|
カテゴリ:1980年頃のディスコのお話
石川県金沢のディスコナイトは中々活況のうちに委員長の任務も無事完了し、後続は花見キョンが引き継ぐことでなんとかエスメラルダの面目は立ちました。 北陸の寒さにもメゲず頑張った委員長は関○部長にも大変気に入って頂き、できればこのまま残って欲しいと請われましたが、心からの御礼を申し上げてこの地を去りました。 実は委員長の滞在中にもうひとつアホな事件が起きてしまい、何故かこの金沢と委員長の相性はあまり良くなかったように思えます。 この時エスメラルダのマネージャー役ヒロシが、委員長の後任として送り込んできたのは立川エモンのシンジを通じて入ってきた広瀬ヤスオという男でした。 一見大人しそうに見えるヤツだったのですが、外見とは裏腹に幼児期に両親と死に別れ施設で育ったという相当悲惨な体験をしてきた根っからの不良でした。 彼の数日間の仕事振り、DJとしての資質について関○部長から手厳しい評価をもらった委員長はヤスオを呼び出し東京に戻るよう伝えました。 よくよく話を聞いてみれば、「つなぎ」が上手く出来ず同僚のXX君に指図されたことに腹を立てたヤスオはつい地が出てしまい、「テメーなめてんじゃねぇぞ」と脅しをかけてしまったということでした。 せっかく委員長がサム岡田の起こした不始末の汚点挽回で頑張っているというのに、このアホタレは一瞬にしてこの努力をパーにしてしまったのです。 元々不良上がりの委員長ですから、自分と同じ弱くて気の小さい馬鹿野郎のしでかしたことを今更怒ったところで仕方ありません。 「もっと強くなれよ。どうせお前この先どう頑張ったってまともな仕事はできないんだから、いつまでもガキみたいに突っ張ってねぇでもう少し辛抱しろよ」 ヤスオを部屋に呼んで先輩として一言訓示を垂れた委員長でしたが、またもや後輩の不始末で更に滞在が延びることになってしまいました。 ヤスオが戻されて後続のタマが無くなったエスメラルダは、止むを得ず花見キョンを送り込むことになり、たて続く不始末にジュリー自らが詫びに来るということになりました。 金沢にエスメラルダ幹部集合、ということで北陸金沢の厳しい冬を体験した委員長でした。 そんなこんなでようやく委員長が東京に戻ってきてみると、今回のトラブルの張本人サム岡田はジュリーの命令で関東ところ払いとなり白馬のスキー場へ飛んでおりました。 今回の不祥事の反省も兼ねて田舎に飛ばされたサム岡田ですが、本人にとってはこの上ないシヤワセな仕事にルンルン気分できっとスキーなぞして楽しんでいるだろう顔が目に浮かぶ委員長、ヤスオのように何をやっても裏目に出る奴もいれば、同じ馬鹿野郎でもこんなラッキーな奴もいるのかと思うと、世の中の理不尽さ、持って生まれた因果に想いを馳せずにはいられませんでした。 よく、徳とか業とか言いますが、やはり人は何かの因縁を背負ってこの世に生まれ出てくるのでしょうか。何をやってもとことん裏目に出るヤツもいれば、どんな時にも必ず救いの手が差し伸べられるヤツもいて、一体この差は何なのだろうかという疑問は未だ明快な答えを得るに至ってはおりません。 それでも、委員長には確信を持って言えることがひとつだけあります。 それは「己がやったことは必ず同じ形で返ってくる」ということです。 自分が誰かにしたことは、良いことでも悪いことでも必ず同じコトを他人にされるということです。いわゆる人生の請求書ですね。ツケが回ってくるとも言います。 だから善行を積みなさいという年寄りの言葉に偽りはありません。 証明は出来ませんが、委員長自身の50年の人生はこの定義にきちんとはまっていますから、大概は正しいのではないでしょうか。 まさに激動の1979年もようやく年の瀬を迎え、城を無くしたジュリーと委員長の成り行きとは言いながらも体を張った事務所経営もなんとか形になった大晦日、久しぶりに新宿クレージーホースで二人顔を合わせて正月を迎えました。 この日から委員長はジュリーのことを「昇ちゃん」と呼び、お互い何とかこの業界で生き残っていく覚悟を決めたのでした。 委員長の彼女C子もこの日は仕事を休んで、皆で一緒にドンちゃん騒ぎの年越しを過ごしました。思い出の明治神宮へも初詣に行き、新しい年が新たな飛躍の年となるよう、エスメラルダのスタッフ全員でお祈りしました。 明けて1980年はポール・マッカトーニーの大麻所持現行犯逮捕による国外退去というセンセーショナルな事件で幕が開きました。 ビートルズ来日以来14年ぶりのコンサートが中止となり、多くのファンが嘆き悲しみました。ギャラが折り合わず強硬手段に出た結果だとか、色々な憶測も乱れ飛びました。 もうひとつ大きな話題はモスクワ五輪のボイコットですね。 民主主義対共産主義の対立、これが最後の山場だったのかもしれません。 そして山口百恵が三浦友和と婚約引退発表。 変わりにと云っちゃあなんですが、松田聖子の「裸足の季節」デビューでした。 タケノコ族が原宿の名物になったのもこの年です。 銀座で1億円を拾った大貫さん、今もご健在のようです。 悲惨なニュースでは後に映画化もされた新宿西口バス放火事件がありました。 道楽者の主食牛丼の吉野家が倒産。委員長はこれで牛丼が食べられなくなるのかと思いちょっとショックでした。 立体パズル「ルーブキュービック」が大ヒット。 頭の悪いDJ業界ではあまり流行りませんでしたね。(笑) イラン・イラク戦争勃発。究極の代理戦争へと発展します。 プロ野球では長嶋監督が辞任、翌月王貞治選手が現役引退発表。 そして1980年12月8日、世紀のアーティスト・ジョン・レノンがニューヨークで凶弾に倒れました。世界が悲しみに包まれた年の瀬でした。 そんな時代背景の1980年代の新宿歌舞伎町ではこの当時、角川映画のピカレスク・ロマンが時代の風潮としてあったせいか、委員長はエスメラルダに賭ける情熱と野望を映画のストーリーに重ねて、すっかりヒーローになりきっていました。 (今度はアウトローごっこですね) 「手負いの獣にとって優しさは、危険を招く罠になると~」欲望の街~「白昼の死角」 「動く標的狙いを付けて」~「蘇る金狼」 絶好調の故松田勇作氏の「野獣死すべし」と続く一連のヒット作に、かぶれ易いお調子者の委員長は革ジャンにサングラス、すっかりとピカレスク・ヒーローになりきっていました。 昼間はスーツにネクタイ、一般人のフリをして飯倉の事務所に通い、夜は革ジャンとサングラス、黒ずくめの衣装という具合に、映画さながらの野望に燃えるアウトローをしっかりと成りきって演じていたのでした。(相変わらずの馬鹿ですね) また、この頃は新宿ビバヤング時代のオオイケさん(覚えてますか?歌舞伎町ノックアウト事件で挫折してしまった先輩です)などが稲○系Y組でプロデビューを飾り、すっかり東口グリーンで良い顔になっていたり、その兄貴分のHさんなども出入りしていて、新人DJ連中の間ではアウトローにすっかり祭り上げられていた委員長でもありました。 更に、西口V-oneにいた細○チーフもT会系で本職になっていて、委員長のアウトロー人生に彩を添えてくれました。 もちろんエスメラルダのスポンサーはS会のFさんですから、もう委員長の周りはアウトローだらけで益々その気になっていった委員長でありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[1980年頃のディスコのお話] カテゴリの最新記事
|