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テーマ:歴史なんでも(780)
カテゴリ:歴史散歩
宇佐神宮(宇佐八幡)を総本社とする八幡神社が、秦氏と深く結びついていることははっきりしましたが、八幡とはどういう意味なのでしょうか。
宇佐八幡をはじめとする八幡神社の「八幡」は今でこそ「ハチマン」と呼ばれますが、元々は「ヤハタ」とか「ヤハダ」と呼んでいました。 どうしてそれがわかるかと言うと、『続日本紀』に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」と書かれているほか、『日本霊異記』には「矢幡(ヤハタ)神」、『源氏物語』第22帖玉鬘に「ヤハタの宮」などと記されているからです。 それがいつの時代からか、「ハチマン」と音読に変化したのだとされています。 八幡大神は応神天皇のことであるとされている、と書きましたが、それは奈良時代以降のことで、それ以前は別の神であったと広く考えらえています。 ではそのヤハダの神、あるいはヤハダの神とはどのような意味だったのでしょうか。 日ユ同祖論の研究家の間では、「ヤハダ」は、元々はヘブル語の「イェフダー」、つまりユダヤまたはユダの意味であるとされています。 彼らの説では、ヤハダの神はユダヤの神「ヤハウェ」ということになるわけです。 その真偽のほどはさておいて、1313年に選修された『宇佐託宣集』によると、八幡神は「古へ吾れは震旦国(しんたんこく:中国の古称)の霊神なりしが、今は日域(じちいき:日本の異称)鎮守の大神なり」と託宣しているそうです。 つまり外国から日本に来た神であったと神様ご本人が言っているわけです。 やはりこの神も秦氏の氏神であった可能性が強そうです。 ただし別系統の神と合流した可能性もあります。 大隅正八幡宮(鹿児島神宮・鹿児島県姶良郡隼人町)の伝承によると、次のような由来があります。 「震旦国陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)、七歳で御懐妊。父王怖畏をなして、汝未だ幼少也、誰人の子かありていに申すべしと仰せければ、我が夢に朝日が胸を覆ひ妊娠したと申し給えば、驚きて、ご誕生の皇子と共に空船(うつぼぶね)に乗せ、流れ着いた所を領とし給へと大海原に浮かべ奉る。日本大隅の岸に着き給ふ。其の太子を八幡と号す。此より船が着いた所を八幡浜と名づく。是継体天皇の御宇(5世紀半ば~6世紀初)也。大比留女、筑紫国若椙山へ飛入給ひし後、香椎聖母大菩薩と顕れ給へり。皇子大隅国に留まりて八幡宮と祀られ給へり」 つまり中国の王室の流れを汲む幼き姫オオヒルメが七歳で息子を産んだことから、父王は怪しんで船に乗せて母子ともども海に流してしまいます。母子の船は日本の大隅半島に流れ着き、その息子が八幡神になったというんですね。 外国の神であることは同じですが、島流しのようになった点や福岡ではなく鹿児島に漂着したことを考慮すると、別系統の可能性が高いです。 面白いのは、七歳で妊娠・出産したという言い伝えです。 イエス・キリストの母マリアの処女懐胎を彷彿とさせますよね。 いずれにしても八幡神は、元は大陸から渡って来た神であったことはまず間違いないことなのでしょう。 それが同じく大陸から渡来した秦氏の氏神「ヤハウェ」あるいは「キリスト」と合体して八幡大神となり、さらに秦氏の恩人である応神天皇や神功皇后と同一視されるようになった、ということではないでしょうか。 (続く) かも お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.10.10 14:26:59
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