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テーマ:旅のあれこれ(10123)
カテゴリ:歴史散歩
遠く海を隔てた東と西の島国の少年と少女が8年間の文通を経て、23歳の若者となり、イギリスで邂逅したという話は、ジュリーの父親が務める新聞社の記事となりました。
後日その掲載記事をジュリーが送ってくれました。 今ではその掲載紙はどこかに紛れて見つかりませんが、何はともあれ、イギリスの一地方紙に私の名前が刻まれたことになります。 たぶん、8月1日付けのThe East Anglian Daily Timesではないかと思っています。 その掲載紙を探す過程で、ローヤル・ウェディングのことを報じた1981年7月29日付けの夕刊紙『イヴニング・プレス』が見つかりましたので、ご紹介しておきましょう。 ![]() 月日が経っているので、もうボロボロです。 記念になると思って、とっておいたんですね。 さて、これでイギリス留学に付随するミッションも完了です。 7月31日の金曜日、ジュリーたちに感謝の言葉と別れを告げて、電車に乗り込み、ロンドンに向かいました。 スーツケースを取りに行ったと思います。 重たい荷物はどこかに預けていたと思うんですね。 ケント大学のダーウィン・カレッジの可能性が一つ。 もう一つの可能性は、NCB(文化放送)留学委員会のロンドン事務所に預けたかもしれません。 いずれにしても、荷物を受け取って、ロンドン市内か、ガトウィック空港の近くで一泊か二泊したと思います。 帰りの便が何日だったかははっきりしませんが、8月1日か2日の便で同空港から成田空港へと飛び立ったはずです。 前にも話したと思いますが、当時の格安チケットはソ連のアエロフロート航空か、香港のキャセイパシフィック航空しかありません。 私が購入したのは、南周りのキャセイパシフィックでした。 安いだけあって、本当に不便で窮屈なフライトだった記憶があります。 それも南周りですから、あっちに停まったかと思ったら、今度はこっちに停まるというように、ほとんど空の各駅停車。 たくさんの空港を見学する破目になりました。 もう後半になると、疲れて空港のロビーに立ち寄ることもなく、畿内で休んでおりました。 30時間以上の飛行時間でようやく成田に辿り着くわけですが、もう二度と南周りの便には乗りたくないと、心底思いました。 それでも後の人生でギリシャの島に行ったときは、どうしても南周りとなり、片道30時間を超える旅になっていますけどね。 結構きつい旅になることは、時々あります。 何はともあれ、無事に留学先から日本に戻ることができました。 でも、のんびり休んではいられないんですね。 これからすぐに就職活動を開始しなければなりません。 もう4年生の後半ですから、後がありません。 そして卒論もあります。 まさに「ピンチ!」な状況です。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.07.12 18:02:15
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