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テーマ:歴史なんでも(780)
カテゴリ:歴史散歩
17歳の夏の日記はここで終わっていますが、実はこの後、日本に帰る途中にパリで二泊しています。
エッフェル塔にセーヌ河下り、そして夜はムーランルージュと、初めてのフランスは非常に刺激的でした。 当時、フランス語はまったく話せませんでしたから、言葉の不自由さを実感します。 驚いたのは、フランス人も英語を話すのが苦手な人が多く、日本人の英語力とどっこいどっこいだったことです。 ちょっと自信になりました。 ほかにもいろいろ体験しましたが、書いていると切りがないので、割愛します。 さて、日本に帰った私には、ある種の試練が待っていました。 野球部をこのまま続けるかどうかの試練です。 肩を壊したのをいいことに一時的に休部していましたが、実はあんなに酷使したのにもかかわらず、肩はほとんど治っていました。 ですから私にやる気さえあれば、まだまだ投手として投げられるのは明らかでした。 その一方で、野球部がもつ不平等と不合理、そして不条理に対するわだかまりも強く残っていました。 このまま続けると、勉強よりも野球優先となって、不利益を被ることは目に見えていました。 練習の仕方にも大いに問題があります。 当時の練習といえば、うさぎ跳びに肩の酷使など体に悪い事ばかりやっていましたからね。 ただの我慢大会です。 何か馬鹿らしくなって、野球に対する情熱がなくなってきたんですね。 英国語学研修を経て外の広い世界を知った私にとっては、野球部は閉鎖的で小さな世界にしか思えませんでした。 そこで私はあえて肩が治ったことは言わずに、野球部から距離を置くことにしたんですね。 私がどうしても必要にならない限り、野球部には戻らないと決めたのです。 幸いなことに、野球部は同級生のM君をエースピッチャーに育て上げ、何とか試合をこなせるようになりました。 そのことを知った私は、2年生の夏で野球をきっぱりと辞め、引退することにしたのです。 私の公式戦の戦績は2勝3敗で終わりました。 一勝もできない年が何年も続くこともある高校の野球部で、1年半で2勝したのはラッキーだったといえるかもしれませんが、甲子園は叶わぬ、ただの夢と消えたわけです。 それから16年後の33歳になった1991年に、まさか再び野球をやることになるとは思ってもいませんでした。 共同通信社本社経済部の記者をやっているときに、私が高校時代に野球部のエースだったことを知った先輩から、社内野球大会で経済部のピッチャーをやれと命令が下ったんですね。 野球といっても軟式野球ですから、ほぼ18年ぶりです。 東大野球部だったという財界担当の先輩Tさんが捕手を務め、土曜日午後の空き時間に経団連の裏の駐車場で投球練習を再開しました。 体は投げ方をよく覚えていました。 まあまあいける感じです。 そして翌日の日曜日に共同通信社内の部対抗のトーナメントにエースとして先発することになりました。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.04.14 16:09:06
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