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Okum

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Sep 2, 2007
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カテゴリ:Movie

インベージョン http://wwws.warnerbros.co.jp/theinvasion/
2007年/監督:オリバー・ヒルシュビーゲル/主演:ニコール・キッドマン ダニエル・クレイグ

 2007年9月1日、台北にて鑑賞。日本での公開は10月らしい。本作は、「盗まれた街」という古典SF小説の四度目の映画化。これまでの三作は、1957年ドン・シーゲル監督の『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』、1978年フィリップ・カウフマン監督の『SF/ボディ・スナッチャー』、1993年アヴェル・フェラーラ監督の『ボディ・スナッチャーズ』(どれも個人的には未見)。

 ※以下、かなーりネタバレあり。

 アメリカに帰還するところだったスペースシャトルが不可解な爆発・墜落を遂げる。地球外のウイルスに汚染されていたのだ。地球に侵入したこのウイルスは、接触した人々に次々と感染し、彼らの感情を奪っていく。外見上はそれまでと変わりないのに、無表情で冷酷になっていく人々。彼らは、感情をもった人々をみつけると集団で襲いかかり、強引に感染させてしまう。異常な事態に気づいた精神科医のキャロル(キッドマン)と同僚のベン(クレイグ)は、研究者ステファンの手を借りて、感染者が眠っている間にだけウイルスが発現することを突き止める。前夫に連れ去られた愛する息子オリバーを探し、感染者の襲撃をかわしながら車を走らせるキャロル。ついにオリバーを助け出すが、そのとき明らかになったのは、どうやらオリバーは先天的にウイルスに対する抗体を持っているらしいということだった。この救出劇の過程で前夫からウイルスを感染させられたキャロルは、眠ることが許されない状況の中、オリバーを連れて必死の逃避行を繰り広げる。誰もいないスーパーに逃げ込んだふたり。ベンが助けに来るが、彼もまた感染してしまっていた。「我々は世界を平和にしている。仲間になれ」と迫るベン。確かに、アメリカ大統領や各国の首脳も感染し、感情を失ったことで、イラクの内戦状態をはじめ、世界各地の紛争は次々に停止していたのだ…。ストーリーはだいたいこんなところである。
 
 突然だが、念のため確認しよう。あまりに当たり前の話ではあるけれど、映画の中の時空は、現実世界のような連続性を必ずしも持たない。現実世界では、少なくとも僕たち人間に知覚される限りにおいて、時間は過去→現在→未来と不可逆的にそして一定の速さで滑らかに進むが、映画の中の時間は多くの場合において可逆的/変速的/離散的である。また、現実世界では、空間はA地点→B地点→C地点と滑らかに広がるが、映画の中ではA地点からC地点へと一瞬にして飛ぶことができる。ひとまずこれを、「電影的時空」と呼ぶことにしよう(電影とは中国語で映画のことだが、それを知らない僕たち日本人にとって、この字面はもっと広い射程を持っているかに思える。ここでは独断と偏見で拡大解釈し、「Moving Image」全般を指す日本語の言葉として「電影」を採用してみる)。それは、僕たちが夢の中で経験する時空と近似していることもあってか、とても自然に僕たちの目に映る。リアリスティックという意味で自然なのではなく、映画として自然なのだ。

 本作もまた、「電影的時空」をかなり意識的にフィーチャーしている。映画の冒頭からして、物語の進行としては佳境のシーンからいきなり始まる。そこではすでに何かが起きており、尋常ではない表情のキッドマンが、無人の薬局で睡眠を抑制する薬を探したり、無人のスーパーで巨大なペットボトルの炭酸飲料をガブ飲みしている。「電影的時空」においては、映画という形式の始まりが物語という内容の始まりと一致する必要はないのだから、これは映画としてまったくもって自然である。その後も、過去のシーンが数秒単位で挿入されたり(観客には主人公の内面におけるフラッシュバックとして理解される)、事前と事後が数秒ごとに切り替わったり(たとえば主人公たちがその後の行動について意志を確認しあうシーンと、彼らがその行動を遂行しているシーンが数秒ごとに入れ替る場面など)、ジャンプカットが採用されたりする。ここまでは凡庸な映画でもありえるが、本作が素晴らしいのは、こうした「電影的時空」の前景化を、単なる装飾的な効果として使っているわけではないという点だ。どのようにしてか?

 激しいカーチェイスを繰り広げ、なんとか追手を振り払ったオリバーとキャロルは、ヘリコプターでステファンに助け出される。次のシーンでは、記者に取り囲まれたステファンが、治療用ワクチンの接種状況や感染者の激減について語っている。どうやらヘリコプターのシーンからかなり時間がたっているようだ。さらに次のシーン(後にラストシーンだとわかるのだが)は、キャロルの家の朝の食卓である。この映画の最初の方で着ていたのと同じ服装のキャロルが、キッチンに立っている。学校に向うオリバーにキスをする。テレビのニュースは、イラクでの自爆テロのようすを伝えている。重要なのは、この映画において時空がアクロバティックに錯綜することをすでに学習している鑑賞者にとって、このシーンがウイルス来襲以前なのかウイルス死滅以後なのか、この時点ではわからないということだ。双方の可能性が重なり合った状態で、数秒間時間が流れる。カメラは、食卓で新聞を読む男性を捉える。新聞に隠れて、顔は見えない。僕たちは息を飲む。彼がキャロルを見るために新聞を下げた瞬間、現れた顔は…前夫ではなくベンだった。この瞬間、僕たちはそれがウイルス死滅以後の世界であることを知る。そして映画は終わる。

 あまりに唐突な終わり方である。だが、だからこそこの映画は素晴らしい。「説明不足」「いきなりかよ!」「あっけね!」と非難する人には、しかし、あなたが見ていたのは映画ではなくそこで語られていた物語でしかなかったのだと僕は言うだろう。彼らが望むようにヘリコプターのシーンと食卓のシーンとの間のできごとが段階的に示されていたとしたら、上記のような効果は生成され得なかったはずだから。ラストシーンにおける「ウイルス来襲以前=過去の世界」と「ウイルス死滅以後=未来の世界」の二重化は、この映画を通じて繰り返し問われる問題――「誰もが人間らしさを保持しているが戦争が繰り返される世界と誰もが人間らしさを失っているが戦争がない世界、どちらがいいのだろうか?」――の転写である。ヒルシュビーゲルは、「電影的時空」を最大限利用することで、形式と内容が見事に相関する構造を実現させたのだ。おそらく、本作がどんなホラーよりも「こわい」のも、このことと関係があるのではないだろうか。






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Last updated  Sep 2, 2007 07:23:17 PM
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