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弁護士YA日記

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日出町法律事務所
2019年6月より1年間、日本弁護士連合会客員研究員としてイリノイ大学アーバナシャンペーン校に留学後、弁護士業務を再開しました。
弁護士葦名ゆき(あしな・ゆき)
2012.06.05
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カテゴリ:相馬写真日記
ちょっと間が空いてしまいましたが、

第1弾(キノコ)
http://plaza.rakuten.co.jp/yyy0801/diary/201203240000/

第2弾(カニ)
http://plaza.rakuten.co.jp/yyy0801/diary/201203290000/

に続き、相馬写真日記第3弾!です。
今日のテーマは、郷土力士栃東関!!! 

写真日記の更新に間が空いたのは、純粋に他に書きたいことがあったとか、忙しかったとかいうのもあるのですが、今の私にとって、幸せな相馬を書き起こすことは、ものすごくエネルギーを使うことだから。

そもそも、写真日記は、仕事でもないし、誰に頼まれているわけでもないんだから、別に書き残しておかなくたっていいわけです。

でも、自分が書かなきゃ「かわいそうな瀕死の重傷を負った相馬」ばかりが歴史に残ってしまうんじゃないかという勝手な使命感があって(勝手に背負うなって感じですが)、だから書きたいのです。

ただ、幸せな相馬を書くとき、やっぱり私は涙が止まらなくなってしまいます。どうして毎日一生懸命生きてきた人たちがあんな酷い目に遭わなくちゃいけないのかなあって、もう一度あの時代にタイムスリップできればお金なんか1円もいらないのになあって、考えても仕方のないことを考えてしまうから、かなあ。

・・・このように、色々と心を揺さぶられつつ、結局のところ、書きたくて書くので、どうせ書くなら楽しく書いていきたいと思います!

さて、私は、渋いとよく言われますが、大相撲が好きです。
しかも、中学校時代から好きですから、もう20年の歴史があって、今更他のスポーツに浮気できません。サッカーなんて、未だにルールがよく分からないもの。オフサイドとか、何回説明されても、はあ?って感じです(笑)。

その点、大相撲は良いですよ、あのまあるい土俵を割った方が負け!以上!だもの。
老若男女に愛されるためには、分かりやすいルールじゃないとね~。

大相撲にはまった原因は単純で、貴花田関(当時)がめちゃくちゃかっこよかったこと!
今じゃ、物真似のネタにされたり、奇人変人扱いされがちな彼だけど(まあ、実際、言動はちょっとヘンですよね・・・)、デビューした時の「こ、この人は一体・・・!」とテレビ画面越しに叫びたくなるほどの色気というかオーラはホント凄かった。単に強いだけだったら、あれだけのブームを巻き起こさなかったと思うなあ。

消防団に貼ってあった、若貴兄弟のポスターを頼み込んで1枚分けてもらったり、「貴花田」というそのものずばりの題名の写真集を買ってきて、飽きずに眺めていたり、冷静に考えると紛れもなく変な中学生だった。その上、場所中は、毎日のように、「昨日の貴花田はすごかったよね」と親友いぬさん(というあだ名だったんです)に延々と相撲の話をしていたっけ。

いぬさんは、おしゃべりな私の話をホントに楽しそうに聞いてくれる聞き上手さんだったけど(というか、私は今も昔も、そういう人になつく傾向がありますねえ)、さすがに辟易していなかっただろうか、と今になってようやく反省・・・。

このように最初はミーハーな動機だったのだけど、成長と共にだんだんと、長い歴史を誇る大相撲の文化そのものに魅せられるようになって、ひいき力士だけじゃなくて、大相撲全般が好きになっていった。

で、大相撲好きと相馬と何の関係があるの?ということで、ようやく本題に入ります。

私が赴任していた相馬市は、玉乃井部屋の先代親方である初代栃東関の生まれ故郷。
赴任当時は、平成19年に引退した二代目栃東関が現役大関だった。

二代目栃東関は、生まれも育ちも東京で、厳密にいうと、相馬市の「郷土力士」ではない。
だが、父親の縁があり、毎夏、部屋ごと相馬市に合宿に来ることもあって、相馬市民は、彼に対して息子のような愛情を抱いており、全市を挙げて応援していた。

もっとも、私とて、相馬で栃東関がそんなにも愛されているとは、知らなかった。郷土力士ではないので、直接には結びつきませんでしたからね。

私が、相馬における栃東関の位置付けを知ったのは、初めて相馬を訪問した平成17年1月のこと、ちょうど初場所中だった。

これまで仕事をしていた一晩中明るい池袋の街と全く違って、日が落ちると、街の灯りが早々と消え、真っ暗になる。
福島の中では比較的暖かい地方とはいえ、やはり東北、東京と比べると段違いに寒く、コートの襟を立てても防げない凍てついた寒い風が吹き、吐く息が白く霧のように立ち上る中、私は、事務所候補のビルの下見に来ていた。

・・・暗くて寒い見知らぬ土地。誰一人知り合いもいなくて友だちもいない土地。正直なところ、とても心細かった。
身も心も震えていたその瞬間、1月の夜だというのに、闇を切り裂くような鮮やかな花火が幾つも続けてあがった。

「あの花火は何でしょうね?」と下見に一緒にきた不動産屋さんに聞くと、こともなげに「ああ、栃東が勝ったんだね」と答える。
え?栃東ってあの大関栃東?なんで?と更に問いを重ねると、「先代栃東が相馬出身だから、こちらに後援会があるんですよ」とのこと。

へえ、と思いつつも、疑り深い私は、ホテルに向かうタクシーの運転手さんにも、「さっきの花火は何だったのでしょう」と聞いていた。
すると、やはり「栃東関が勝ったからですよ。今日は勝ち越したから花火が多かったですねえ」と答えるではないか!

わあ!相馬市では、栃東関が勝ったら花火をあげる習慣があるんだ!
そして、相馬市民はそのことを当たり前と思っているんだ!
なんて大相撲を愛している地域なんだろう!
 
暗くたって寒くたって、ここは私がこれから住む土地、覚悟を決めなくちゃ、と言い聞かせていた心が、ぱっと、それこそ花火のように明るくなった。
あの日の花火の美しさ、私は、一生忘れない。

そんな相馬市が沸きに沸いたのは、平成18年1月に栃東関が3度目の優勝を飾ったときだ。連勝街道なので、毎日景気よく花火があがる。

そう、栃東関が登場する18時前後は、たいてい打ち合わせをしている時間だったから、相談途中でも花火が鳴れば、「あ、栃東関、勝ちましたね」と依頼者も私も、一瞬にっこりしてしまうのだ。

序盤戦ならともかく、後半戦に入っても、花火は景気よく鳴る。日を重ねるにつれ、もしかして優勝かも?と事務所を訪れる市民の方々も期待を口にし始める。

何故か私は「まあまあ、勝負っていうのはどうなるか分かりませんから、期待し過ぎちゃ駄目駄目。ここまで勝ってくれただけでも喜ばなくちゃ」となだめ役に回りつつ、内心、「ここまできたら優勝しますように」心から応援するようになっていた。

そして、ついに優勝が決まった晩、相馬の夜には、いつまで続くのだろう、と呆れるくらい花火が鳴り響いた。

翌日には、相馬市長が「あなたは相馬市民の誇りです。市民を代表してありがとうと言いたい」と公式コメントを発表。それだけではない、地元のスーパーが栃東関の勝ち星数14個分のポイントをつけることを始め(この「勝ち星数」ってところが何ともおかしくないですか?)、各商店が一斉に優勝記念の割引を始めたではないか。

地域密着を目指す相馬ひまわり基金法律事務所としても、14日間、相談料半額セールを実施した方がいいのではないか、一瞬検討したが、事務局さんたちが「先生、電話口で、『優勝記念セールのため半額です』と言うのは笑っちゃって無理です」と理性的に反対意見を表明したため検討しただけで終わった。

翌2月には、栃東関が相馬市に優勝報告会のために凱旋。
昼頃に栃東関が来ると聞き、朝からそわそわしてしまう。事務所に仕事は山積みだったが、「こんな貴重な機会を逃すなんて相馬市民として耐えられない」という結論に至り、風のように仕事を片付け、事務所を留守電にし、事務局さんたちと、会場の相馬市体育館に向かった。

会場に向かう道路はびっくりするほどの人、人、人・・・。
小学生からお年寄りまで、相馬市にはこんなに沢山の人口がいたのかと呆れるくらいだった。

ただ、私たちが駆けつけた時は、報告会は既に終わっているようだった。
せっかく来たのに栃東関に会えないなんて無念すぎる、辺りを見回した私の目に、人垣が見えた。間違いない、あの輪の中にいるに違いない!

案の定、栃東関は、いた!帰りの車に乗り込もうとしている栃東関に人の輪をかいくぐって何とか追いつき「大関!大関!こっち見てください!お願い!」と騒ぎ立て、こちらを向いた瞬間、携帯電話でパチリ。

これがその写真である。

栃東関

ちなみに会場には、マスコミも沢山来ていて、あちこちで、市民にインタビューのマイクを向けていた。栃東関の写真を撮れて大満足の私が、帰路につこうとすると、懇意の記者と目が合ってしまった(当時、県内初めての公設事務所ということで、取材が結構あった)。

「葦名先生、ちょっと、一言」と声をかけてくる彼に、「すみません、今日は完全にプライベートなんですよ」とにっこりと微笑み、走って逃げたのはいうまでもない。

それから1年程経って、栃東関は、文字通りの満身創痍で引退したが、あれほど、郷土(厳密には父の故郷だが)に愛された力士はそういないのではないか。怪我も多く、2度も大関を陥落する等、苦労を重ねた栃東関だが、幸せな大関だったと思う。

何の憂いもなく、栃東関を全市で応援したあの日、懐かしくて懐かしくてたまらない。

あの日、栃東関を迎え入れた相馬市体育館は、当初は、津波被害者の、後には、原発事故被害者の避難先となり、6月まで多くの人たちが共同生活を送る場所となった。

GWに相馬市体育館に法律相談に入った際、「地獄だよ、先生。こんな地獄さ、待ってるなら、津波で流された方が良かっだなあ、おらはな。」と涙を一杯ためて訴えるおばあちゃまの手を、何にも言えなくて、無力感で一杯になって、ただひたすら黙ってさするしかできなかった情けない自分の姿、心から消えることはない。

・・・幸い、栃東関改め玉乃井親方率いる玉乃井部屋は、去年の夏も、相馬市で合宿を行い、多くの市民が詰めかけたそうだ。

http://www.asahi.com/national/update/0801/TKY201108010112.html


今年もきっとやるだろう。行きたいなあ・・・。
それにしても、お相撲さんたちの来相で、少しでも一瞬でも皆の心が明るくなってほしい、そう願わずにはいられない。

今は、原発からの距離とやらで、住む場所も人の心も分断されている相馬ですが、郷土力士を市民みんなで一体になって応援していた明るい相馬の風土、この記事で少しは伝えられたらいいなあって思います。





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Last updated  2012.06.06 01:18:18
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