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テーマ:アメリカ外交史(232)
カテゴリ:不思議な世界
▼エピローグ1
筆者は一九九九年4月、下院暗殺調査特別委員会初代委員長のトマス・ダウニングを訪ねた。ワシントンDCから車で3時間走らせたところにあるヴァージニア州の法律事務所でダウニングは、遠く離れた東洋からはるばるケネディ暗殺事件について調べに来た私の取材に快く応じてくれた。ダウニングは今でも、ケネディ暗殺はオズワルドの単独犯行ではなく、CIAに支援されていた亡命キューバ人のグループによる陰謀であったと確信していた。 「下院特別委員会設置当初は、委員のほとんどがケネディ暗殺は陰謀であったと信じていた。委員会はきっとその陰謀を解明することができると思っていた」と、ダウニングは当時を振り返る。 しかし、委員会にも限界があった。委員長であったダウニングも、議員としての任期が途中で終わってしまい、委員長職を他の議員に譲らなければならなくなった。委員の入れ替えも何度かあった。 委員会の長期にわたる調査活動に比べて、議員の任期が短すぎたのかもしれない。その中で、CIAの息のかかった議員が委員会に忍び込む透き間が生じたのかもしれないし、あるいはウォーレン委員会のときと同様に巧妙な誘導がなされ、意図的な報告書が作成されたのかもしれない。ロレンツ証言から約8ヶ月経った79年1月に出された下院特別調査委員会の報告書は、致命傷を与えたのはオズワルドだが、オズワルド以外に狙撃手がいた疑いもあるという、陰謀の可能性をにおわせる程度の内容で終わってしまった。 「(報告書は)今ひとつ踏み込みが足らず、失望した。はぐらかされた感じだった」と、顔をゆっくりと横に何度も振りながらダウニングは言った。そこには、及ばなかった自分の力を悔やむ姿がかすんで見えた。 委員会で発言したロレンツはその後、どのような人生を歩んだのであろうか。 自伝を読むと、その後もしばらくは波乱の人生が続いたようだ。CIAからたびたび嫌がらせを受けた。命を狙われたこともあったという。 1979年10月にカストロが国連で演説するためにアメリカを訪問したとき、その危機が訪れた。シークレット・サービスの男たちが、ロレンツにアメリカから出て行くよう告げた。カストロが訪米する数日前には、当時住んでいたコネティカット州のロレンツの家に銃弾が撃ちこまれ、馬や豚やヤギなど飼っていた動物が殺された。 ロレンツは子供とカナダのモントリオールまで車で逃れ、当地のキューバ大使館に保護を求めた。保護を受けていた二日間、キューバ大使館の外では、武装した情報部員がロレンツを監視していた。 ロレンツは隙を見つけて大使館を出て、今度はかつて住んでいたニューヨークのアパートに向けて車を走らせた。情報部員たちはすぐにロレンツを追った。道中は、ハリウッド映画さながらのカーチェイスであった。彼らは、幅寄せしてロレンツの車を道路から突き落とそうとしたり、ロレンツの車に向かって発砲してきたりした。ロレンツも負けじと、撃ち返した。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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