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テーマ:歴史なんでも(780)
カテゴリ:歴史散歩
このようにナガスネヒコ系の血統を大和朝廷の王統に取り入れることによって、ようやく倭国大乱が治まったことは歴代天皇の名前を見ることでわかります。
『帝王日嗣』を口伝継承したという竹内氏によると、実は第五代孝昭天皇、第六代孝安天皇、第七代孝霊天皇、第八代孝元天皇という頭に「孝」の字の付く天皇の時代は、『魏志倭人伝』に書かれた倭国大乱の時代(西暦150~200年ごろ)に対応するのだそうです。 その時代は、おそらくナガスネヒコ系の残党や吉備地方の豪族に攻められ、大和王朝は大混乱になったのでしょう。 竹内氏は、既に孝昭天皇の前の第四代懿徳天皇の時代には九州に逃れ、孝昭天皇の時代には「大和王朝」はボロ負けしていた、と言います。 その証拠として竹内氏は、孝昭天皇の二人の息子の名前を挙げます。 二人の名称は、天足彦国押人命と日本足彦国押人尊で、どちらにも「国を押す」という意味の名前をつけていますが、それは負けているから付けたのだ、というんですね。 スサノオと戦いに敗れて亡くなった天忍穂耳の正式名称が正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命と「勝」が三つも入っているのも、負けたことを隠したからだとも言います。 それはともかく、「孝」という字には、親によく仕えることとか、親や先祖の供養をするという意味がありますから、四代にわたる「孝」の名前が付く天皇たちは、大和地方から追い出された先祖の無念を晴らすために戦ったのだとも解釈できますね。 再び竹内氏によると、ようやく最大の敵であった吉備国に反撃できるようになったのは、孝霊天皇の時代であったそうです。 確かに、孝霊天皇の兄の名前が大吉備諸進命となっています。吉備国に皆で進軍したと読めます。 その孝霊天皇の子の名前が大吉備津日子と若日子建吉備津日子。二人は孝元天皇の異母兄弟ですが、やはり共に吉備国を攻めたのでしょう。 この二人と伯父の大吉備諸進が、吉備国の温羅一族を滅ぼした「桃太郎」であると竹内氏は言います。 三人の「桃太郎」たちは、犬養氏(犬)、猿女氏(猿)、鳥取一族(雉)に領地(吉備団子)を与える約束をして、温羅(鬼)と戦いました。 そして猿女氏が騙して温羅を切った(裏切った)ことにより、吉備が平定されたそうです。 そのことは孝元天皇の正式名称である大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)にも込められていると竹内氏は言います。 「国玖琉(くにくる)」とは、国を括(くく)ること、つまり国を一つにまとめたことを意味するわけです。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.11.07 11:48:11
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