|
カテゴリ:1978年頃のディスコのお話
前回、前々回と1978年当時のディスコをリストアップしてみましたけど、この頃はどの店もまだまだパターンが同じでしたね。六本木もこの数年後にはがらっと様変わりしてしまいますが、1978年頃は第一次ディスコ(ソウル)ブームの頃に比べると、米兵が少なくなったってのもあるし、円が強くなったってこともあってか、昔ほど米兵も気軽に遊ばなくなったというか、遊べなくなったといったところでしょうか。
そういった意味では、「六本木」というブランドが大衆化していった時代かもしれません。 それでも赤坂、六本木に比べると、新宿はかなりガキ扱いされていたような気がします。 確かに新宿は子供が多かったんですけど、文化的に言えば新宿の方がはるかに面白かったと思いますね。六本木が昔からの輸入文化を踏襲する中で、新宿ではオカマとかテクノとかタケノコとか歌謡ディスコとか、独自の文化をどんどん生み出したしていったのではなかったでしょうか。 パフォーマンスなる表現が出てきたのもこの頃でした。後に一世風靡セピアとか、ストリート・パフォーマンスなるものが出てきますけど、少なからず当時の踊り好きなヤツはみんな道の上で踊りたがっていたんじゃないかな。委員長の時代もBAD CHILDRENは新宿の歩行者天国で踊ったりしましたからね。自己主張というよりは単なる自己顕示欲を満足させるためのものでした。だから、タケノコが原宿で踊り始めたときは妙に親近感が湧いたと言うか、考えることは皆同じだなと思いました。更に一世風靡セピアが登場したとき「遅えよ、お前ら」ってな感じもしましたね。でも見る側(観客)の方の環境が整っていったのは、やはりタケノコ族のおかげでしょうね。 委員長の時代は誰もそんなのマジで相手にしてくれませんでしたからね。 うるさいからあっち行けみたいな感じで、面白がって見てくれるほど周りの人間も練れていませんでいたからね。 そういう意味では、委員長は個人的に一世風靡よりは元祖タケノコ族を評価したいですね。彼らがこの文化を作ったのは間違いないことですから、そこの部分だけはきちんと認めてあげるべきでしょうね。 元祖ストリート・パフォーマンスってやつでしょうか。 彼らの発想は踊る場所を求めて原宿に辿り着いたってことですから、「見世物化」していったのは後年のことですね。 きっかけは自分たちの場所を作ったってことで、やはり「道の上で踊った」先駆けだと思います。 後年に続くロックンローラーとかセピアなどは、潜在的に売名行為というか「見世物」としてのパフォーマンスを意識したものでありましたから、根本的にモチベーションは違っていたと思います。 それでも、タケノコも続けていくうちに結局は見世物の流れに取り込まれていってしまったんですけどね。一番最初に踊り出したヤツがやっぱりホンモノの道楽者だったのではないでしょうか。 ちなみに委員長も、店に出入りしていた中高生をよく可愛がったりましたが、彼らの感性には結構刺激を受けましたね。(可愛がったと言っても怪しい関係ではありませんヨ) 特に面白かったのは、今までのディスコの流れというか、踊りの形態が淘汰されていくのがはっきりとわかったことでした。 トゥモローUSAにちょこちょこ紛れ込んでいた女子高生二人組がいたんですけど、まずファッションが面白かったですね。当時はオカマ系っていうのが随分と枝分かれしてきていて、中近東風のコスプレ型、エスニック無機質系テクノ型、もんぺ風麦踏ダンス型などがありました。で、彼女たちは無難なもんぺ風麦踏ダンス・ファッションだったんですけど、踊りが実に個性的というか先輩方の流れをきちんと引き継いでいるんですね。しかも色々と混ざり合った情報として受け継がれていました。 まず、両手を振り上げてウォークしていく踊りはたぶんステップとオカマが混ざった型で、途中両手をパシッと打ってジャンプして止まってポーズ、これはいわゆるファンキーフルーツですか?更にスキップして横に移動、かけ声がかかる、これはタケノコ系でしょうか。 要は、彼女たちの目に映ったディスコの先輩の踊りがそこで体現されているんですね。 ファンキーフルーツとかロボットなども、彼女たちの目を通して見るとこのように映っているのかぁ、と妙に納得したりしました。 見るからに子供子供した顔立ちで可愛かったので、よくゴハンを食べさせてあげたりしましたが、案の定慣れてくると群れをなしてやってきて軍団化してしまい、結局はタケノコになっていってしまったんですけどね。 この頃の委員長はバンドデビューとか狙っていましたから、今時の中高生の趣向と言うか好みが知りたくて可愛がっていたこともありますが、高々5~6年とはいえこの感性の違いには正直言って驚きました。 もう少し年上の子たちになると、まだSOUL時代のディスコを自身が体験していますから、きちんと選択がなされているわけです。私たちはファンキーな踊りは出来ないから、オカマで良いんだとか、僕らは正統なSOULダンス派ですとか、これからはテクノポップですよ、のようにそれぞれがきちんと趣向を分けて掌握しているんですね。 更にその上の委員長の時代の人間になると、時流についていけなくなっているのも何人かいて、昔のステップとかに固執するやつなんかも出てきたりして、たった数年のディスコ文化でこれだけ感性が違っているというのも別の意味で驚きでした。 委員長の時代はやはり頂点には黒人がいて、その流れを踏襲することで自分をアピールしていたわけですが、数年後のダンスフリークには、もうSOULとかFUNKとかDISCOが一本化されていて、ジャンルにこだわる自分の方が逆に恥ずかしくなっていった感すらありました。 どこでどうジャンル別けされるのかというとこれも甚だ疑問ですが、この78年にブームの火付け役となったサタデーナイトフィーバー以降は、黒人っぽい音楽はFUNKとかヘビーファンクとか呼ばれるようになっていって、その他をひっくるめてディスコサウンドと表現したように思います。 殊更黒人にコダワッタ委員長は、この時点で趣味と仕事の分割が行われたと言っても良いでしょう。自分が楽しんで聴いたり踊ったりする音楽は、もう仕事場ではしょっちゅうかけることはできないという戒めを行ったのでした。(笑) 少なくともヨーロピアン系のサウンドは、委員長の中ではお仕事の音楽という位置付けがなされました。 サタデーナイトフィーバーとよく比較される映画にT.G.I.F.がありますが、これはコモドアーズが出てるって事くらいで、委員長にとっては似たり寄ったりにしか過ぎず、SOULマンはやっぱりドナ・サマーじゃ踊れませんでしたね。 かといって、78年代のディスコじゃパーリャメントやファンカデリック、JBですらかけるのに抵抗がありましたから、まさに時代の変わり目だったのかもしれませんね。 ということで、この年委員長はアフロ頭を落としケジメをつけることになりました。 といってもチリチリ頭のカーリー・ヘアという往生際の悪い断髪式でもありました。 ああ、もう一度薄暗いダンスフロアでアフロのおねーちゃんとSEXYにダブルパンプを踊ってみたい。 ディスコが健康的になったらエアロビですよね。 やっぱり不良は薄暗い店内で如何わしさの漂う雰囲気が好みです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[1978年頃のディスコのお話] カテゴリの最新記事
|