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日記はこれから書かれるところです。

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2007.07.07
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義務ということを考えたい。

そもそもの問題意識は、俗論において、系譜の違う用語である「義務」と「権利」がセットで語られる実際を目にしたところに生じる。いつからセットで語られるようになったのだろうか。
おそらく、臣民に義務を課すという、かなり自家撞着的な「憲法」であった大日本帝国憲法を淵源にしているのではないかと思われる。
この「憲法と言えない代物の憲法」の考えを今なお引きずる人々がいることにははっきり言ってかなり呆れ驚く。

では、義務とは何か。


■うぃきぺでぃあ?

Wikipediaというページがある。ご存知のことと思うが、なるほどおもしろいページだ。だが、やはり参加型形態のものであれば逃れられない宿命を背負っている。それは、現状の学問的水準に照らして、少しレベルの低い人々までもが書き手に加わっているという事実である。

いろんな人間が手を加えた跡があり、相互に緩やかな矛盾や、いらない蛇足が多い記述になっている「義務」の欄において、憲法の義務規定について書いてある。

前半部は問題ないが、やや蛇足的に付け足された感のある(おそらく後から他者が要らぬ手を加えたのだと思われるが)中ほどの叙述に問題がある。せっかくなので、「義務」について考える手がかりとしたい。

日本国憲法には、国民の義務として、教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)の3つを定めている。これらは一般に、「国民の憲法上の義務」あるいは「国民の三大義務」と呼ばれる。諸外国の憲法には、人権規定の中に義務規定を置くものが多い。日本国憲法もこれに倣い、人権規定を定めた第三章の中に義務規定を置き、その標題を「国民の権利及び義務」としている。

さて、ポイントは赤字の部分だ。「諸外国の憲法には、人権規定の中に義務規定を置くものが多い」というが、これを日本国憲法の「三大義務」の説明に用いるのは、明らかに誤りであり、もしかすると、たちの悪い「騙し」にも取れる。

というのも、多くの近代憲法に存在する「義務規定」というものは、その主要な部分は決して「国民の義務規定」ではないからだ。

たとえば、日本国憲法に多大な影響を与えている合衆国憲法を見てみたい。このページで、Ctrl+Fを押して「義務」という言葉がどのような文脈にあるか調べてみればわかる。(やってみてください。そしてすごく暇があれば、他の国の憲法も探してやってみてください。そのうえで私に教えてくださると尚助かります。)

さて、どうか。

いくつか出てきたと思うが、数え間違いでなければ以下のようになるはずだ。

大統領の義務:9箇所
犯罪者の義務:1箇所
大統領以外の公人の義務:2箇所
他の用法:1箇所

そしてさらに重要な事実だが、大統領に関する義務のほとんどは、「権限」とセットで出てきていることがわかるはずだ。

さて、おわかりか?

Wikipediaにおける要らない蛇足部分の問題は、この権力者を名宛人とする「権限および義務」と「国民の義務」をかなり悪質に混同しているところにある。

そして、これが冒頭に挙げた「俗論の勘違い」と親和的な発想であることはわかるのではないかと思う。


■義務とは―夏目漱石の用語法から

さて、もう答えを上でちょっとだけ言ってしまっているのだが、折角なので、夏目漱石先生に登場していただく。

今迄の論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げやうと思ふならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないといふ事。第二に自己の所有してゐる権力を使用しやうと思ふならば、それに付随してゐる義務というふものを心得なければならぬといふ事。第三に自己の金力を示さうと願ふなら、それに伴ふ責任を重じなければならないといふ事。つまり此三ヶ条に帰着するのであります。

『私の個人主義』からとったものだが、どのような文脈で「義務」「責任」が出てきているかよく知っておきたい。

アメリカ合衆国憲法同様、夏目先生の語る義務とは権限とセットの言葉であり、力あるものにこそ要求されるものだ。

(私見では、権利とは、この権力者の義務不履行への履行要求を重要な要素として含んでいる。この意味でなら、権利と義務がセットになることはあり得る。)

権力を持つ者は、好き勝手やることができるからこそ、こうした倫理が必要になる。これは権力を集めた政府に憲法が必要なのと同じことだ。

人間は自分には甘い。人間は間違いやすい。権力は腐敗しやすい。

しつこいが、ミートホープの例を思い起こしてほしい。グッドウィルの天引き問題を思い起こしてほしい。他の会社にも溢れている。雪印のときもそうだった。これは繰り返し出てくる問題だ。

義務を他人に向けて語る人間にこそ、義務は必要とされる。
今一度繰り返そう。義務とは、権限を持った者に要求される<正しさ>のことだ。


■次回以降

予備的問題シリーズが予定通り進んだためしはないのだが、義務と自律との関連、憲法改定における義務規定の問題について書くかもしれない。最後に目指すのは倫理というところにあることは付け加えておく。





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Last updated  2007.07.07 20:23:38
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