愛してるからこそ謎は深まるの
「世にも奇妙な日本語の謎」(アン・クレシーニ著、フォレスト出版)を読みました。著者はアメリカ生まれ。日本に来て、日本語の難しさに悩まされ、それ以上に日本語の面白さ、魅力に取り憑かれてしまった人。応用言語学を専門にする彼女は日本の大学で教えながら日本を愛し、住まいのある福岡県を愛し、宗像市の親善大使を引き受けています。日本が好きすぎて、アメリカ国籍を捨てて日本に帰化までしてしまいました(夫や娘らはアメリカ国籍のまま)。日本と日本語のオタクである彼女は、ある意味趣味を仕事にしたラッキーな人と言ってもいいのではないでしょうか。日本語の構造や変遷、外国人の日本語習得などに興味を持っている私は、彼女がどのように日本語学習に取り組み、日本語の「謎」にぶつかって、その解明に励んでいるかがとても興味深く感じました。外国語が母国語の彼女は、こんな謎だらけの言葉を日本人はどうしてこんなに簡単に使いこなしているのだろうと不思議がっています。長く日本に滞在している彼女の書く日本語は完璧ですが、それでもまだまだ日本語は謎に満ちていると言います。しかしその謎に満ちているところがまた魅力だと彼女は言います。ちょっと「アバタもえくぼ」のような、日本と日本語を買いかぶっているところがあるのではと思ってしまいますが、おそらく彼女は眼の前にある山が高いほどファイティングスピリットが高まってアタックしたくなる、チャレンジ精神の持ち主なのでしょう。日本人が謎に思っていない表現も彼女に言われればたしかに謎と思うこともあれば、全然謎じゃないこともあります。本書のなかで彼女は「一応クリスチャンです」のいちおうってなに?という疑問を提起しています(p.204)。アメリカにいる時知り合った日本人女性がキリスト教にすごく詳しいので「クリスチャンですか?」と尋ねると「はい、一応クリスチャンです」と返されたことがあったそうです。この「一応」が意味不明で、その後ずっと考えているけれどまだよくわからない、と彼女は書いています。これ、日本人には全然謎ではありませんよね?「一応…」と言った日本人女性は「日本にはクリスチャンが少ないし、私がキリスト教に詳しくて驚く気持ちも分かりますが、私は若い頃からキリスト教の信者ですし毎週礼拝にも出席しているのでこれぐらいの知識は持っていて当然です。私もあなたと同じクリスチャンなんですから。」という意味で「一応」と発言したのです。著者が推測している、敬虔な信者ではないと謙遜したのでは無いということはほぼ日本人には理解されます。法律に詳しい人に「よくご存知ですね」と言うと「一応東大法学部を卒業していますから」と言われるのと同じです。「一応傘を持っていった方がいいよ」のような「万一に備えて」のときにも日本語では同じ「一応」を使うので、著者は混乱しているのでしょう。日本人なら何も疑問に思わず「一応」をそれぞれ使い分けています。多くの日本語の「謎」を解き明かしてきた彼女ですが、日本人ならさらっと使って疑問にも思わないこういう表現を「解釈が難しい」と述べているのは、ある意味新鮮でした。疑問を率直に疑問と言っててくれる彼女は、日本文化や日本語の特徴を客観的に見つめ直すヒントを与えてくれます。