|
カテゴリ:創作・パロディ
街を自転車でぶらついていた。
駅の裏道に差し掛かったとき、突然、鼻を突くような異臭に襲われた。 サリンではない。ホームレスの臭いだった。 彼がどんな姿をしていたか、説明するのはよそう。 読者はただ、おのおのに不潔で汚らしい初老の男性を自由に想像してほしい。 問題は不具の方だ。 生きている人間に対して、久しぶりに吐き気を覚えたのである。 不具は肢体不自由養護学校で教育を受けた。 昔は、重度の障害者は学校に行かなくてもよかった。 義務化された昭和54年ごろから、ぼちぼち重度の身障者が学校に来るようになった。 中には重い知的障害を併せ持つ子供もいた。 そういう児童に対して、小学生だった不具は素朴な嫌悪感を持ったのである。 自分は違う、あの子達とは違う。 自己防衛の心理が働いていた。 何より苦痛だったのは給食の時間だった。 同じ学校の後輩たちがのこす残飯が、駅の吐瀉物のように見えた。 吐き気を催し、後輩たちに対しても吐き気を覚えた。 その不具は今、養護学校の先生である。 罪滅ぼしのようなものである。 自分がアスペルガーだと自覚して以来、昔の嫌悪感は雲霧消散してしまった。 歌の文句ではないが、 「人は悲しみが多いほど/人にはやさしくできるのだから」 という感じだ。 気が付かない人間なので、人にやさしくなったという感じはしないが、人のつらさはわかるようになった。 生徒たちに対しても、ひそやかな仲間意識をもって接してきた。 肢体不自由の生徒たちの摂食を見ても苦にならない。 それよりも、教えることより、教わることの多い毎日である。 ありがたくもあり、これでいいのかとも思う。 だがあのホームレスのおじさんに対しては―― あの人は不具の仲間ではないのだろうか。 あの人もまた発達障害者のなれの果てではないのだろうか。 それなのに反射的に拒否反応を起こした。 不具の本質は昔とちっとも変わっていないのではないだろうか。 先日、不具を創価学会に誘ってくれた先生の顔をふと思い出す。 身障者仲間の学会員は多い。 だが浄土真宗の他力本願とイエス・キリストの生涯の間を揺れ動く不具は学会に限らず、いかなる宗教的お誘いも拒否してきた。 善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。 不具は善人ではない。そのことは自分が一番よく知っている。かつまた人智を超えた神がこの世界に遍在されるのなら、その方の眼にあまねく人類は皆平等であろう、とも思う。 いささか旧い表現をするなら、われわれは皆天皇の赤子なのである。兄弟同士仲良くせずば、親はどんなに悲しむか。 天皇という言葉が嫌いなら、キリストでもいい。神でもいい。不具という人間はどうやらそういうものに救いを求めなければ、生来の自我を矯めることができない存在らしい。 考えながら自転車をこいでいるうちに、いつの間にか穹には一番星が出ていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.25 19:30:08
コメント(0) | コメントを書く |