テーマ:1・17阪神大震災
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↑震災後1ヶ月の風景、実家(芦屋市三条町)のルーフテラスより。 テレビやネットで震災30年の報道を見て、私も当時の写真を久しぶりに出してみたので、覚え書きです; 私は5~10歳を神戸市東灘区、10~15歳を西宮市、15歳から結婚までを芦屋市で過ごしました。阪神大震災(と地元で当時言いました淡路の方ごめんなさい)が起こったのは結婚後1年余り、私は大阪府T市に居て明け方飛び起きました。T市でも被害が出ましたが、うちは無事でした。 テレビで最初、「奈良で仏像が壊れました」「京都の文化財のお寺でも少し被害が…」と言うばかりなので、特に心配しませんでした。 何時間後か、テレビにヘリコプターからの、阪神高速倒壊の映像が映りました。「ぼんち」という文字が付近のビルに見えます。見慣れた広告。 「え。うちの実家はこの真北の山腹だよ」 その時まだ神戸からは何の情報も入っていなかったのです。「便りが無いのは良い便り」ということわざとは真逆の状況です。今でも、各地の災害の報道を見るたびにこのことを思い出します。情報がまだ来ない所に、もっとひどい災害が発生しているかもしれない、ということ。 携帯はまだなく、電話は通じませんでした。公衆電話ならかかるかも、と昼じゅう近所の公衆電話あちこちから、かけまくりました。今思うと愚かで、迷惑なことでした。反省その1。 午後になって両親の安否を確かめずにはおられず、夫とタクシーに乗りこみ実家を目指しました。柱がヒビ割れた高速道路の下を進み、どっと逃げ出す人々の車の流れに逆らい、段差ができて大渋滞の甲武橋をガッタンと渡り、ガスの匂いのする関学周辺を抜け、きな臭い地帯を迂回して芦屋市に入りました。危険なドライブを敢行してくれたタクシードライバーさんに感謝ですが、ほんとに無謀で迷惑でした。反省その2。 カーラジオから戦慄する状況の報道が絶え間なく流れていました。暗くなり、赤い月が昇りました。 ↑実家近くの駐車場。 高台にある実家のマンションは無事でした。停電なのでドアをドンドン叩き、出てきた両親に一緒に避難をと勧めましたが、両親はすっかりハイになっていて、家に残ると言いました。前日のお風呂の水が貯めてあってトイレも流せるし食料もあると言うのです。眼下で、街の数カ所から火と煙があがっていました。 私は持ってきた一万円札数枚を渡しただけで、またタクシーで引き返しました。そう、被災した両親に何を持って行けばよいのか見当がつかなかったのです。お金なんか何の役にも立たないことに後から気づきました。反省その3。 実家では4日後に電気が復旧し、両親は「戦中戦後はこんなだった」と奇妙なほど元気に給水車に通い、電気鍋で料理をしておりました。1か月経たない2月15日に私は実家付近や東灘区の母校である小学校(校舎は壊れるも、運動場が避難所になっていた)の写真を撮りました。 ←実家付近の断層上の道路。 →三条町と西山町の境あたり ↓左右ともJR芦屋駅北側付近。左写真のビルは1階がつぶれ手前に傾いている。 災害時の行動はほんとうに難しいものです。 すべての被災者の方々に平穏が訪れますように。日本でも世界でも、追悼すべき災害や戦乱がたくさんあります。 ↑震災後1ヶ月、ブルーシートの街 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 18, 2025 12:47:41 AM
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