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カテゴリ:文化・芸術・スポーツ
(昨日の続き)
円山応挙(1733~95)は北宋画の流れを汲む狩野派とは別の道を歩んだが、最初に本格的に絵を習ったのは狩野派の石田幽汀からであったし、大人になってからも狩野探幽(1602~74)の腕はすごいと認めている。割合、柔軟な考え方を貫いた人のようだ。 さて、狩野探幽は、京都にある妙心寺の法堂(はっとう)に雲龍図を描いている。高さ13mの天井にある直径12mの円がキャンバスだ。1656年の作品というから、今から350年ほど前になる。円のほぼ中心に右目がある。どの角度から仰いでも見る人を睨んでいる「八方睨みの龍」だと言われている。何ともおどろおどろしいこの龍は、私のお気に入りである。 禅寺の法堂の天井には、丸い雲龍図が描かれるのが常らしい。ヤンチャリカさんに教えて頂いた最近の例としては、「けんちん汁」発祥の禅寺、建長寺法堂の天井画がある。これは何とも現代的だ。まさに龍が宙にぷわぷわ浮いているように見える。構図からは非常に安定した調和が感じられるし、幸運を呼び込みそうな雰囲気すらある。 龍は架空の生き物だから、写生する訳にはいかない。龍にするには暗黙のルールがある。鬼の目、牛の耳、らくだの顔、鹿の角、蛇の鱗、鷹の爪を持たせないといけない。 また、龍は雲の間だから姿を見せる。だから雲龍図と言う。これは、古くから龍神が水の神様とされているのが理由であろう。水の神様であっても、西洋のポセイドンやトリトンなど海の神とは違う。龍は飽くまで、天と地の間で力を発揮する。 上の2枚の雲龍図を良く見ると、決定的な違いがある。妙心寺のは爪が3本、建長寺のは5本ある。最も有力な説によれば、中国では昔、5本爪は皇帝しか用いることができず、高官は4本爪、一般民衆用には3本爪の利用しか許されていなかったそうだ。私がくだんの日本画家から伺った話は違っていたので、諸説があるのだろう。 話が円山応挙から大きく脇に逸れてしまった。 著作権の関係でリンクを張れないように思うので、Googleで「雲龍図」をイメージ検索して頂きたい。何枚か応挙の雲龍図が出てくる。応挙の雲龍図は今にも動き出しそうだ。というか、止まっている気がしない。「写生の祖」と呼ばれるだけある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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