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テーマ:旅のあれこれ(10123)
カテゴリ:歴史散歩
カリスマ指導者チトーを失った南スラヴ人の国「ユーゴスラビア」は、タガが外れた樽のように、次第にバラバラになって行きます。
もっとも、私がユーゴスラビアを訪れた1981年はまだ一つの国としてのまとまりを持っており、民族問題も可能な限り抑えられていました。 チトーの死後も、それぞれの構成共和国や自治州の共産主義指導者による集団指導体制が機能していたのです。 実際、80年代前半は紛争もなく、比較的安全な国でした。 1984年にユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで冬季オリンピックが成功裡に開催されたのは、いい例です。 ところが、80年代半ばになって、インフレと失業率の上昇で経済が悪化すると、それまで影を潜めていた民族主義や宗派主義が堰を切ったように各地で溢れ出します。 地理的に西欧に近く経済的に成功していたスロベニアは、南側の共和国や自治州が自分たちの経済成長の足かせになっているとして連邦からの分離を求め、クロアチアでは、連邦政府がセルビア人に牛耳られていることに不満が募ります。 そのセルビアは、人口比にくらべて連邦内での自分たちの権限が抑え込まれていると不平を述べ、イスラム教のアルバニア系住民が多数を占めるセルビア共和国内の自治州コソボは、文化や宗教の違いからセルビア共和国からの分離・独立を主張するようになります。 そうした抑圧された欲求や不平・不満が一気に爆発するきっかけとなったのが、1989年の東西冷戦終結とそれに続くソ連邦の崩壊でした。 東欧革命によって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビアも共産党一党支配を断念、1990年に自由選挙を実施します。 その結果、各共和国ではそれぞれ民族色の強い政権が誕生します。 特にセルビア民族主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが90年にセルビア共和国大統領に就任すると、極端な民族主義政策を打ち出し、自国内で分離独立を求めるコソボへの圧力を強める一方、ユーゴスラビア連邦から分離独立しようとする共和国に対しては、「ユーゴスラビアを破壊しようとする西側諸国の手先」であるとして断罪。それらの共和国内で抑圧されているセルビア人を救うという名目などで武力行使に踏み切るようになったんですね。 最近でもどこかで聞いたような話ですが、同じ歴史が繰り返されているわけです。 この結果、セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間の十日間戦争、連邦軍とクロアチアとの間のクロアチア紛争、セルビアとクロアチアの思惑が交錯したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争など1991年から2001年にかけて一連のユーゴスラビア紛争が勃発します。 結局、欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)の介入もあり、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアは独立、残されたセルビアとモンテネグロによって92年に成立したユーゴスラビア連邦共和国も、2006年にモンテネグロが独立したことにより瓦解しました。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.04.20 16:49:57
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