平成21年度 生涯学習センター講座・「遺跡から見た中世の能勢」を受講して その2
平成21年度 生涯学習センター講座・「遺跡から見た中世の能勢」を受講して その2 2010.2.21付ブログ、平成21年度 生涯学習センター講座・「遺跡から見た中世の能勢」を受講して その1の続きです。(上の画像の説明・野間遺跡の屋敷(やしき)墓(ぼ)の説明板です。2010.2.20、能勢町・倉垣の能勢町住民サービスセンターで撮影しました。)◎野間遺跡で見つかった13世紀・鎌倉時代の屋敷墓 鎌倉時代の大阪の周辺では、屋敷の建物のすぐ横や屋敷の中の空地に、お墓を作ることが行われていました。これを屋敷墓と呼んでいます。 巻場遺跡の150mほどすぐ南にあり、野間遺跡と呼ばれている鎌倉時代の遺跡にも、このような屋敷墓が井戸の跡とともに見つかりました。 墓の大きさは長さ2.1m、幅80cm、深さ40cmで、北向きに掘られていました。木の棺もあったはずですが、遺体とともに残っていませんでした。しかし、頭から腰と思われるあたりでは、素焼きの大皿2枚、小皿9枚、中国産の磁器椀1個、中国産の磁器皿1枚、鞘に入った長さ30cmの小刀など、たくさんの品物が残されていました。 この墓の地には、野間地区から地(ぢ)黄(おう)地区にかけて、鎌倉時代から室町時代のあいだ、長町荘という荘園がありました。 副葬品の中身は、他の例と較べても見劣りしないくらい豊かなものです。中国から輸入された茶碗や皿を使い、刀を身につけることのできた人物が浮き上がってきます。墓の主は、長町荘の領主クラスの人物とも想像できます。当時の能勢は、このような人物が活躍する場所でもあったわけです。(上の画像の説明・野間遺跡で見つかった右側が屋敷(やしき)墓(ぼ)と、左側が井戸跡です。2010.2.20、能勢町・倉垣の能勢町住民サービスセンターで撮影しました。)(上の画像の説明・野間遺跡の屋敷(やしき)墓(ぼ)で見つかった副葬品です。2010.2.20、能勢町・倉垣の能勢町住民サービスセンターで撮影しました。)◎野間遺跡で見つかった500年ほど前、室町時代の屋敷跡 この遺跡は、昭和42年(1967)に大阪府が調査のため、野間地区の航空写真を撮ったときに、見つかりました。航空写真によると、中央に大きな2枚の田んぼがあって、それを小さな細長い田んぼが取り囲んでいる様子がわかります。 平成7年(1995)ごろに行われた発掘調査で、これが今から500年ほど前の、南北50m、東西45mの屋敷跡だったことがわかりました。大きな2枚の田は、建物が立ち並んでいたところで、それを取り囲む田は、周りに掘られた幅約10mの濠の跡でした。(上の画像の説明・下、屋敷跡の航空写真です。網部が濠の跡です。上、同じく中世の屋敷跡全景の航空写真です。今回の講座資料、5頁をスキャンしました。)(上の画像の説明・下、屋敷跡の平面図です。上、同じく拡大した平面図です。今回の講座資料、5頁をスキャンしました。) 屋敷跡からは、8棟の建物跡が見つかりました。そのうちの1棟には、建物に使われていた木の柱が何本も残っており、中にはカヤの木でできた直径40cm、高さ1mもある柱もありました。それほど大きな屋敷跡ではありませんが、しかし柱は太く、掘立柱の下にも礎石が組ませてありました。 寺院などを除いて、この時代の建物跡でこんな太い柱は見つかった例はありません。これだけしっかりした柱を使っているのは、あるいは2階建ての建物?しかし、当時はまだ2階建ての建物は現れていません。講師・重金氏も、まだこの建物の究明は進んでいないと云っておられました。 また、この屋敷跡からは、羽子板や漆塗りの椀、絵の描かれた箱が見つかり、京都の文化の影響を強く受けていた様子が分かります。大きな柱の建物、そしてたくさんの出土品は、この屋敷の主の力の大きさを物語っているのです。(上の画像の説明・上、野間屋敷跡内の建物です。下、建物から見つかった木の柱です。柱の大きさに注目です。広報のせ平成12年6月号の裏表紙記載・文化財への道・野間遺跡で見つかった屋敷跡をスキャンしました。)◎吉野遺跡で見つかった銭がめ 平成7年(1995)、能勢町・吉野地区にある吉野遺跡から、14世紀に埋められたとみられる大量の古銭が見つかりました。 銭は全部で49種、1,213枚で、鎌倉時代末から室町時代初めとみられる丹波焼のかめ(口径26cm、高さ31cm)に入っており、このころ埋められたと思われます。(上の画像の説明・吉野遺跡からの銭の出土状況とかめの出土状況です。今回の講座資料、9頁をスキャンしました。) そのころ日本では、中国の銭が貨幣として広く使われていました。見つかった古銭も中国の唐、宋の時代の古銭が中心で、かめの中には97枚の銭を1本のひもに通したものが9本(97×9=873枚)あり、残り(340枚)はばらばらのまま入れられていました。 中世では1枚1文の銅銭を97枚まとめて100文と数える習慣(省百法(しょうひゃくほう))があったことが、当時の文献などで推測されていますが、実際に確認されたのは、珍しく貴重な資料なのです。 1,213枚の銭(およそ1,200文)で何が買えるのでしょうか。同じ鎌倉時代の嘉録2年(1226)、今の嘉村(かむら)地区あたりの田んぼを売ったときの証文が残っています。それによると、田んぼ一反(約991平方メートル)の値段が4貫文(4,000文)ですから、計算上は297平方メートルほどの田んぼが買えることになります。 (1,200×991÷4,000≒297.3) 府教委は、「集落の有力者が緊急時や防犯のために、金庫代わりにかめに入れ、置いていた備蓄銭」ではないかと話していますが、急速に発展していた当時の貨幣経済の様子や広がりを知る貴重な資料でもあります。 それにしても、このたくさんの古銭が、何故埋められたまま何百年もたってしまったのでしょうか。へそくりで、埋めた人が場所を忘れてしまったのでしょうか。それとも、突然亡くなったのでしょうか。(上の画像の説明・「吉野遺跡から銅銭1,200枚が出土」を伝える産経新聞の平成7年3月27日の記事です。今回の講座資料、8頁をスキャンしました。) 他に、今後の調査の進展が期待される中世の遺跡として、(1)能勢郡採銅所(2)旧月峯寺跡についても、お話がありました。 2回にわたり、能勢の中世の遺跡に関わる貴重なお話を聞かせて頂いた講師の重金氏、そしてスタッフの皆様方、大変お世話になり有難うございました。