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カテゴリ:雑感
▼薔薇の名前
![]() 「バラに名前なんかいらないわ」と言ったのはジュリエットですが、その名前にこだわったのが、記号論の分野で有名なイタリアの哲学者ウンベルト・エーコが1980年に書いた小説『薔薇の名前』。1986年にはショーン・コネリーが主演した映画にもなっていますね。14世紀、北イタリアのカトリック修道院を舞台に起きた怪事件を、コネリー扮するフランシスコ会修道士が解決していくという物語です。 この小説の最後には12世紀に作られたラテン語の詩の一節が出てきます。 Stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus. rosa は薔薇、pristineは原初のとか、昔のという意味ですから、rosa pristinaで「原初の薔薇」あるいは「古代の薔薇」となります。statはあるとか、残るという意味。nomineは副詞的に使って「名前により」というような意味だと思います。前半部分は「古代の薔薇は名前に残り」となるでしょうか。 後半部分では、nomina は「名前」、nudaは「裸の」で、直訳すると裸の名前。「ありのままの名前」「純粋な名前」などという意味でしょうか。tenemusは「私たちは持つ」とか、「私たちは手にする」という意味。すると訳は「私たちが手にするのは純粋な名前」となるでしょうか。 意味を類推してつなげると、「古代にあった薔薇は名前で残っているに過ぎない、だから私たちに今あるのは、名前だけ」というような意味になると思います。 タイトルの「薔薇の名前」はこのラテン語の詩から取っていますが、いろいろな解釈が可能です。事実、映画の字幕では(私は忘れていましたが)、「バラは神の名付けたる名、我々のバラは名もなきバラ」と訳されているそうです。私の解釈とは、だいぶニュアンスが異なります。 ここには一つだけの正解というのはないように思われます。どうやら、概念が先か、個物が先かといった実念論と唯名論の間の哲学論争が背景にあるようです。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とする旧約聖書の一説をめぐる神学論争でもあります。 ただそう難しく考えずに、この物語の「語り部」が思いを寄せた「名も無き農民の少女」を「薔薇の名前」であったと考えることもできます。一方、薔薇をローマやキリスト教に置き換えて解釈してもいいでしょう。栄華を誇った国も、美しきものも、やがては滅びます。そこに残るのは名前だけなのか、それとも・・・。答えはあなたの中にありますね。 ![]() (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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