601.陸軍撃墜王列伝(21)島田大尉は休むことなく、敵機と空戦を続け四〇機を撃墜した
【島田健二(しまだ・けんじ)少佐■戦死・40機】(カモメ)島田健二は明治四十三年生まれ。東京都出身。昭和八年(二十三歳)七月陸軍士官学校(四五期)卒業、所沢飛行学校卒業、明野飛行学校(戦闘機操縦課程)卒業。(ウツボ)陸軍士官学校(四五期)には、次のような航空関係の同期生がいる。(カモメ)岩橋譲三(いわはし・しょうぞう)中佐(和歌山・陸士四五・所沢飛行学校卒、明野飛行学校卒・飛行第一一戦隊第四中隊長・明野飛行学校教官・少佐・飛行実験部・飛行第二二戦隊長・自爆戦死・中佐・撃墜数二一機)。(ウツボ)田中耕二(たなか・こうじ)中佐(陸士四五・陸大五二恩賜・第八方面軍参謀・第一七軍参謀・参謀本部作戦課・戦後自衛隊入隊・空将補・航空自衛隊第二術科学校長・航空総隊司令部幕僚長・空将・航空幕僚副長・航空自衛隊幹部学校長)。(カモメ)大室孟(おおむろ・つとむ)少佐(鹿児島・陸士四五・臨時独立飛行第一中隊・大尉・独立飛行第一八中隊・陸軍航空士官学校附・下志津陸軍飛行学校附・少佐・独立飛行第五一中隊長・下志津陸軍飛行学校教官・下志津教導飛行師団教導飛行隊長・第一独立飛行隊長・戦後航空自衛隊入隊・操縦学校教育部長・一等空佐・第一操縦学校分校長・飛行教育集団教育部長・空将補・第五航空団司令・航空幕僚監部人事教育部長・空将・北部航空方面隊司令・第七代航空幕僚副長・第七代航空幕僚長・勲二等瑞宝章・正四位)。(ウツボ)島田健二中尉は、昭和十三年(二十八歳)三月大尉、八月飛行第一一戦隊第一中隊長。昭和十四年(二十九歳)五月十一日ノモンハン事件勃発にともない、五月二十四日飛行第一一戦隊はハイラルに移動。五月二十七日島田健二大尉は<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>でソ連軍の<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>三機を撃墜。(カモメ)その後、島田大尉は休むことなく、敵機と空戦を続け四〇機を撃墜した。九月十五日最後の戦闘(ノモンハン事件は九月十六日終結)で、戦死、少佐に特進した。享年二十九歳。(ウツボ)「太平洋戦争・エース・パイロット列伝」(双葉社)によると、島田健二少佐は、大柄な体格で、飛行機搭乗員にしては珍しかった。(カモメ)普段は温厚で物静かな男でしたが、操縦桿を握ると豹変したという。指揮官としても資質を発揮しました。また、最高の撃墜戦果を誇り、陸軍戦闘隊のエースとなりました。だが、その活躍期間は短かったのですね。(ウツボ)そうだね。昭和十四年五月二十七日、島田健二大尉は、<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>三機を率いてハルハ河上空を哨戒中に、ソ連軍の九機の<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>編隊と遭遇、空中戦になった。(カモメ)「日本陸軍航空隊のエース」(ヘンリー・サカイダ・大日本絵画)によると、中島大尉は、たちまち、敵機三機を撃墜しました。残り六機の敵機も、僚機が撃墜した。この時のソ連側の発表は次の通り。(ウツボ)『五月二十七日、第二二戦闘機連隊は、九機の「九六戦」(実際は、飛行第一一戦隊の<中島「九七式戦」低翼単葉戦闘機>)と交戦』(カモメ)『チェレンコーフ上級中尉と、パクシユートフ中尉の機が撃墜され、サーヴチェンコ大尉は墜落する機体から脱出して助かった』(ウツボ)『エンジンが停止し、不時着を余儀なくされたビヤンコーフ中尉機を加えて、四機を失う。敵、すなわち日本側に損害はなかった』。(カモメ)続く五月二十八日の戦闘の後は、両軍とも再編成と情勢の再検討に時間を費やしたため、空戦は無く、しばしの平穏が訪れました。(ウツボ)国境での競り合いが再び勃発したのは、六月二十二日だ。この日から停戦が発効する九月中旬まで、島田大尉は休むことなく、戦い続けた。(カモメ)島田大尉が指揮する第一中隊は一八〇機という、飛行団の中でも最高の撃墜戦果を記録しました。島田大尉の際立った指揮統率ぶりを現わしています。篠原弘道准尉(栃木・撃墜数58機)も、島田中隊の一員でした。(ウツボ)昭和十四年九月十五日、ノモンハン事件最後の戦闘で、島田大尉はタムスクブラク攻撃に参加した。島田大尉は、最後に<ポリカルポフ「I-16」単葉戦闘機>と空戦中の姿を見かけられたが、未帰還となり、戦死と民定された。【佐々木勇(ささき・いさむ)准尉・38機】(カモメ)佐々木勇は、大正十年十一月五日生まれ。広島県出身。工業高校中退後、昭和十三年(十七歳)四月東京陸軍航空学校入校。昭和十六年(二十歳)三月熊谷陸軍飛行学校(少年飛行兵第六期)卒業、飛行第五〇戦隊(台湾)配属。(ウツボ)昭和十六年十二月太平洋戦争開戦とともに、佐々木伍長は、飛行第五〇戦隊第一中隊の隊員として、フィリピン攻略戦に参加。(カモメ)昭和十七年(二十一歳)一月佐々木伍長は、飛行第五〇戦隊とともにタイに進出、二年余りビルマ航空戦に従事。(ウツボ)昭和十九年(二十三歳)四月佐々木軍曹は、内地帰還、陸軍航空審査部テストパイロット。(カモメ)昭和二十年(二十四歳)五月佐々木曹長は、<中島・四式戦「疾風」甲型・単座戦闘機>(最高時速六二四キロ)で、<ボーイングB-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)四発大型爆撃機>に対する本土防衛の迎撃戦に従事。多数撃墜の功績により、七月十五日陸軍武功章(乙)受章、准尉に特別進級。(ウツボ)戦後、「平山」に改姓して、航空自衛隊入隊。三等空佐で退官、広島県在住。