図書館で『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』という本を手にしたのです。
巻頭のカラー写真の数ページを眺めると、確かにおぞましいというかヤバい感じを受けるわけで・・・高野さんの胃腸はどうなっているのかと思ったのです。
【辺境メシ ヤバそうだから食べてみた】
高野秀行著、文藝春秋、2018年刊
<「BOOK」データベース>より
人類最後の秘境は食卓だった!食のワンダーランドへようこそー辺境探検家がありとあらゆる奇食珍食に挑んだ、驚嘆のノンフィクション・エッセイ!
<読む前の大使寸評>
巻頭のカラー写真の数ページを眺めると、確かにおぞましいというかヤバい感じを受けるわけで・・・高野さんの胃腸はどうなっているのかと思ったのです。
rakuten辺境メシ ヤバそうだから食べてみた |
「I章 アフリカ」からプリミティブなエチオピアを、見てみましょう。
p29~31
<“アフリカの京都”の生肉割烹と珈琲道>
エチオピアは三千年近い歴史を誇り、現存する世界最古の国家のひとつとして知られる。独自の伝統文化を誇り、他のアフリカ諸国とは全く雰囲気が異なる。ゆえに私は「アフリカの京都」と呼んでいる。
日本でもそうだが、田舎者が「都」に行くと独特の習慣に驚かされる。
大学教授に取材したときのこと。教授の奥さんや友だちも交えて一緒に夕食に行ったのだが、教授はいきなり肉屋に立ち寄った。天井から吊り下げられた牛の部位を指さし、「ここと、ここをくれ」みたいなことを言うと、そのままみんなでずんずん肉屋の奥に入っていく。慌てて付いていったら、そこは食堂になっていた。イートインなのである。
私たちが席につくと、肉屋のおじさんがドン! と牛肉の塊がのった皿をテーブルの真ん中に置いた。続いて、私たち一人ずつにナイフが配られる。最後にマスタード風とケチャップ風の二種類のタレ。
唖然とした私の前で、アフリカの京都人たちはナイフで生肉を適当な大きさに切り取り、生のまま、タレにつけてパクパク食べ始めた。
このときは驚いた。何しろ、付け合わせの野菜も何もない。あるのはパンと酒だけ。
実際食べてみると、たしかに味はいい。エチオピアの地方都市は百年前の京都みたいだから冷蔵庫などなく、家畜はその日に屠ったものしか食べない。つまり鮮度が高いのだ。
美味しいけど、ひたすら生肉の塊だけを食い続ける奇妙さと言ったらない。豆腐尽くしの豆腐割烹ならぬ生肉尽くしの生肉割烹なのか・・・。さらにおかしいのは、教授が生肉を切っては奥さんの口に入れていること。まさに「あーん」の状態だが、着飾った40代の女性が手は膝においたまま、淡々と口を開けている姿は異様の一言。訊けば、親しい相手に「あーん」してあげるのはエチオピア人の中上流階級ではごく普通のマナーだという。
素材を生かした料理と女性に手を汚させない洗練されたマナー・・・なんだろうか? やっぱりアフリカの京都人の行動様式は私のような田舎者には計り知れない。
アフリカには茶道ならぬ「珈琲道」なんてのもある。人類がコーヒーを飲む歴史はここから始まったとされているし、コーヒーノキの原産地の一つでもある。私はタナ湖という青ナイル源流の湖周辺でコーヒーノキの原生林に出くわしたことがある。熟した赤い実を食べたらほんのり甘かった。
飲み方に対するこだわりも世界一だ。「女性はコーヒーを上手に入れられないと嫁に行けない」とされており、1980年代の大飢饉のときには、着の身着のままで、でも自前のコーヒーセットだけを携えた女性たちが続々と難民キャンプに集まってきたという。コーヒーは一般家庭では食後の楽しみであり、もちろん客人が来れば、これでもてなす。
初めてこの国を訪れたとき、私は街道沿いの茶屋で珈琲道を体験した。普通にコーヒーを頼んだら、店の若い女性はなんと生のコーヒーの実を七輪で煎るところから始めた。この時点で、日本のどんな「こだわりの珈琲店」も負けである。たっぷり30分もかけて入れてくれたコーヒーは当然、香りも深みも普通のコーヒーとは段違い。何より「新鮮なコーヒー」というものを私は初めて飲んだ。しかも「お勘定はいらない」と笑顔で言われ、最高の気分で店を出たところ、・・・同行した通訳とドライバーになじられた。
「茶屋ではコーヒーでお金をとらないんだよ。どうして他のドリンクを何も頼まなかったんだ? 失礼だろ!」というのだ。「そんなの知らなかったよ」と答えると、「雰囲気で察しろよ!!」。
物言いのストレートな他のアフリカ諸国とちがい、アフリカの京都は何かにつけて空気を読まねばならず、大変に面倒くさいことも初めて知ったのだ。
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「エチオピアの茶道 コーヒーセレモニーへようこそ」で、エチオピアの茶道が見られます。
『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』2:デーツ
『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』1:はじめに