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テーマ:メディアって何だ!?(204)
カテゴリ:メディア
▼黒三の悲劇5
24年後の本人による原稿。 【富山】富山県黒部川の一連の発電用ダム建設の中で、最難所であったとされる阿曾原谷~仙人谷間の黒部川第三ダム(黒三ダム)建設の過酷な労働に従事したのは、主に朝鮮人労働者であったことが、共同通信社に対する複数の関係者の証言で明らかになった。 黒三ダムの工区は、歴史小説家・吉村昭の小説『高熱隧道』で知られる、岩盤温度で摂氏180度を超える高熱地獄の現場であった。だが実際に工事に従事したのが、どういう労働者であったかは記録にほとんど残っておらず、わかっていなかった。 「朝鮮人にはひどい仕事をさせて、機械のように使い捨てた」「朝鮮人労働者が足りなくなると補充した。日本人の記録は残っていても、外国人の記録は燃やしてしまったのではないか」(辻江秋天さん)と証言する人もおり、今回の関係者の証言で朝鮮人労働者が意図的に"徴用"され、記録資料もほとんど失われている実態が浮き彫りになった。 黒三ダム建設は、1936年8月から4年の歳月をかけて完成。黒部川第三発電所は1940年11月に運転を開始した。しかし工事は困難を極めた。とくに阿曾原から掘り進めたトンネルは、岩盤温度が急上昇。火薬取締法の使用制限温度である摂氏40度をはるかに超える180度に達した。工事関係者は、トンネル掘削は不可能であると一時判断したが、電力供給という国策を重視して強行に工事を進めた。工期中は、宿舎が最低4回は雪崩の被害に遭あったり、トンネル内の高熱で死者が出たりして300人以上の犠牲者を出した。 とくに多くの犠牲者を出したのは、1938年12月27日午前2時ごろ発生した雪崩であった。志合谷にある4階建ての冬季宿舎兼現場事務所が倒壊、84人が死亡した。当時を知る宇奈月町の旅館経営戸出喜久三さんは「死者のうち約60人が朝鮮人労働者であった」と証言する。 高熱のトンネル内の事故も多かった。1938年8月28日には、岩盤にダイナマイトを仕掛ける際、熱のためダイナマイトが自然発火、8人が即死した。火傷による死傷者も多く、そのほとんどが朝鮮人労働者であったという。 「過酷な労働のため朝鮮人労働者は日本人の倍の給料をもらっていたが、半強制的に働かされていた」と戸出さんは言う。17歳から三年間、黒三ダムの建設現場で働いたという石丸与一郎は「日本人は現場監督で、実際にトンネル内で過酷な労働をしていたのは朝鮮人だった。朝鮮の人は日本人の三倍くらい働いた」と語る。 黒部川の発電所を管轄して日本電力の社員で黒三建設に従事した辻江秋天さんも「朝鮮人にはひどい仕事(過酷な仕事)をやらせ、機械のように使い捨てた。朝鮮人が足りなくなると補充した。日本人がする仕事はきれいな仕事ばかりだった」と話している。 (了) 明日はこの原稿の解説をします。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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