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藤原道長(ふじわらのみちなが)
この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば 藤原実資『小右記』(寛仁2年・1018) この世をば、わが世だなあと思うのだ。 この満月の、欠けたところもないのを思えば。 註 平安時代中期、事実上の最高権力者である左大臣の地位にあった藤原道長の詠んだ歌として古来有名。 道長の長女・彰子(しょうし)は一条天皇の中宮(皇后)となり、二人の皇子を生んだ。 この二人は、のちに後一条天皇と後朱雀天皇となる。 1018年、彰子と腹違いの娘・威子(いし)が後一条天皇の中宮に入内(じゅだい)することとなり、その立后の日(旧暦10月16日・新暦11月26日)の宴(うたげ)で詠んだ。この時道長52歳。 その場に同席した、道長に批判的だった政敵・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が、その日記『小右記』にこの宴の模様を詳らかに書き留めたため、長く後世に伝わることとなった。 その場の即興(インプロビゼーション)ゆえであろうか、「思ふ」「思へば」の重複、下2句の意味が今一つ分かりにくいなど、和歌作品としての完成度が高いとは言えない。 当時すでに発達していた象徴主義的表現の幽玄微妙などどこ吹く風の、露骨ともいえる直截な表現である。 が、それにもかかわらず、凡百の和歌が裸足で逃げ出すド迫力があることもご覧の通りである。 内容から読み取れるのは、半ば実感、半ば虚勢・強がりといったところだろうか。 巷間、怪物的な自恃自矜(ナルシシズム)の典型のように言われるが、よく読めば、案外それほどの排他的(エグゼクティヴ)な心境を示したものではなくて、単純素朴でイノセントな多幸感(エクスタシー)を率直に表現したものとも思える。 酒席での座興のアドリブらしいこともあり、共感できるとまでは言わないが、やや情状酌量すべき余地はある。 われわれ庶民といえども、人としてこの世に生まれて、道長の何百分の一であっても、このような境地を一度や二度味わうのは悪くないかも知れない。 結婚式や、子供が生まれた時とか、仕事で大成功したとか、枚挙にいとまはなけれども。 ただ、当時の権謀術数渦巻く平安国家権力中枢にあって、これほど脇の甘い太平楽な歌を詠むとは、案外お坊ちゃま丸出しで「天然系」の、意外と人好きのする、けっこういい奴(?)だったのかも知れないとさえ思う。 ・・・僕が勝手に抱くイメージでは、「渡辺徹」みたいな? 事実、娘・彰子の女房(侍女兼家庭教師のようなもの)であったインテリジェント・キャリアウーマン紫式部をはじめ、当時の一流の女性たちにモテモテであり、あの「光源氏」のモデル(の少なくとも一人)となったことも、ほぼ間違いないと言っていいだろう。 ・・・と同時に、この歌に、わずかに不吉な翳が射しているのを読み取るのは僕だけではあるまい。 「望月」が欠けたところがないという我田引水で牽強付会なイメージの展開が、今現在の境遇がピークであり、満ちた月は明日の夜から欠け始めるという栄枯盛衰・生者必滅・色即是空・祇園精舎の無常を微かに連想させる。 当時、位人臣(くらいじんしん)を極め全権力を掌握していた藤原氏の完全無欠な権柄と栄耀栄華は世を覆っていたが、すでにこの時、道長の身体は貴族社会の不健康な生活習慣と運動不足、過度の飲酒、ストレスなどによってであろうが、飲水病(現・糖尿病)に罹患しており、眼病(糖尿病性の黄斑変性症などの網膜疾患?)や心臓神経症(脚気衝心=ビタミンB欠乏症?)も患っていたという。 藤原氏の繁栄も、彼一代が頂点であり、はつかなる綻びと衰亡の予兆も垣間見せ始めていた。 彼自身、さすがに悟ることがあったと見え、この翌年には剃髪して仏門に入り、病気の治療を加持祈祷の神通力に縋る次第となった。 そんなこんなの、日本人なら誰しも持っている「諸行無常」な感受性を呼び起こす点でも、やや下手で放胆なこの歌をして、天下の名歌たらしめているゆえんであるといえよう。 なお、僕らの世代には、松任谷由実(当時、荒井由実)の名曲「14番目の月」の歌詞も連想される。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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