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カテゴリ:ハーバード経済日誌
世紀の裁判ショー3(O・J・シンプソン裁判)
O・J・シンプソン事件はアメリカの暗部を象徴する出来事でもあった。一つは人種の問題。黒人に対する(とくに陪審員の)根深い偏見から、黒人が公正な裁判を受けることができないのではないかという不満が黒人社会には渦巻いている。 二つ目は貧富の問題。富める者は優秀な弁護士を雇えるが、貧者はそうした弁護士を雇うのもままならず、有罪や敗訴になる可能性が強まる。三つ目は陪審員制度など司法制度そのものに内包する矛盾という問題だ。 授業の討論でも、やはり人種と貧富の格差問題が議論の中心となった。とくにラテンアメリカの学生から、アメリカ司法制度への激しい批判があったのは興味深かった。それは「アメリカではカネで正義も買える」というもので、それを聞いたマービン・カルブは耳をふさぐ仕草をして「聞きたくない」というジェスチャーをしたのが印象に残っている(ラテンアメリカの国々の司法制度の実態も調べてみれば埃がたくさん出るかもしれないが、授業ではそのテーマで話し合うことはなかった)。 アメリカ人として聞きたくない現実というものが、OJの事件の中に凝縮されている。状況的には完全に有罪と思われる事件の容疑者が、なぜ刑を免れることができたのか。実際民事では、犯人であると事実上断定されている(これには、刑事と民事では立証責任の程度に差があることも背景にある)。 もちろんどの国の司法制度にも欠陥はある。アメリカでは、陪審員の人種構成比が判決を左右するのではないかとの見方が強い。OJの裁判がまさにそれで、陪審員が選ばれる地域により判決が左右されることはほぼ事実であろう。事実、「無罪」の評決が発表された直後にCBSが行った世論調査では、白人の約六割が評決を「誤り」だとしたのに対し、黒人の約九割が評決は「正しかった」と回答したという。 OJの弁護士団は結局、こうした制度上の問題や人種の問題をうまく利用した。メディアも、弁護士の主張を大々的に報じないはずはなかった。だがアメリカの徹底しているところは、陪審員は公判が始まってから結論を出すまでの九ヶ月間、ホテルに缶詰になりテレビはおろか、新聞も読めなくなることだ。つまり陪審員は情報から隔絶された“牢獄”に入り、事実上24時間監視されることになる。これにより陪審員は「メディア操作」から逃れられるというわけだ。 しかし法廷という戦場では、弁護士による情報操作が極めて大きなウェートを占める。高額な報酬を請求する優秀な弁護士であればなおさらだ。 事実、陪審員の中には、「もしテレビなどのニュースを見ていたら、無罪とはならなかったかもしれない」という趣旨の発言をしている人もいたという。メディア操作がいいのか、弁護士による操作がいいのか、あるいは検察側の情報操作がいいのか、アメリカ社会はいつも究極の選択を迫られているようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.02.16 11:07:24
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