パソコン交流、去る人あり、捨てる神あり拾う神あり。
最近また、楽天日記を続けることへのむなしさが出て来た。去年「美少女二童子」というコミカルで楽しい長編小説を実際に出版して、これを日記の看板とする若き婦人がいたが、まもなく楽天日記を閉鎖、以後は自ら開設のホームページに徹した。私はしばらく訪問し、書き込みもしていたが、昨日月曜日に久しぶりで訪問しようとしたが、お気に入りにセットしていたこのサイトは影も形もなく消え去っていた。パソコン日記は閉鎖したらすべてが消えるサイトであることを改めて思い知った瞬間だった。特に楽天日記は、画像も載せられるし、多くの人がコンテンツと呼ぶ、別掲ページにも画像が載せられるし、文章だけなら相当量書ける。それだけに、一旦閉鎖するとたちまちに、何百件もの丹精の文章などが霧の如く失せるから、苦労の甲斐がない。たまには訪問をと期待していた見知らぬ人がこつ然と姿を消すと、何の甲斐あって、リンクしたかと、これもまた甲斐がないとの思いにとらわれる。だが、去った人もまた書いて甲斐なしと更に思ったのではないか。この点、己れの生きているあいだの自己満足ながら、昔からの日記帳はずっと残る。今私がなえかけた気力を振り絞るというとややおおげさながら、決して楽にはつづっていない、尊属などを偲びつづっている架空物語中の、例えば亡き伯父・喜一郎(きいちろう)も、生前「随想」と題した立派な箱入りのノートに、実はほんのわずかながら折にふれての思いなどをつづってあり、これは大東亜戦争を通り越して、昭和を遂に過ぎて、平成も二ケタとなる今でも、肉筆のまま残っている。つくづくパソコン日記とは、バーチャル・リアリティのむなしき世界に過ぎぬことを知ったのである。ただし、この仮想現実機械を通して知り合った中には、得がたい実物が機械の遠い彼方に厳然と存在し、何年か先には対面の見込みを期待出来るから、結論を言うと、私には同性の良き人物との出会いが、このむなしい機械の唯一の長所と思えるのである。私はかねて、想科良次さん、実はお世話になっている別サイト主宰者としての名前が、たかはしよしひでさんという人について、日記に残しておきたいと願って、彼に許可なく書くことを控え続けて、もう数ヶ月になる。私は文章趣味甚だしき者だが、文章には欠点があることを常々痛感し、思い知っている。文章に託された言葉には、それ自体とげとげしさがあると、私はつとに気づいている。どんなに委曲(いきょく)を尽くしたつもりでも、誤解を招く場合がある。それでは電話で話せばたちまち誤解はなくなるかというと、会話は新たな欠点を持つから、会話は更にだめで氷解しないのである。会話は文章の足らぬところを声の調子や、その場で補う言い直しで誤解をすんでのところで解く働きが出来るように見えるが、声の調子は初めて聞くお互いに、別なる印象を吹き込んで、しかも文章を上回って上回り過ぎる言葉を互いに伝えんとする余り、相手の次の言葉が一瞬前の自分の言葉を追い越して、又はその逆に自分の言葉が相手の言葉を追い越して、時に言葉が前のめりにつまずきそうになって伝えるから、実は文章をしのいではいないのである。結局、己れにも問題はあるものの、相手の人格・性格に負うところとなり、人は遂に、己れの心の深奥(しんおう)を遺漏(いろう)なく語り伝えるには、相手の器量にたのむところ大なるものがあり、それに助けられてようやく関係は良好に保たれることとなる。結局、パソコンは偉大なる文明の利器ではないどころか、単に風変わりな通信機器に過ぎぬことがわかる。そしてこれまた理解とはわかろうとする能力でなく、自分がわかりたいことだけわかろうとする願望だから、私のパソコン観も、わからない人が多いと察する。特に、相手が語いに乏しい場合、あるいは言葉遣いを選べぬ性質の場合、言葉による伝達は、百万言費やしても、費やせば費やすほど、読み手は疲れるだけだから、誤解なく言葉を交わすことは無理である。これが、言葉の拙い子供になると、昨今は日本語とは思えぬ破壊語でこれを行なうから、言葉による殺人誘発は、むべなるかなと納得させるほどである。近い例では女児が同級の女児を最深部10cmに達するほど斬りつけて遂に絶命させた事件に見ることが出来る。私はテレビ報道に出たほんの一部しか知らぬが、それで充分だった。例えば加害児童のパソコンに残った文章とも言えぬきたない言葉の出だしを見るとわかる。正確には覚えていないがこんな意味の出だしだった。「うぜーんだよ。つーか、うちのクラスうざったてーんだよ・・・」もし、「うざったてー」を品詞分解せよと問われても、多分この言葉でかろうじて文法をあてはめられるのは、「うぜー」の元の言葉と思われる「うざい」が形容詞の一種ととれる程度だろう。私はこの言葉を無論唾棄(だき)するから、死ぬまで意地でも使いたくないし、当たり前だと思う。なお、被害女児も、この類いの言葉で加害児童に痛烈に対したと思われるから、私は殺人必ずしも被害者に同情せぬ。概して人気者は知らずのうちにいたたまれぬ思いの敵を生み育てるものである。昨日付つまり6月28日付「産経新聞」コラム、「産経抄」に、石井英夫氏の名論があった。ここではそのことには触れず、彼が紹介した佐世保事件のネットの書き込みに見られる目を覆わしめる言葉を書いてみる。「ジコマンなデブス」・「下品な愚民」。この二つだけだが、私にはデブスがわからぬ。ドブスなら昔からあったからわかるがこれはわからぬし、わかりたくもない。あとの一つは一見、むつかしい漢字を駆使したと見えるが、本当に言葉を言の葉(ことのは)と捕える者なら、やはり使えぬ破壊兵器のような言葉であり、これを浴びると言葉に被曝したかの心地に陥りそうだ。活躍中の江國香織(えくに・かおり)氏の父上である故・江國滋(えくに・しげる)氏は、このような品性のかけらもない日本語を弄(ろう)する者共を「言葉の強姦者」と評して妙だった。石井英夫氏は今引用した産経抄で、美しく正しい言葉を教えることぬきに「命を大切にする教育」もへちまもないだろうとも書いているが、その通りである。言葉にこやし・汚物をぶっかけた如き正視出来ぬ言葉を児童・生徒らが平然と遣う日常になった背景には、やはりその上の世代たちの、言葉に頓着(とんじゃく)なき無責任さがあると私は断ずるほかない。一例が顔文字などを嬉々として乱用してそれを恬(てん)として恥じぬ者共の急増である。例えば楽天日記をつづるに、言葉を尽くすだけで委曲を尽くそうと出来ないか!?いかにもニッコリ微笑んでいるかに見える記号を連ねて、優にやさしい気持ちを言い表わしたつもりならば、ここではっきり言うが、ノータリンである。なお、私が思いあがっているとこれまた誤解されては困るから、私は今でも三つ上の兄に「お前はどうしてそういう固い文章しか書けないのか!? お前の文章はへただ」と評価されていることを書いておく。兄の口癖は「文章は平明を事とせよ」である。想科良次さんのことに戻る。彼は物腰低い人で、自分の文章に対して常にへりくだっているが、その文章は私がこれまでネットで出会って見た限りでは最もきれいな日本語をつづっている。余り彼に許可なくいろいろ書くと失礼なので、本当に書きたいテーマはハズして書く。私が彼について書きたいのはもっと驚くべき彼の人徳のことである。「懐かし掲示板」というサイトは、彼の美しい日本語の書き込みとそのレスで、長年もっていると私はつとに判断している。書き手に充分過ぎるほど気遣いして、時に書き手が思いも寄らなかった評価のレスを書いて、書いた甲斐があったと喜ばせることについても絶妙で、この時の表現の言葉が、くだいて書くなら「殺し文句」にもなっていて、私も現に幾たびとなく、この快感を味わわせてもらって来た。彼は私と違ってきちっと妻帯して立派に所帯を持っており、それでいて、「私は恋愛テーマの映画・ドラマは大の苦手です」と書くから、私も実は同意見なので、ホッとするのである。共々、共感者なのである。ただし、必ず「大の苦手」とは書いても「大嫌い」とは書かないのは、彼の人間性のほんの一端に過ぎないが、これからその人間性を察することもまた出来るのである。彼は私の人物を見ない、というより人物を見ることで評価しようとあえてせず、私の文章を見て、その文章を評価してついでに私の性格を寛容な目で見てくれるから、常々実物はカスと自ら言う私も、彼の人徳に助けられる心地でいられるのである。私は過去何度かパソコンをやめようと思ったが、想科良次さんの人柄に助けられて、すんでのところでパソコンをやめずに今日(こんにち)まで続けて来られた。その経緯を書きたいと欲して未だ果たせないのは、さすがに許可を得ずに書くのは、過去にあったある事件のことなので、本人の許可の必要を感ずるが、改めて願い出ても、拒絶されそうで、それが恐ろしさに、書けないでいる。これを巨細につづったら、ネットの言葉の欠点を補うのは、やはり人の人徳に負うのみだということが書き尽くせると思うから、ぜひ書きたいが、今回は示唆(しさ)するにとどめる。だが、想科良次さんの気持ちをも顧みず、思い切って書きたい衝動を抑えきれぬことがある。彼のひんしゅくを買って、遂にパソコン世界から退かねばならぬこととなっても、独断専行、あえてはばからず、一度は仔細(しさい)をつづりたい願いがこのごろ、私の中なる思いとなって、私をせかすのである。失礼ながら、ほかの人々なら、とうに売り言葉に買い言葉、お互いカッとなったまま、既に義絶してそれきりになっているはずである。それほど凄まじい文言(もんごん)を私は彼にメールで送ったのである。そして、彼から信じがたい文面のメールを受け取ったのである。ここに私は縁などというものでない、たまさか練れた、寛容ここに極まれりというほどの大人の男に出会ったことを思い知らされたのである。今でもパソコンはむなしい、やめようかと感ずることしきりであるが、かろうじて私がそれをしない、いや、出来ないで、依然あたかも嬉々としてこの世界に臨んでいるかに見えるのも、この未だに信じがたい返信メールを下さった、一人の本物の大人の男の人ゆえなのである。失礼ながら多くの婦人にはこの神業の如き寛容な姿勢をとることは、まず無理である。婦人は由来怒りんぼだからである。結局、私は女より男のほうが好きなのである。なお、私の文章が長文で体力がいるから2,3回に分けて読んでいると書き込み下さった婦人がいた。私はいつものユーモアある書き込みに莞爾(かんじ)としつつも、ハッとなった。コラムは短く語るを本分とせよという亡き山本夏彦翁の言葉がよみがえったからである。この人もまた、泰然自若(たいぜんじじゃく)として、日々淡々と日記を書く人で、一度は男にしたいような婦人である。と、書いたら、さすがに婦人に対して無礼だろうか。この人、自分からはリンクしない人だから、サッパリしていてこれもまた私の好きなところである。私がリンクするのは、書き込みが少ないから相手の名前が消えることを恐れるからである。又五ページへ入ってしまった。これにてアップする。編集後記: 本日の私の日記、「なのである」、「である」が多過ぎてすなわち下手くそだ。亡き兄、じゃない兄の言う通りである。ダメだ、こりゃ。やはり疲れたなり。