美しいであろう
このお寺は京都でも有数の紅葉スポット
浄土宗西山禅林寺派の総本山。禅林寺
またの名を永観堂というが、その名の
由来は、優れた徳の高い第7代の住職
永観律師の永観からだとか




しかし永観堂はえいかんどうと読むが
永観律師の方はようかんと読むそうだ
山号は聖衆来迎山、院号は無量寿院で
本尊は阿弥陀如来。御開基は、空海の
高弟の真紹僧都だそうで、古くより
「秋はもみじの永観堂」と言われている




禅林寺の本尊である阿弥陀如来立像は
顔を左に曲げている像であるのだが
永保2(1082)年、永観が日課の
念仏を唱え、阿弥陀如来像の周囲を
行道していると、須弥壇から下りた
阿弥陀如来が永観と共に行道を始めた




それに驚いた永観が歩みを止めると
阿弥陀如来は振り返って、永観遅しと
言葉を発したそうだ。それより阿弥陀
如来像の首の向きが元に戻らないまま
なんだとか




このような「みかえり阿弥陀」は、中国
では北宋時代に遡る例があり、国内では
この像が最古で、山形県の善光寺像など
他にも若干の作例があるそうで、阿弥陀
来迎時に浄土へと戻る際に、往生者を
見守る為に阿弥陀が振り返る姿なのだとか




東京国立博物館に寄託をされている寺宝の
仏具の「金銅蓮華文磬」は国宝展で実物を
見る事が出来た。今まさに臨終をしようと
する信仰者の前に、阿弥陀仏と眷属たちが
極楽から迎えに来た来迎の場面を描いた
絹本著色山越阿弥陀図の方は東京で見たか
どうかは覚えがない




今回の国宝展では、京都国立博物館にある
ものであったが、仏の胸と右掌には小さな
絵絹の欠失があって、かつては五色の糸が
結びつけられ、今まさに臨終をしようとする
信仰者の手に握らせ、阿弥陀の縁を結ばせて
いたんそうだ。この話は金戒光明寺で聞いた




ところで「極楽」とは、阿弥陀の浄土の事
だそうで、阿弥陀経には「衆苦あることなく
ただ諸楽を受くるが故に極楽と名づく」と
あるそうだ ウィキペディアによれば↓




>この極楽という仏土は広々としていて、
>辺際のない世界であり、地下や地上や
>虚空の荘厳は微をきわめ、妙をきわめて
>いる。この浄土にある華池や宝楼、宝閣
>などの建物もまた浄土の宝樹も、みな
>金銀珠玉をちりばめ、七宝乃至は百千万の
>宝をもって厳飾されている




>しかも、それらは実に清浄であり、光明
>赫灼と輝いている。衣服や飯食は人々の
>意のままに得ることができ、寒からず
>暑からず、気候は調和し、本当に住み
>心地のよいところである。また、聞こえて
>くる音声は、常に妙法を説くがごとく、
>水鳥樹林も仏の妙説と共に法音をのべる。




>したがって、この浄土には一切の苦は
>なく、ただ楽のみがある。(前後するが)
>いまをさること十劫の昔、阿弥陀仏は
>成道して西方十万億の仏土をすぎた彼方に
>浄土を構えられた。そして、現在でも、
>この極楽で人々のために説法している。




他にも薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」や
阿閦(あしゅく)仏の「東方妙喜世界」、
釈迦仏の「西方無勝世界」、観音菩薩の
「南海補陀落山」など諸仏の浄土が、娑婆
(現実)世界から見ればあらゆる方向に
あるそうで、それを十方浄土という




各経に説かれた十方の如来や、仏を信じて
いればその浄土に行くという話だ。更に
「一蓮托生」という言葉があるが、これは
死後に阿弥陀の極楽浄土に往生し、同じ
蓮花の上に生まれ変わって身を託したいと
いう事から




「他力本願」とは、阿弥陀仏が衆生を救済
する本願の働きの事であり、「自業自得」は
自ら行なった善悪の行為により本人自身が
その報いを受けるで「因果応報」も同様で
どれもが仏教から派生した熟語である




南無阿弥陀仏というお念仏は、阿弥陀に帰依し
極楽浄土に導いて欲しいという、浄土宗や浄土
真宗で使われ、姉も西本願寺系だけど、うちの
あたりは曹洞宗や臨済宗の土地柄だが、年寄りが
御詠歌の他に、なむあみだぶつ~なんまいだ~と
念仏をやっていたような




まっ、明治期の廃仏毀釈で虚無僧の普化宗が
なくなったとドラマの中で扱われていたけど
それまでは神仏習合。神様、仏様。お念仏も
盂蘭盆会も先人の行ってきた事は、昭和とかに
なっても続けられていたけど、戦後生まれが
多くなってきた最近は風前の灯火




ある意味で楽しみのない田舎での老後の娯楽
でもあったように思います。それが昨今では
ゲートボールとかカラオケ、ダンス、手芸や
旅行となんでもありな老後の趣味。ご朱印状
ブームのようにお寺や神社も、年配の人より
若い人や海外の人の方が多いくらいですが




それもまた文化財があったり、歴史的な
由緒を持つような、限られた寺社仏閣に
限られた事であって、地域の人たちの為に
ある無名のところは檀家も減って、兼業
でもしてないと生活も立ちゆかない




修理も出来ずに、雨漏りだらけの屋根に
食事はカップラーメンばかり。年収は
生活保護以下といった地方のお寺の惨状を
テレビで特集をしており、限界集落同様に
限界のお寺も地方には数多くある。対策と
してお寺の統廃合を打ち出そうとしても
当然、廃寺となる側では反発をする声も




うちの地域の神社も禰宜様が高齢で、最近
廃業をしたので、神社の神事などは近隣の
神社の禰宜様がやってきてくれるのだが
地域での祭りでは、地域の住民が神事を
簡素化し見よう見まねで行っている有様だ




地域の要になる産業が無くなり、人が減り
学校が無くなり、お店が無くなり、交通が
無くなり、寺社が無くなり、集落が消え
もとの野山となってしまうのも仕方がない
話なのかもしれない。まだ、うちのあたりは
観光業があるので、今後も集落が残るのは
確実ではあるし




なによりも観光客の為に、駅から路線バスが
一定時間毎に運行されているので、車のない
老人の足が確保されているのも有難い事だ
更に中央道の神坂パーキングエリアに長年
話だけはあったスマートインターの設置が
具体化(2021年)したので交通の便が
更によくなる




話逸れました。戻します
今は神社は彫刻もあって、朱色で華やかで
お寺は茶色で、地味なイメージがあるけど
それらは、鎌倉期に武士に好まれた禅宗の
影響があっての事で、それまでのお寺など
朱塗りは魔よけの意味もあって派手な彩色
などもされていたようだ




そういやぁ~京都の醍醐寺とか鞍馬寺
平等院とか色鮮やかな朱色だし。この
永観堂の今は緑の葉っぱも、11月の
半ばになれば真っ赤っか。それもまた
見てみたかった




紅葉の有名なお寺なのに、その時期に
一度も来た事がない。でも見返り観音
とか、斜面を利用したお寺が面白くで
何より、この階段のカーブが好きでして
永観堂には七不思議があるそうでして
この階段もその一つであるそうだ




御影堂、阿弥陀堂、開山堂に続いている湾曲
している急こう配の階段を臥龍廊(がりゅう
ろう)といい、まるで龍が体をうねらせて
いるように見えるので名づけられたんだとか




永正年間(1504~1521)に造られたものが
昭和に改修されたそうである。ここも屋根が
ある回廊で巡れるので、雨の日観光に良いと
考えてコースに入れたが、この頃には雨も
止んでいた




七不思議のひとつ悲田梅は、永観律師が境内に
薬王寺(悲田院)という施療院を置いて、梅を
育てて、梅の実を病人や貧しい者に分け与えた
もので、その梅の木が一本だけ残っている




更に七不思議の三鈷の松は、普通の松葉は
二本であるが、この木の松葉は三本で葉の
長さも30センチ近くにも及ぶ珍しい松で
財布に入れておくと、お金がたまるとか
箪笥に入れると服がたまると言われている




更に春に三鈷の松の辺り一帯に棲んでいる
蛙の鳴き声が、まるで木魚を叩くようなので
木魚蛙と呼ぶが、誰もその姿を見た事は無い
伝法堂(瑞紫殿)の阿弥陀如来坐像は応仁の
乱で諸堂が焼け落ちた時も、右手が焦げた
のみで焼け残ったといい火除けの阿弥陀如来
として火除けの信仰を集めている




古方丈の孔雀の間の欄間には、雀が描かれて
いるが、向って右端の欄間には五羽の雀が
描かれているハズなのに、四羽しかおらず
一羽少なく抜け出してしまったと言われる
臥龍廊や多宝塔付近の急斜面に生えている
紅葉は、寺が建立される前にこの地に住んだ
藤原関雄の和歌にちなんで岩垣紅葉と言う




  おく山の岩垣紅葉散りぬべし照る
  日の光みる時なくて (古今和歌集)

「菟芸泥赴」の中には「本堂の傍に聖衆来迎の
松があり。永観説法の時、この松に弥陀如来
影向ありしとなり。今は枯てなし」とあり、
山号の由来を示す伝承で、阿弥陀堂の右手に
ある松がそれなんだとか




と数えると1,2,3・・・8つ。あれれ
七不思議なのに八つとはいかに。お寺には
水琴窟などもあれば、足の悪い方のために
エレベーターなども設置がされていたので
見返り阿弥陀も容易に参拝も出来る。と
いう訳で10月の国宝展(2期)目当ての
京都初日は祇園、東山、三十三間堂、国宝展
二日目は二条城、南禅寺、永観堂であった




午後には京都駅に出て小腹も空いたので
食事をする事にしたが、私はどうしても
京都らしいパフェが食べたくて、丼も
どちらも食べられるという京都駅地下
ポルタにある「nana's green tea」だが
ここって東京本社の全国チェーンなのね




ナゴヤドーム前のイオンとか、名古屋パルコ
にもお店があるんだ、まっいいか。姉はご飯が
食べたいというし




私はパフェが食べたいのだから、何も京都の
お店に拘る事は無い。とは言っても本当は
湯豆腐が食べたかったんだけど・・・次は
11月の4期の国宝展の時の京都観光を紹介
します。ではでは




     平成29年10月28日に京都永観堂で撮影

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最終更新日  2017年12月09日 10時11分44秒
コメント(80) | コメントを書く
2017年12月01日
カテゴリ:京都の旅


テレビやネットニュースで、紅葉時期の
京都の寺社における観光客の迷惑行為を
報道をしていた。お土産に持ち帰ろうと
ぶちぶちと紅くなった葉を枝からちぎる
高齢女性が次々に映り、葉の無くなった
枝が痛々しい




はらはらと葉が舞い落ちる風情が好きだと
枝を揺すっては葉を落とす高齢女性とか
カメラマン同士が場所取りでなのか喧嘩
して、写真撮影を禁止したお寺(記念写真
程度ならOK)とか、自分勝手な人たちに
つける薬はなさそうだ




2期の国宝展で出かけた10月下旬の
京都2日目は生憎のお天気で、あまり
歩きたくもなかったし、雨の日の風情を
楽しむならここかなぁ~とやってきた
お寺は東山の南禅寺。ひと月もしたら
この緑の葉っぱもみんな真っ赤に色づく
事だろう




歌舞伎の「楼門五三桐」で、石川五右衛門が
南禅寺の三門の上から満開の桜を眺めて言う
台詞は「絶景かな、絶景かな。春の眺めは
価千金とは小せえ小せえ。この五右衛門には
価万両・・・」との事。しかしこの門だけど
五右衛門の死後30年後に再建されたものだ




門とは鳥居同様に外部の邪悪なものと内部の
聖なるものとの境界に位置し、邪悪なものは
一切入らない結界の印が「しきみ(閾)」で
あったのが「しきいき」→「いしきいき」→
「しきい(敷居)」という言葉に転化された
したがって神聖な「敷居」は、またぐもので
踏んではいけないそうだが座っていいのか?





寺社は観光施設ではなくて、宗教施設であると
いう事を今一度われわれも認識する必要がある
のかも。藤堂高虎が、大坂夏の陣で戦死をした
一門の武士らの冥福を祈る為に寄進したものだ

三門とは空門、無相門、無願門の三境地を経て
仏国土に至る門の事で三解脱門を表すとされ
〇〇山の山号より山門という事もあるそうだ




天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽による
もので、知恩院三門、身延山久遠寺と共に
日本三大門の一つでもある。三門の中には
門に扉を設けないものもあるが、これは
一切衆生が、仏門に入る事を拒まない仏の
大慈悲心を表すものだとか




実は私が子供の時に、亡き母親と最めて
京都に来た時に訪れたのが南禅寺だった
(他には方広寺、豊国神社)。その前の
年位に叔父親子と東本願寺に行ったのが
初・京都寺社拝観になったのだけど




やっぱ母親に連れられ出かけた南禅寺の
思い出は今も色あせる事は無い。先程の
三門は重要文化財だが、方丈(大方丈と
小方丈からなる)は国宝に指定をされて
いる。大方丈は慶長期の御所建て替えに
際し、天正期に建設をされた女院御所の
対面御殿が下賜されたもの




名勝に指定をされている方丈前の枯山水
庭園は「虎の子渡しの庭」といい、小堀
遠州の作庭だとか。虎の子渡しと言えば
竜安寺のそれでも有名だが、その由来は
      ウィキペディアによれば↓




>虎は、3匹の子供がいると、そのうち
>1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放って
>おくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を
>食ってしまうという。そこで、母虎が
>3匹の虎を連れて大河を渡る時は次の
>ようにする




>母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう
>岸に渡してからいったん引き返す。次に
>残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に
>行くと、今度は、どう猛な子虎だけを
>連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、
>3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。




>この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹
>だけが残っているので、母虎は最後に
>これを連れて向こう岸へ渡る、という
>中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に
>基づくものである。




こちらは妙心庭。お庭などは写真の
撮影が出来るが、建物の中は撮影禁止に
なっているので写真はありませんが




>大方丈の間取りは六間取で、南側が西から
>順に花鳥の間(西の間)、御昼の間、麝香の
>間、北側が西から順に鶴の間、仏間(内陣)
>鳴滝の間である。建物の東端は幅一間半の
>細長い部屋で、柳の間と呼ばれる




>仏間を除く各室に桃山時代、狩野派の
>障壁画があり、計124面(附指定4面を
>含む)が重要文化財に指定されている。
       ウィキペディアより転載

接続して建つ小方丈は、寛永期のもの
だそうで、障壁画は狩野探幽の作と伝え
られるが、作風上からは数名の絵師に
よるのであるらしい。南禅寺については




>臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。
>山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平
>興国南禅禅寺である。本尊は釈迦如来、
>開基(創立者)は亀山法皇、開山
>(初代住職)は無関普門(大明国師)




>日本最初の勅願禅寺であり、京都五山
>および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの
>寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も
>高い格式をもつ。(略)南禅寺の建立以前
>この地には後嵯峨天皇が文永元(1264)年に
>造営した離宮の禅林寺殿があった。




>亀山上皇は正応2(1289)年、40歳の
>時に落飾(出家)して法皇となった。
>2年後の正応4年(1291年)、法皇は
>禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の
>無関普門を開山として、これを龍安山
>禅林禅寺と名づけた。




↑ウィキペディアより転載
それが南禅寺の前身となるらしい
時代が下り、応仁の乱などで焼失し
荒廃した寺を再興したのは、徳川
家康の側近として幕府の法律の立案
外交、宗教統制を一手に引き受けて
その権勢から黒衣の宰相の異名を
取った以心崇伝である




そして南禅寺と言えば三門同様に有名
なのが、この水路閣である。片平なぎさ
さんとかが佇んでいると、どこからか
現れる狩矢警部。色んな男優さんが演じ
られているが、私的には若林豪さん




皆さんもきっと、テレビか何か一度
くらいは水路閣を見た覚えがあるの
ではないでしょうか。この紅葉なども
真っ赤になればさぞかし綺麗だろうな
でも京都の秋の特別公開とか、紅葉
より一足早く京都に出かける事が多い




向こうからも、早くどかないかなぁ~と
思っているだろう観光客。何でも南禅寺
境内は一脚、三脚による写真撮影は禁止
みたいだ。今後、このような流れはより
増えてくのではないのかな




ボケて、なんだかフォトジェニック
これだけ見たら京都だとは思われず
スペインあたりな佇まいも。水路閣
であるが、建設当時は京都の景観を
破壊すると反対の声もあったそうだ




琵琶湖から京都市内へ水を引いている
琵琶湖疎水の為のものであり、上部に
水が流れている。明治維新で都も東京に
なってしまい、産業も停滞しつつある
京都に元気を取り戻そうとして始めた
京都の年間予算の2倍を要した明治の
一大プロジェクトである




疏水の水力によって新しい工場を興し
舟で物資の行き来を盛んにしようという
計画だった。水路閣は明治21年に完成
南禅寺境内を通過する為、周辺の景観に
配慮して田辺朔郎が設計、全長は93.2
メートル、幅4メートル、高9メートルの
レンガ、花崗岩造りだ




ここもまた、雨の日はしっとりと
した雰囲気が良く、ホテルで起きて
朝の雨を受けて南禅寺に久しぶりに
行こうかなと思いついた訳でして




東山の麓で冷えるのは、10月末で
あるのに少し色づき始めてた塔頭の
天授庵は細川幽斎が復興したお寺で
2013年のそうだ京都、行こうの
秋のキャンペーンで使われた紅葉の寺




先程の以心崇伝が中興の祖である塔頭の
金地院にある東照宮。寛永5(1628)年の
造営で権現造り様式。家康の遺髪と念持仏
とを奉戴しており、国の重要文化財に
指定されている




応仁の乱の西軍の総大将であった山名
宗全の墓所があるのは塔頭の真乗院だ
結構、南禅寺って戦国武将にゆかりの
あるお寺であったみたいだ




応仁3(1469)年、東軍が西軍本陣に
斬り込んできた際には齢66歳ながらも
具足をつけて刀をとり庭に出て、敵兵
を追い払ったという記録もあるんだとか
西軍の諸将からは宗全入道とか、赤入道
などと呼ばれていたんだとか




明治期に作られた蹴上インクライン
(傾斜鉄道)のトンネルは、レンガを
斜めにする事で強度を増させ、その
形状からねじりまんぽ(まんぽは鉄道
下のトンネル)と言うそうで、それを
くぐれば地下鉄の蹴上駅もすぐだ

 


蹴上駅からすぐの南禅寺みたいに駅近で
便利なのが二条城で、城内を歩くので雨の
日の観光にももってこいだ。南禅寺の
方丈もだけど、以前は本物の障壁画で
あったのが、その保存を考慮し複写画
などが御殿に使用をされている




本物の障壁画は、収蔵庫などで厳重に
収蔵されるようになった。それが時期に
よって交代で公開をされており、今回は
大政奉還150周年記念展示第2弾:歴史の
舞台 〈大広間〉一の間・二の間の障壁画の
本物を見る事が出来た




二条城は足利将軍家のものや、信長が足利
十五代将軍に作った城や、自分の宿泊所を
作り、後に皇太子に寄進をしたものなども
あったが、今のものは関ケ原の戦いに勝利
した徳川家康が、京都滞在の為に作った城
であるが、朝廷は二条亭と呼んでいた




家康と豊臣秀頼の会見が行われたり、秀忠の
娘の和子が二条城から後水尾天皇の元へ入内
後水尾天皇の御幸も行われた、徳川の栄光の
城も、慶応3(1867)年10月14日に
徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上すると
いう大政奉還の場ともなった




黄金ソフト、秋麗(あきうらら)という
神々しいソフトクリームを売っていたが
寒い雨の日というのは関係なく、看板の
写真を撮った。お見送りは前日に出かけた
国宝展をしていた京都国立博物館のトラりん






         平成29年10月28日に京都で撮影

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最終更新日  2017年12月01日 17時36分31秒
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2017年11月30日
カテゴリ:京都の旅


このところのお天気は、暖かだったりや
寒かったりと日替わりな寒暖差もあって
風邪で体調悪化だったも、なんとか乗り
越えられたようで、ふと気がついたら
11月も最終日になっていた




レンタルビデオは安いし、地域行事も
あれば、新蕎麦も食べに行きたいしと
どたばたしてしまって、何が何だかと
いう感じの11月だったが、ある意味
中身が充実していたという事で




さて国宝展の為に2期の10月下旬と
4期の11月半ばの2度に渡って姉と
出かけた京都だけど、国宝展以外にも
もちろん観光にも出かけたので、その
紹介。まずは10月下旬の方の1日目




新幹線で昼前に京都駅に着いて、祇園で
お昼ご飯を食べてから、国宝展が空いて
くる午後遅くまでを、お天気も良いので
時間つぶしに出かけたのは、東山界隈で
ここであれば外れはない




祇園祭でも有名な八坂神社からスタート
するのが私の東山での散歩の定番であり
その日も、沢山の観光客で賑わっていた
八坂神社の主祭神は素戔嗚尊やその妻と
8人の子供だそうである




斉明天皇代2(656)年に、高句麗から
来日をした調進副使の伊利之使主(いりし
おみ)の創建とされる。貞観11(869)年
疫病が流行をした際に神泉苑で行われた
御霊会を起源とした祇園祭は、天禄元
(970)年頃から八坂神社の祭礼として
毎年行われるようになったそうだ




境内には縁結びにご利益があるという
大国主命が祀られた大国主社があるが
本殿前は外国人観光客が参拝など全く
せず記念撮影に興じて途切れなかった
ので少し離れた所での参拝となった




美御前社(うつくしごぜんしゃ)には
素戔嗚尊が所持していた剣から生まれた
美女と誉れの高い宗像三女神が祀られて
おり、社殿の前に美容水が湧き出ており
お肌につければ効果抜群であるんだとか




東西南北を守護する四神によって護られた
地の京都。北は玄武、南は朱雀、西は白虎
そして八坂神社がある東は青龍が守護して
おり、八坂神社の本殿の下には池(龍穴)が
あり青龍が住んでいるそうで、その本殿下
から湧き出る水が祇園神水(力水)である




歴史ファンに見逃せないのが、その脇に
ある忠盛灯篭で、由来については下部の
説明板の文章をお読み下さい。このように
京都のあちこちに、千年の王都の歴史が
見え隠れしている




この褒美に、寵姫の祇園女御を与えた
白河法皇は女子が生まれれば朕の子と
するが、もし男子が生まれれば、忠盛の
子として育てよと命じるが、その時に
生まれたのが平清盛であったとも伝わる




その他には清盛の母親(祇園女御の妹)が
白河法皇の子を産み、祇園女御が養子として
育てたなんて説もあるんだとか。八坂神社の
近くにある祇園女御の住居跡に、その菩提を
弔う供養塔が建てられている




まるで祇園祭の鉾のような建物は、祇園閣
(銅閣)といい、大倉財閥の設立者である
大倉喜八郎が建てた、別邸の真葛荘の一部
なのだが、この地への大雲院の移転により
伽藍の一部となった




本能寺の変で自害した織田信忠(信長の子)の
菩提を弔う為に、二条御所跡(烏丸御池)に
創建したもので、信忠の法名から名づけられ
長らく四条に位置しており、市中を引き回し
されていた市石川五右衛門が大雲院の門前で
亡くなった為、五右衛門の墓もあるそうだ




周囲が繁華街になったので、大倉氏の別邸を
買い取って東山に移転したんだとか。その為
書院にも、大倉邸をそのまま利用をしており
祇園閣ともども、国の登録有形文化財に指定
されている




平家物語から、戦国。そして幕末へと・・・
司馬遼太郎の燃えよ剣で新選組ファンに
なった私には、御陵衛士(ごりょうえじ)の
存在は忘れられない。思想の違いから伊東
甲子太郎一派が新選組から離脱し、名目上は
孝明天皇陵(後月輪東山陵)を守る為にと
作られた組織である




高台寺塔頭の月真院を屯所とした為、高台寺党
とも呼ばれている。江戸以来の盟友であった
藤堂平助や、新選組側のスパイとも言われる
斎藤一なども参加。後に油小路事件で伊藤らは
新選組に惨殺され、生き残りの衛士が伏見で
近藤勇を狙撃し重傷を負わせた




更に、後に近藤勇は関東の流山で大久保大和
(剛)と称し新政府軍に出頭したが、元衛士
らに正体を看破されて捕縛をされて、斬首と
なったのだ。高台寺へと登る参道をてくてく
ここは紅葉時のライトアップを見たり、桜の
頃など馴染みのお寺だ




高台寺は秀吉の菩提を弔う為、北政所が
建てたお寺で、落飾した北政所の院号を
寺の名にしたもので、伏見城の建物を
移築した女性らしい華やかな寺だ




特に霊屋には、高台寺蒔絵は施され
一見の価値があるが、今回は内部は
パス。何か囲まれた石の周りには
おみくじが結んであるが、ただの石
なのか、由来でもあるのかは不明




第二次世界大戦の戦没者や犠牲者の
追悼の為に、帝産グループ創設者の
石川博資によって建立された、鉄筋
コンクリート造りの霊山観音だが
高さ24メートル、重さは約500トン




高台寺所蔵の涅槃図のデジタル複製画が
内部に貼り巡らされた利生堂では法要や
講演会を催すものだが、無料での拝観が
出来た。そこからの京都駅前方面の展望
すぐ脇には、SLOWJETCOFFEE高台寺が
あり、娘ときたら寄ってみよう




そのカフェ前からの眺め。いつまでも
変わらぬようで、かなり変化も感じる
京都。行くたびに、お~っこんな新しい
お店が! 寺の宝物館がピカピカだよ!
と驚く事ばかり




今も昔も観光客で溢れている二寧坂
(二年坂)、三寧坂(三年坂)界隈は
京都観光の目玉スポットの一つである
とりあえず、このあたりをうろつけば
京都へ来た感が半端ない




その多くは外国人観光客や、修学旅行生
団体観光客などなど。したがって年配の
人よりも、若い人たちに好まれるような
お店が、どんどん増えているような気も




暖簾の奥には三つ指をついた世界的な
アイドル、キティちゃん。うちの姉も
一時期はキティを集めてたみたいだが
還暦を過ぎて興味も薄れたようだ




いわゆるインスタ映えしそうなキティの
パンケーキも食べれるようだが、お昼を
食べたばかりだし、店頭のサンプル品の
写真をパチリ




こういった割引は好感が持てる




今夏オープンしたばかりなのが、左側の
スターバックス京都二寧坂ヤサカ茶屋店で
純和風の誂えでお座敷なんだとか。娘と
ならたぶん行ってたかも




坂がきついし、この先の清水寺も大規模
改修中なので引き返す事にしよう。とか
いってもいつもそんな感じで、坂を登らず
ここから右手の八坂の塔方面へと向かうと




インスタ映えをすると観光客に大人気の
日本における庚申信仰発祥の地とされて
日本三庚申の一つ八坂庚申堂。正式には
大黒山延命院金剛寺といい、本尊の青面
金剛は、飛鳥時代に中国大陸より渡来を
した秦氏の守り本尊であったんだとか




中国道教の説く三尸説(さんしせつ)では
庚申の夜には睡眠中に体内の三尸虫 が逃げ
出して、その人の罪を天帝に告げ早死にを
してしまうので、虫が逃げぬよう徹夜をして
身を慎むと、長生きが出来るとされており
平安時代には貴族が行っていたのが、広く
庶民も行うようになった




くくり猿は、お猿さんが手足をくくられて
動けなくなった姿を現していて、欲に走る
者を戒める事を意味しているそうで、願いを
書き込んで一つ欲を我慢すれば、願いが叶う
ものなんだとか。八坂界隈ではご縁がある
よう、家族円満の祈願で5つのくくり猿を
軒先にぶら下げている




こちらの塀の上には、這うようにして立派な
松の枝。何メートルあるんだろっ。その先に
八坂の塔があり、592年に聖徳太子が
如意輪観音の夢告により建てたとされる




その際には仏舎利を三粒を収め、法観寺と
号したというが、平安以前に朝鮮半島系の
渡来人の八坂氏の氏寺として創建をされた
のが真相みたいだ。何度となく焼失をし
今の塔は永享12(1440)年に足利義教の
援助によって再建されたもの




戦国時代には地方より、上洛をした大名が
当寺に定紋入りの旗を掲げる事で、誰が
新しい天下人になったかを世人に知らせた
そうである。このあたりは以前は人など
少なかったのに、穴場的な場所は外国人の
人の方が多いような気もする。SNSの
力ってすごいし




間もなくバスの通る東大路通に出るという
あたりのレトロな建物で、何のお店なんだ
ろう? そろそろ京都国立博物館へ向かう
べく市バスに乗るが、東山界隈から京都駅へ
向かうルートは午後など観光客でいっぱいだ




まだ国宝展に入るには早いようなので、向かい
側にある三十三間堂(蓮華王院本堂)で沢山の
観音様を拝観させていただこうと思った。元は
後白河上皇の離宮である法住寺殿内に、創建を
された仏堂で、御本尊の千手観音の別称である
蓮華王に由来して蓮華王院という




後白河上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて
完成したといい、創建当時には五重塔なども
建つ本格的な寺院であったのが、火災で焼失
間面記法による三十三間四面に由来し、三十三
間堂というが、法華経等には観音菩薩は三十三
種の姿に変じて衆生を救うと説かれている




堂内の中央には、鎌倉時代の仏師湛慶による
本尊の千手観音坐像を安置し、その左右には
計1,001体の千手観音立像を安置されており
木造二十八部衆立像や、木造風神雷神像など
圧倒される光景だ。どれもこれもが国宝だ




           平成29年10月27日に京都で撮影

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最終更新日  2017年11月30日 22時48分33秒
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2017年11月24日
カテゴリ:京都の旅
​​

紅葉をバックに考える人。世界的な彫刻家、
ロダンの作品である。11月も半ばにやって
きたのは10月下旬に続いての京都国立博物館
ブログで紹介した国宝展の前半(10月)と
後半(11月)はかなりの作品数が入れ替えに
なるので




11月15日(四期)に、国宝を見る為
姉と再び京都国立博物館にやってきました
今回は金曜日ではないので午後6時に閉館
するので午後早くに入館した為、入館待ち
時間30分。中も前回の夕方の観覧時に
比べてかなり混んでいました




まっ、それでも見れない訳でもなくって
日本の肖像画を代表する「神護寺三像」も
最前列で、じっくりと観覧が出来ました
ちなみに正式には「絹本著色伝源頼朝像、
絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原
光能像」といいます




普段は前の2点は京都国立博物館に、伝
光能像は東京国立博物館に寄託されている
ので、三像が揃ってというのは、かなり
異例の展示でした。もう、これだけ見れた
だけでも大満足ですが、ただ大きな画像で
あるだけに、もう少し離れた所から三つの
肖像画を見比べたいところですが、常時
人が群がり叶いませんでした




更に大きく横に長い屏風を、最前列での
かぶりつきでアップで見ても、魅力半減
もっと離れた所から全体の構図や雰囲気を
楽しむものなのに、2メートル位は離れた
所に仕切りバーでも作って、多少なりとも
遠くから観覧をするとか出来なかったかな




西本願寺にあったものが大正時代に鉄道王の
根津嘉一郎の所蔵となり東京の根津美術館が
所蔵する尾形光琳の代表作「燕子花図屏風」や
円山応挙の「雪松(ゆきまつ)図屏風」、与謝
蕪村の「夜色楼台図」が揃うのも四期の目玉で
あったそうだ




更にそろい踏みと言えば、2期では空海と
最澄の書があったが今回は平安時代中期に
「和様の書」を大成した小野道風、藤原佐理
(すけまさ)、藤原行成の「三跡」揃い踏み
それぞれの分野ごとでもテーマなども決めて
いたみたいだ




凄みがあるといえば京都の曼殊院の不動
明王像(黄不動)だったが、その腹部に
小さな不動明王が描かれているのが最近
わかったそうだ。黄不動は秘仏で普段は
非公開であるそうで、このような機会は
なかなか無いので見入ってしまった




こうして二期と四期の2度の来訪によって
かなりの国宝を見る事が出来た。盛況だった
国宝展も今週末11月26日まで。京都国立
博物館の野外展示には、平安京で使われた
石材などもあった




写真が前後するが、昼前には京都駅に
到着し、まずはホテルに荷物を預けて
三条河原町付近で、昼食を食べようと
うろうろしてたら木屋町で幕末の志士
桂小五郎が滞在した対馬宗氏の屋敷跡




こちらは土佐を脱藩した天誅組の吉村
寅太郎であるが享年27で射殺された
その辞世の句は、吉野山風に乱るる
もみじ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ




そして同じく土佐の武市瑞山。通称は半平太で
武市半平太の方が有名かもしれない。竜馬とは
遠縁にあたり、京洛における尊皇攘夷運動の
中心的役割を担った(土佐勤王党)が、主君に
対する不敬行為という罪目で、半平太は切腹を
命じられ、三文字割腹の法を用いて腹を三度
かっさばいた後に、介錯が心臓を一突きした




そして志士らに多大な影響を与えた兵学者
にして思想家の松代藩の佐久間象山は元治
元年、西洋かぶれのイメージから攘夷主義
者に暗殺をされた。後年には兵制の確立を
行い陸軍の父と呼ばれた長州の大村益次郎も
明治2年に急激な変革を不満に思う者らに
襲われて暗殺された地だ




そして三条通りにあるのがだんだら模様の
浅黄色の羽織の新選組が、京都を焼き尽く
そうという計画をしていた志士らの会合を
していた池田屋に乗り込んだ。今は居酒屋
三条木屋町は幕末は随分ときな臭い土地柄で
あったようだ




そんな三条木屋町で1日目のランチという事で
事前に調べてたお豆腐屋さんの位置がいまいち
判らず、歩いてて偶然に980円ランチの看板を
見つけて入店したのは、長年京都で愛され続けて
きたという「円居」プロデュースの「京都洋食
ムッシュいとう」




ブッフェ形式で、いつも食べきらない程
皿にのせて後悔するので、今回は野菜を
中心にヘルシーな感じで。後から美味し
かったお魚のお料理とかおかわりしました
ここのフレンチトースト、最後の一つのを
持ってきたけど美味しかった。横の女の
子は皿に数個は積み上げていて、私がいる
間は追加されなかったのが残念だった




あっ写真の下部の怪しげなのは心霊系では
なくてスマホを構える私の指です。そんな
心配もしちゃいそうな瑞泉寺は秀吉により
女子供も含めた一族郎党が三条河原で処刑
された豊臣秀次一族の供養がされた寺だ




その中には東国一の美女と呼び声の高い
最上義光の息女、駒姫もいたのだか享年
僅かに15歳。側室として召し出されて
京都についたばかりで、秀次に目通りを
する事もなくこの世を去った戦国の悲運に
見舞われた少女で、右側に立て看板がある




その辞世の句は、「罪なき身を世の曇りに
さへられて共に冥土に赴くは五常のつみも
はらひなんと思ひて罪をきる弥陀の剣に
かかる身のなにか五つの障りあるべき」

>彼女らの遺体は遺族が引き渡しを願った
>が許されず、その場で掘られた穴に投げ
>込まれ、さらにその上に「畜生塚」と
>刻まれた碑が置かれた。ウィキペディアより




そんな訳でホテルに荷物を預けてから
バスで1本の京都国立博物館で午後には
国宝展を見て、夕刻には再び戻ったが
ホテルにチェックインをするのにも早い
ので、少し手前のバス停で下車をして
祇園界隈をうろうろと




京都五山の第三位で国宝展の第二期でも
見た俵屋宗達の風神雷神がある建仁寺で
右側の塀は五本筋築地塀といい、皇族や
摂家にも用いられたもので、皇室に由来
する格式の高い寺院の証拠でもある




建仁寺の塔頭の正伝永源院には、信長の
弟で、千利休に弟子入りし茶道の宗匠と
なった織田有楽斎のお墓があるようだ
ここに有楽斎が建てた国宝の如庵は今は
愛知県犬山市に移築がされている




祇園をてくてく




にゃん




前から祇園で抹茶パフェを食べたいと
思っており、どこに行くか迷ったけど
今回は「祇園小石」にした




ここは飴屋さんで、様々な飴の試食も
させてくれるし、後で会計時にも袋に
入った小さな飴を二粒貰った




といった訳で飲食コーナーで、念願の
抹茶パフェをパクっと。大きな栗とか
白玉がこぼれ落ちそうだ




姉の方はクリームあんみつ




こういった細い道は大好物。向こうに
抜けられそうだ




その先の祇園の白川には、鷺




京都御所から辰巳の方向の守護神と
される辰巳大明神(辰巳神社)は今は
芸の上達を祈願する舞妓さんや芸妓の
信仰を集めているんだそう




京の街も、そろそろ夜の帳がおりてきて
薄暗くなった中を、急ぎ足でホテルへと
向かった。とは言っても日が短いだけで
まだ午後5時位なんだけども




紅葉シーズンも始まった時期だけに
平日とはいっても10月下旬よりも
空室も少なく、宿泊料金自体も高く
どこに泊まるかをネットのサイトで
物色。二人で2万数千円のが良いが
高い。2万円は程々、1万5千円は
安いがちょっとねっ・・・て、迷って
しまい、決めかねたままでいたら




泊まりたかったけど高めなので、躊躇を
していた交通の便の良い東山三条にある
ホテルのレディースプランが直前割りと
なり二人で税込み2万円ポッキリで出た
ので、即予約をした




京都花ホテルは小さなホテルだが、全館
禁煙で、Wi-Fi完備、女性に優しいとの
コンセプトだそうで、このレディース
ルームでも様々な工夫があり、コーヒー
メーカーも。早速ココアを飲んでみた




香りも選べるアロマスタンドとか、色んな
女性に好まれる備品も揃っていて、他に
フットマッサージ器や、空気清浄機なども




マットレスは浅田真央などの宣伝で
有名なエアウィーブ。フェイスマスクに
休足時間。入浴剤も色々と揃っている




シャンプー&リンスも自分好みのものが
選べるように浴室に幾つも置かれていた




部屋に入る前にはウェルカムドリンクの
コーナーも出来ていて、セルフで飲物を
楽しむ事も




ここから2日目です。昼頃までに観光を
済ませて、預けた荷物を取りにホテルに
戻るついでに祇園でお昼を食べて帰ろう
かと。何やらかわいい郵便局を発見




さてお昼の方は、お好み焼きの原点とも
言われる一銭洋食。ウィキペディアから
>大正時代の駄菓子屋で、水で溶いた小麦粉に
>刻みネギやわずかな肉片などを乗せて焼き、
>ウスターソースを塗ったものが「洋食」と
>銘打って売られていた。




>起源は不明であるが、この種の料理を洋食と
>呼ぶのは西日本に限定されるため、おそらくは
>大阪または京都が発祥と思われる。(神戸では
>「肉天」と呼び、洋食という言葉は使用され
>ない)洋食焼きは当時1枚一銭で売られていた
>為に「一銭洋食」と呼ばれるようになった。




>具材はねぎ、千切りキャベツ、ひき肉、すじ肉、
>こんにゃく、かまぼこ、もやし、魚粉、豆類、
>天かすなど多岐に渡り、店や時代によって様々
>である。洋食焼きは戦後も「拾円焼き」「五〇
>円焼き」などと銘打って店舗の軒下などで
>作られてきた




そんな今は懐かしい一銭洋食を、懐古的に
商品化。お店の方もレトロな感じの祇園に
ある「壹銭洋食」。さすがに洋食と銘打つ
だけあって、かなりコテコテ。薄味だった
関西で、こんな濃い味が好まれたのはなぜ?




再びの祇園白川。外国人観光客が何やら
巽橋上に集まり、囲みで撮影してたのは
観光客がレンタル衣装で舞妓姿になってた
なんちゃって舞妓さん。今風のお嬢さんが
安っぽい着物で、それを本物の舞妓さんと
勘違いしてしまうのはまずいなぁ~と懸念




こういった普通の着物姿だったら、和服
親しんで貰うのにも、すごく良いと思う
けど、なんちゃって舞妓さんはね・・・
日本人より、日本通の外国人も多いから
本物と勘違いする事はないと信じたい




バスの車窓から、ぼ~と外を見ていたら
四条通りで、本物の舞妓さんのチラ見が
出来た。淡い色の上品そうな着物を背筋を
伸ばしキリっと着こなし、日本髪を結った
薄化粧(すっぴん?)の若い女性だけど
見るからに、観光客とは全く違う




こちらは絢爛豪華な着物を身にまとった
本物の花嫁さん。ここに小さな結婚式場が
あって、よく花婿花嫁の写真撮影を行って
いたりもする。という訳でホテルで荷物を
受け取り、すぐ脇の地下鉄駅から乗車して
あっと言う間に京都駅に到着




一銭洋食だけじゃお腹もいっぱいにも
ならないし、新幹線に乗る前に京都で
和風スイーツを、もう一品という訳で
地下街のポルタで、江戸期の弘化年間
創業の雑殻問屋であったという京阿月の
栗ぜんざい




主要商品が「小豆」であったので社名を
「阿月」とした京菓子や甘党の店である
さて今回の二度目の京都は、国宝展の他に
紅葉もポイントだったが、それについては
また今度。さて、どこのお寺でしょうね?




      平成29年11月15&16日に京都で撮影

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最終更新日  2017年11月24日 13時48分25秒
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2017年11月01日
カテゴリ:京都の旅


​2000年に開催をされた文化財保護法
50年記念の「日本国宝展」を東京国立
博物館へ見に行った時は、当日入場券を
購入するのに1時間かかった覚えがあり
それもあって2014年の国宝展は混雑
するだろうし、普段から国宝とか見るし
改めて行かなくてもいいかと断念したが




正倉院の鳥毛立女屏風も出展をしており
今なお見る機会が無かったので、行って
おけば良かったと後悔もしている。前は
奈良の国立博物館で毎秋に開催をされる
正倉院展にも何度も出かけたが、混雑が
ひどくて人の後ろの後ろの後ろあたりで
背伸びしないといけない位で最近は行く
事もないし




だいたい10年程に一度レベルで開催される
「国宝展」だが、国の宝を破壊や海外流出から
守る為に「国宝」という概念が生まれて、同年
京都国立博物館の前身である帝国京都博物館が
開館をしてから今年は120周年のメモリアル
イヤーにあたるそうで、今秋にそれを記念して
「国宝展」が京都で開催をされている




京都国立博物館での大掛かりな国宝展は
実に41年ぶりで、建物以外の国宝指定を
受けている美術工芸品885件のうちの
約四分の一にもあたる、200件程が
10月~11月26日の期間中に4期に
わけられ入れ替えで展示をされるという
今までにはないような大規模な国宝展だ




とは言っても全期にわたって展示をする
国宝は少なく1~4期のうちの各1期間
のみの展示もあるが、その多くは10月の
前期(1,2期)もしくは11月の後期
(3、4期)での入れ替えになっており
10、11月にそれぞれ1度は観覧でき
れば大多数を見る事が可能であるのだが

ところで今回は平成館で展示をされたが
今まで紹介したレトロな方は明治時代の
建物で、重要文化財に指定をされている




普段から神社仏閣好きでもあるし、多くは
既に見ていたりするけど、中には鳥毛立女
屏風のように、今まで見る機会のなかった
ものもあって、あぁ~これ見たいなぁ~と
ネットにある展示品の情報を見つつ、行く
ならば11月の方かなぁ~なんて、思って
いたのに、テレビなどのメディアでも取り
上げられるようになると




昨年の某鑑定番組で話題になった日本に
3点しかない国宝の曜変天目茶碗のうち
なかなか表に出てこない京都の龍光院に
伝わる(津田宗久→黒田長政→寺らしい)
ものが今週末までで展示が終わりますよ
と煽られた先週の水曜日に、よ~し京都に
見にいっちゃおう!と姉と電話で意気投合




姉が、次の日には用事があるというので
金曜日は夜8時まで(通常は6時)開館
するというし、夕刻の方が会場も空いて
いるのではないかと思い、金曜日の京都の
ホテルも予約をして、姉は「天目茶碗を
見てくるわ♪」と家族に言い残し、二人で
やってきましたよ、京都国立博物館!




午前中は入館待ちで長蛇の列が出来て
週末など80分待ちにもなるそうだが
それも午後遅くになってくると徐々に
解消されるといので、お昼前には京都に
着いていたが、お昼を食べたり観光を
したり時間をつぶしてから(後で紹介
します)会場にやってきた




到着したのは午後4時近く。当日券も
窓口ですぐに購入できて、入館もすぐ
出来たけど、やっぱり会場の中の方は
かなり混雑していました。といっても
正倉院展の通勤列車の中のような状態
ではなく、少し待たなくてはいけない
けど、混雑しがちな壁際の展示品でも
最前列で見る事も出来る




メインはやっぱり、曜変天目茶碗だけど
それを最前列で見る為の行列も、内部に
出来てて、見るまでに15分程かかった
茶碗の内側に小さな白い丸い点が幾つもあり
それをとりまくように輝く青やエメラルド
グリーンの色彩が煌く様は、宇宙の星々?




前回も紹介をしたNHK大河で市川海老蔵が
演じるイケメンな信長が、婿の信康に恩賞と
して与えようとしたが断られた黒い茶碗も
見た感じが、曜変天目茶碗みたいだったし
本能寺の変で焼失をしたと言われる茶碗で
あったのか(井伊谷の者が貰っていた黒い
茶碗はふちもあり、どう見ても別の茶碗)




午後4時に入館をして、100件程の国宝を
じっくりと目に焼き付けて外に出てきたのは
午後7時少し前で、外は真っ暗になっていた
最近の美術展や特別展の当日券は1500円が
主流で、それだけの価値があるとは思えない
場合もあるのだが、「これは1500円以上の
価値があった! すごかった!」と姉もご満悦




誘ったがいがあった。印象にあったのは?と
聞くと、やっぱり茶碗!と答える姉だったし
私の場合は初見でわっ♪と声を上げたのは
四騎獅子狩文様錦で、学校の教科書によく
載ってる左右対称の文様で、小野妹子が隋
から持ち帰り、聖徳太子の御幸の際には旗と
なった




風俗図屏風(彦根屏風)とかも嬉しかった
更に、たぶん今までにも見たとは思うが
山越阿弥陀図や餓鬼草紙などなど。個人の
絵かきとしては一番、国宝登録数が多い
雪舟は10月中旬は全6作品が見れたそう
だが、先週にも秋冬山水図、慧可断臂図
天橋立図の三作品がまだ並んでいた




同じように幾つも並んだと言えば、因陀羅筆
楚石梵琦賛の禅機図は5つに切断されて断簡と
なったが、別々に所蔵される寒山拾得図、智常
禅師図、丹霞焼仏図の3つが揃った。「帰牧図
附牽牛」(李迪筆)なども、見たかった作品

今までにも何度か見ているが、風神雷神図も
今回の目玉の一つだと思う。ただこういった
作品も入れ替えの為に、11月は並んでない




11月でも見られるのが縄文時代の土偶で
茅野の縄文のビーナスと、仮面の女神は
前に見たが、縄文の女神(10月のみ)は
初見だと思うし、深鉢形土器(残すところ
4期)も県外では殆ど展示されないもので
それらが並ぶのも面白い趣向だ。モダンな
感じすらする




なんだか絵画ばかりを紹介したけど、巨大な
六丈仏や、太刀や鎧、古墳の出土品などなど
様々な国宝が並んでいる。前の方の人が熱心に
読んでいたのか、最前列の行列が全く動かな
かった「伝教大師請来目録」(最澄筆)は穴が
開くほど眺めていたので、茶碗以上に印象が
残っていたりするので、何年かしてあの時の
国宝展は「あぁ、最澄の書ね」と言いそうだ




さて11月になって展示品も殆どが入れ
替えになったので、私や姉もちゃっかり
紅葉も一緒に楽しもうと後半に再び来訪
予定です。今度の目標は神護寺の肖像画
三像揃い踏みで23年ぶりだそうですよ
それぞれに見たばかりですが長谷川等伯
久蔵父子の絵が揃うのも目玉なんだとか




行ってみたいと思うあなた、詳しくは下記で

京都国立博物館「開館120周年記念特別展覧会 国宝」

さてさて、このゆるキャラは京都国立
博物館の公式キャラクターのトラりん
です。尾形光琳の幼名市之丞から拝借し
虎形琳丿丞(このかたりんのじょう)が
本名で、光琳の竹虎図がモチーフだとか
裏地がお気に入りで見せてくれました




トラりんのりんは、琳派からだそうでして
こう見えてアカデミックなゆるキャラですが
チャームポイントはお尻だそうで、ぐっと
突き出してくれました




お帰りになる前には集まってきた人たちと
ハイタッチでお別れをするなど、けっこう
関西風のくだけたトラりんでした。う~む
こうなると国宝展の思い出は最澄の書とか
茶碗ではなくって、トラりんになりそうな




さて、ここからは京都でのお食事とか
ホテル紹介を・・・




1日目のお昼前に京都につきまして、午後
遅くに京都博物館に入る為に、時間つぶしに
祇園、東山をうろうろ。祇園で見つけた昼の
ランチの看板を見て入ったのは居酒屋さんの
「いとう家の小鍋」で、観光客などおらず
地元の若い子とかサラリーマンのお父さんが
お昼を食べてました




ヘルシーな小鉢のおばんざいが幾つも並んだ
おばんざいランチ880円。柚子の効いた
やわらかなこんにゃくとか、味も良かった



         (これは次の日の写真です)
京都国立博物館からバスで、ホテルには直接
行けそうになかったので夜には京都駅に出ての
夕食タイム。京都駅前の地下街「ポルタ」の
レストラン街に出かけてました




四季の素材感を大切にしているといる和パスタ
「こなな」は地元の若い女子率が高いようでした




パスタに300円を足すと、ほうじ茶と
3種のおばんざいセットが付きます。とは
言っても昼間のに比べたら今風の味です




和パスタとあるだけあって、さっぱりと
した味なので、洋風が苦手な年配者には
良かったですよ。ちなみにランチもこの
パスタも私が姉に奢りました♪




お腹もいっぱいになったので、地下鉄を使い
五条駅に移動し徒歩1分でホテル到着。やっぱ
駅近がホテル選びのポイントです。京都では
最近は急増をする外国人観光客に対応をして
新しいホテルが続々と京都に誕生してまして
「シタディーン京都」もそんな一つかも




ここも外資系のようで外国人観光客向け
なのか、領収書が日本人相手でも英語の
表記だし。一人あたり6千円弱だと電話で
言ったら、姉は「どんなひどいところに
泊まらされるんだろう」と、心配だった
みたいだが、部屋に入りこぎれいな部屋で
喜んでました。まっ、窓を開けるとビルの
壁なので眺望は望めないですが




シタディーンとはフランス語で「都市生活者」
という意味らしく、ホテルの利便性とアパートの
プライベート感覚が融合した宿泊施設である
そうで、ミニキッチンも部屋にあり、レンジ
フライパン、鍋など調理器具も用意されていた




引き出しを開けるとお箸やスプーン。ここで
調理も出来そうだし長期滞在で自炊をしたい
人にはいいのかも




その割にコーヒー、紅茶のパッケージでは
なくって日本茶とおせんべいという和風な
ものは、逆に外国人観光客に喜ばれるのかも
折り鶴などもあるし。お水のボトルは無料




こういった格安系のホテルだって、やっぱ
週末や紅葉、桜のトップシーズンには需要が
高まるのでかなり高い金額になりもするが
それでも満室となる。既に紅葉と国宝展後期
目当ての次のホテルは一人あたり1万円だし




次の朝は、モーニングを食べに近くの高木珈琲
烏丸店に出かけた。前にケンミンショーでも
やっていたけどパンの消費額1位は、京都だ
そうで、かつての都人はパンの朝食が好きで
あるらしい。大学生とかも多いしね




その為に喫茶店が多く、地元系喫茶チェーンも
幾つもあるのだが、最近は全国系なども増えて
激戦化もしそう。ここの近くも名古屋のコメダ
珈琲も出来ていた。うちのあたりはコーヒー代
だけで軽食が付いてくるけど、他の地域などは
モーニングセットの料金になるので、その内容
によって料金もバラバラ




したがってモーニングプレートにコーヒーが
付いているという感じで、この名物リッチ
モーニングセットは680円で、トーストと
にぬき(ゆで玉子)のセットは550円だ




ホテルの近くには平等寺(因幡薬師)があった
頂法寺(六角堂)や行願寺(革堂)と並んで
京都の町衆の信仰を集めた町堂の一つである
             つ づ く




平成29年10月27日に京都で撮影

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最終更新日  2017年11月01日 17時57分38秒
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