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ちほの転び屋さん日記

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ちほころ@ Re:御礼(04/13) 大杉先生 わざわざコメントくださりあり…

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2007年08月10日
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例によってタイトルは内容とあんまし関係ないです。

 先日の日記に対して応答していただきました。内容からして、無視されてしまうのではないかと思っていたのですが、反応していただいてよかったです。他のブログとの応答ができるなんて、なんか普通のブログになった気分です。

ア それは理由ではない-法律書とフィクション
イ 不法領得の意思
ウ ロボットはパイロット搭乗型よりも遠隔操作型に限る。-学説とのつきあい方
エ リーガルクエストについて


1 論証なしに直接性、不法性を要求している学説は妥当でない
2 小林先生は論証なしに直接性、不法性を要求しており妥当でない

 私の書いたアに対して、2だと捉えるのはおかしいと批判されたので(イ)、私は1と書いた、と釈明したのですが(ウ)、これに対する応答(エ)を読ませてもらって、あらためていろいろ考えてみると、どうも私は、

3 論証なしに直接性、不法性を要求している学説を、何の留保もなしにただ引用している小林先生の引用方法は妥当でない

と考えていたような気がします。「妥当でない」が言い過ぎだとすれば「教科書として不親切である」ぐらいになるでしょうか。
 小林先生の見解だと捉えて批判しているわけではないが、全くの無罪放免ではなく、小林先生の引用の仕方には問題があると。1のニュアンスを超えているはいるが、2までは及んでおらず3にとどまっているということです。
 こういう分かりにくい趣旨が含まれていたため、誤解を招くような文章になってしまったのかもしれません。私自身、エを読ませてもらって、いろいろ考えるうちに、どうやらそうじゃないか、と気づいたくらいですし。



 個々の論点に対する「重要度」というよりも、ああいう書き方だと、「直接性、不法性」が要求されるのが当然であるかのように読めてしまうのではないか、ということです。そういう書き方の典型としてたまたまこの論点に関する記述を見つけたわけです。だから、論証なしに当然のように書かれている記述であれば、誰が書いたもので、どの論点に関するものでもよかったんです。
 たまたま、小林先生自身が書いたものだったので、自己矛盾を指摘しているかのような記述に読めてしまうのかもしれませんが、別の先生が書いたものであっても、同じように小林先生の「一文」をもって指摘していたと思います。

 教科書の「外」にでれば必ずしも当然ではないということに気づくのかもしれませんが、私はどうしても「独学者」の視点からみてしまいます。なので、教科書の「中」に、(詳細な検討までは不要ですが)当然ではないことに気づけるような「きっかけ」を組み込んでおいてほしいと思ったわけです。たとえば、ご指摘のように、「疑問の余地もないではない」と一言いれておくとか。
 抽象的ないいかたになってしまいますが、教科書の外にでてはじめて教科書の中の問題にはじめて気づくような記述ではなく、教科書の中にいる時点で、外にどういう問題があるかくらいは示唆しておいてほしいということです。「一般には直接性・不法性が必要だって言われてるけど、それほど自明のことじゃないよ」程度の留保は書いておいて欲しいわけです。



 まったくの余談ですが、「独学者」の視点ということでいうと、たとえ専門書であっても、教科書しか読んだことがない独学者でも何とか読めるように、(本文自体はいじらなくていいですが)独学者用の導入部分なり注釈なりを組み込んでもいいんじゃないかと思います。「出版事情の厳しい折」云々とまえがきで述べるくらいなら、そうやって読者層を拡げる努力をしてもいいんじゃないですか。頁数の関係で、とかいうならばネットにのっければいいですし。

 裁判員制度がはじまるせいで、刑法学者も、これまでのように専門家だけに通じる言葉で話しているわけにはいかないでしょうし(ただし、難しい言葉を柔らかい言葉に言い換えるなんて皮相的な対応で足りるとは思いません)。まさか、裁判員は非専門家用の刑法規範により判断し、他方で、裁判官はこれまでと同じ専門家用の刑法規範により判断する、なんて判断者ごとに規範を二分するんでしょうか。裁判員が事実認定しやすいように、これまでの刑法規範を簡単にしたものを新たに別建てで用意するということ。

 たとえば、窃盗罪(自転車盗)における不法領得の意思(排除意思)を認定するにあたっても(窃盗罪自体は、裁判員制度の対象ではありませんが、これが事後強盗致死に発展する場合もありますし、対象事件と併合して審理される場合もありますので、およそありえないということはないでしょう)、厳密には、窃取の時点でどれだけの時間、どれだけの距離利用する意思があったか、などということを判断しなければならないはずです。しかし、裁判員に当時の内心を認定してもらうのは難しいということで、窃取後に、現実にどれだけの時間・距離利用したか、によって判断してしまうと。もちろん、これだと、行為後の事情によって犯罪の成否が判断されるのはおかしいという理論的な問題や、はじめは(主観的な)不法領得の意思があったのに窃取直後につかまった場合には窃盗罪にならなくなってしまうという実際上の問題がありますが、このデメリットよりも裁判員に判断しやすくするというメリットのほうを優先するという考えもでてくるんじゃないかと思うわけです。

 つまり、刑法学説における説の優劣を比べる際に、あらたに、「裁判員にとって判断しやすいか」ということも考慮要素に加わると。今まで言われていたことでいえば「明確性」に含まれるものだと思いますが、誰にとって明確であるか、ということを特定したということです。

 ちなみに、これまでの刑法学説が、自分の説が明確であるという場合、誰にとって明確であるといっているのでしょうか。とても一般の人にとって明確だとは思えませんので、まあ、専門家にとって、ということなんでしょう。

(にもかかわらず、行為無価値論者が結果無価値論者に対して、おまえの説では行為時に国民に規範を示せていないから不当だ、なんていうのはおかしいと思うわけです。行為無価値論では建前として行為時に規範を示せていることになっていますが、個々の行為者が行為時に行為無価値論者の組み立てた規範を理解した上で行動することができるなんていうのは、フィクションにもほどがあります。行為無価値論が結果無価値論に対して優位なところは、違法性を判断する時点が一つ増えることで、犯罪の成否をコントロールできる道具が一つ多くなるという点です。
 国民に対して示す規範としてどっちが分かりやすいのかって点に関しては、もし行為無価値に、法益侵害とは関わりのない何かを含ませるならば、むしろ行為無価値論のほうが分かりにくくなるでしょう。もちろん、ここでいう行為無価値論が、結果無価値と行為無価値が両方そろってはじめて違法だという、名実ともにきちんとした二元論ならばまだ問題は少ないんですが、二元論といいながら、なぜか結果無価値論よりも処罰範囲の広くなっている「偽二元論」だと、その問題点がはっきりとでてきます。中身のはっきりしない行為無価値によって犯罪の成否が左右される場面が多くなるためです。)

 で、これからは、自説が明確だという人に対して反論するときは、「確かに専門家レベルでは明確といえないこともないが、裁判員が判断するには難しく妥当でない」という反論ができるようになるんでしょうか。

 余談が無駄に長くなりましたが、裁判員制度と刑法解釈論との関係については、こちらこちらにも少し書きました。



 いただいた反応に対する回答として書き始めたつもりが、全体としてなぜか余談のほうが多くなってしまいました(この稿、そのうち書き換える気がします)。





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最終更新日  2007年08月17日 13時44分21秒
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