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テーマ:旅のあれこれ(10119)
カテゴリ:歴史散歩
宿屋からカルティエ・ラタンまで、どのように歩くかも説明しておきましょう。
おそらく宿屋があったのは、ボーマルシェ大通り(Boulevard Beaumarchais)のそばのどこかです。 ボーマルシェと言えば、「セビリアの理髪師」や「フィガロの結婚」を書いた18世紀のフランスの劇作家ですね。その名前を取りました。 その大通りを南に下って進むとバスティーユ広場に行き当ります。 1789年7月14日、圧政や貧困に苦しむパリ市民が王政打倒を叫び襲撃したバスティーユ監獄があった場所ですね。 革命後、圧政の象徴だった監獄は解体され、この広場となりました。 バスティーユ監獄は、もともとは14世紀から15世紀にかけてイギリスとフランスの間で戦われた百年戦争の際にパリ防衛のために設けられた中世の城塞でした。 百年戦争は、あのジャンヌ=ダルクが出現したことで有名な戦いですね。 その歴史的な広場を通り過ぎると、今度は南西に向かって進みます。 700メートルほどでセーヌ川(la Seine)に突き当たります。 そこから、サン・ルイ島(Île Saint-Louis)にかかるシュリー橋(Pont de Sully)を通って、シテ島(Île de la Cité)のノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)を右手に見ながらセーヌ川の対岸(左岸)へと渡ります。 サン・ルイ島とシテ島はパリ発祥の地とされる島です。 古代ローマの武将ユリウス・カエサル(元祖皇帝シーザー)が残した『ガリア戦記』にも、すでに紀元前1世紀にパリシイ族(Parisii)が住んでいたことが記されています。 パリの名前はここから来ているわけですね。 「パリシイ」は「田舎者、乱暴者」という意味で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称です。 シテ島はかつて、「ルテティア・パリスィオールム(Lutetia Parisiorum)」、すなわち 「パリシイ族の、水の中の居住地」とも呼ばれていたそうです。 パリシイ族は鉄器時代のケルト民族の1つで、紀元前3世紀中頃からローマ時代までガリア地方のセーヌ河岸に住んでいました。 パリシイ族は紀元前1世紀、スエシオネス族(Suessiones)と共に侵攻してきたカエサルのローマ軍に対抗します。 彼らの代表的なオピドゥム(oppidum、城壁町)は、ルテティア・パリシオルム(ルテティア)にありました。彼らが敗れた後、ルテティアはローマ属州の重要な都市となり、最終的には現代のパリとなったというわけです。 セーヌ川の左岸に渡り終えると、最初の大きな交差点で斜め右前にあるサン・ジェルマン大通り(Boulevard Saint-Germain)に進み、今度は西に向かいます。 サン・ジェルマンは6世紀に存在したパリの聖人ジェルマンにちなんだ名前です。 もうこの辺りから、ソルボンヌ大学やパリ大学が建ち並ぶ「カルティエ・ラタン」(ラテン街)と呼ばれる学生街となります。 名前の由来は文字通り、中世までここではラテン語が事実上の公用語として話されていたからです。 このように、歩けば歩くほど、世界史で習った歴史の現場に遭遇するわけです。 そうした歴史散歩的な観光ができると同時に、フランス文学を専攻する学生としては、19世紀の詩人たちが詩に書きとめた情景にも思いを巡らせることができます。 次回はパリ文学散歩と洒落込みましょう。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.01.16 15:33:38
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