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テーマ:旅のあれこれ(10123)
カテゴリ:歴史散歩
ウィーンは出発した列車は、ハンガリーのブタペストを経て、ユーゴスラビアに入りました。
ここでユーゴスラビアの歴史を簡単におさらいしておきましょう。 ユーゴスラビアという枠組みが生まれたのは、第一次世界大戦が終結した1918年。 バルカン半島に暮らしていた南スラヴ人である、主にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人が合同して「南スラヴ人王国」の設立を目指したことが始まりでした。 当初の国名は「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」でしたが、次第に数で優位に立つセルビア人主導の中央集権化が進められ、1929年には「ユーゴスラビア王国」に改称。 分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア人と、実質的な支配階級となったセルビア人の間で不和が生じます。 その民族間の争いに拍車を掛けたのが、第二次世界大戦の勃発です。 1941年4月にユーゴスラビアがドイツに降伏、セルビア人主体の王国政府がイギリスに亡命すると、クロアチアでは独立機運が強まり、ドイツの支援を受けたクロアチアの民族主義者によるセルビア人虐殺や、連合軍の威を借りたセルビアの民族主義者によるクロアチア人の虐殺が発生します。 そうした民族的な争いに加担せず、ドイツに対する抵抗運動を主導したが、人民解放軍(パルチザン)の総司令官として徹底的なゲリラ戦を展開したヨシップ・ブロズ・チトーでした。 1892年にクロアチア人の父とスロベニア人の母の間に生まれたチトーは、早くから労働運動に目覚め、1920年にユーゴスラビア共産党に加入。 第二次世界大戦で祖国がドイツなど枢軸国の支配下に置かれると、共産主義者のパルチザンはチトーを総司令官として枢軸国に対する徹底抗戦を開始、1943年にはユーゴスラビア民主連邦の建国を宣言します。 その後も枢軸国とのし烈な戦闘を戦い抜き、ドイツが1945年に降伏すると、チトーたちはユーゴスラビア全域の支配権を確立しました。 自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは、王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権も否定します。 そして、1945年に成立した「ユーゴスラビア連邦人民共和国」の初代首相に就任すると、衛星国として支配下に置こうとするソ連とも一線を画して、国内の各共和国・自治州の自治権を拡大するなどの独自の社会主義路線を歩み始めました。 その結果、ソ連や他の東欧諸国と比べて自由な生活を送ることができるユーゴスラビア独自の自主管理社会主義国を建設。東側でも西側でもない、非同盟陣営に盟主となったわけです。 しかし、そのチトーも1980年5月4日。 ちょうど私がイギリスにわたる2カ月ほど前に死去しています。 カリスマであるチトーの死後、ユーゴスラビアはどうなって行くのか。 死後まだ一年と経っていない、混乱が予想される最中に、私はユーゴスラビアの地に足を踏み入れることになるわけです。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.04.16 18:44:10
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