老いるということは 考えるということに似ている
と かつて述べた 奈良県知事タレント候補(落選)が居ました
その言葉自体 考えさせられる 含蓄の深いものでした
一方 老いるということは 喪失感の積み重ねである
と 本に書いた 医学者もいます
特に 認知症の高齢者にとっては 発症後は
喪失感を積み重ねる日々であるかも知れません
私の 母親も 認知症を患い
国立の療養施設や 特別養護老人ホームの専用棟で生活した
この10年間は 喪失感を積み重ねた 日々であったかと あらためて思います
そう考えてみれば 必ず訪れる 死 というものは
それが 自然死であるなら
そうした喪失感の積み重ねに ピリオドを打つという
厳かな 通過儀式でもあるのかな と思います
5月7日 母が突然 亡くなりました
突然とはいうものの 2年前 歩行能力が亡くなり
今年に入ってからは 誤嚥性の軽い肺炎と思われる
発熱を 2週間に 1度ぐらい繰り返し
その都度 明くる日には ケロッとして
通常の生活を繰り返していたのです
今年の冬は越せても 秋口にはやばいかな
と密かに 覚悟はしていました
7日の朝 心停止状態で病院に運ばれ
私が駆けつけたときには 生命反応は皆無でした
満85才でした
母を連れ帰るため 検死が終わるのを待つ間
葬儀社を手配しただけで 後の手順などは 考える気もせず
母の ここ10年間の 認知症になってからのことを 考えていました
親を見送る ということは 世の倣いではあるのですが
親を見送る子供も また 喪失感を積み重ねて行かねばなりません
今は亡き特養の苑長の計らいで 母の好きな子犬を連れて行くことになり
一旦は マリリンを連れて行くことにしました
けれども 余りに幼すぎたので
リーさんを 獣医さんのところでもらい受け
母の元に 預けました
結局 母の認知症が進み 苑長の死後
母も施設も リーさんを扱いかね
結局 マリリンもリーさんも 私の手元で死なせてしまいました
母は マリリンは知りませんが
リーさんという名は 母が名付けた位ですから
死に化粧を施された母の 枕元には
亡きリーさんが迎えに来ていただろうと思います
それに 私の幼い頃 母が自分のいうことだけは聞いたと自慢していた
マリという名の白い犬も きっと 一緒に迎えに来ていたろうと思います
今日 葬儀が終わり
私の感覚も 日常に戻って
すでに 喪失感の積み重ねから解放された母の魂が
虹の橋の向こうで 愛犬たちと 元気に遊んでいる姿を 想像して
それなら そんなに悲しいことでもないな と 今は 感じています