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カテゴリ:スピリチュアルケア
ラムダス等の死に行く人と一緒に
瞑想するダイイング・プロジェクトの 取り組みについて書いたら、 ハルシャが、 「すごいね。そんな仕事、してみたい気もちょっとする。」 (だけど) 「いろいろ、受けちゃわないかな、などとも思うけど。」 と、コメントに書いてくれた。 いろいろ受けちゃわないかな? という心配は、僕も思う。 しかも、特に「死に行く人」というと、 いろいろ受けちゃいそうだ。 何故かというと、 例えば、OSHOはこんな風に言ってる。 「人は死ぬ時、自分の想念をまわり中にばらまく。 それは実際に起こっている。 今度、人の死に際に居合わせることがあったら、 気をつけて見ていてごらん。 それだけで、ちょっとした経験だ。 人が死んで行く時、ただそばに坐って、自分のマインドに 何が起こるかを見ているのだ。 驚くだろう。 それまでは決してなかった考え、自分にはなじみのない想念、 それまで知らなかったような想念が突如として 自分の中に浮かび上がって来る。 人が死ぬ時には、まるで枯れて行く一本の樹が種を散らすように、 まわり中に自分の想念(マインド)を放り出す。 樹は恐慌を起こしているのだ。 後から樹が生えて来るように、 死ぬ前に種を蒔いておかなければならない」 OSHO 例えば僕は、ご存知のように、 日本人の中では、時間にルーズな方だと思う。 ところが、父の死を看取ってから、しばらくは何故か、 「時間を大切にしよう」と思うようになった。 それで、父の形見の腕時計をつけて、父のように「時は金なり」 と考えて、もっと生産的に生きようと思った。 しかし、なんとなくこれは僕の考えではなく、 父のマインドだなあ・・と観ていようとしてる内に、 慣れない腕時計に皮膚もかぶれだしたので、それも止めて、 父の死からもう三ヶ月もたった今となっては、 その父からやってきたかとも思えるマインドの種は、 僕の中には根付くことはなかったのか、 残念ながら、また僕はルーズな時間の中に生きている。 しかし、そういったことも含め、 OSHOの言っていることは、 なんとなく腑に落ちることが他にもあるように感じる。 死に行く人の放り投げるマインドの種が、 肉親という土壌には、着地しやすいのかもしれない。 いくら気づいていようとしても、 完全な気づきを持っているわけでもない僕は、 きっとあれから、何かしらの影響を受けていると思う。 怖い気もするし、そんなに怖くないのは、やはり 肉親だからかだろうか・・ しかし、赤の他人からでも、「いろいろ受けちゃう」だろう。 というのは、生きてる人からも「いろいろ受けちゃう」 ことも多々あるわけだから、それはそうだろうと思う。 だから、しかし、「大丈夫かな?」ということだが、 それについては、やはり、OSHOはこう言っている。 自覚なければ、いろいろ受けちゃう・・ 自覚あれば、「大丈夫」だ、と・・ 「自覚なしに、決して死んで行く人の側に近づいてはならない。 そういう時、死に行く人は、人に影響力を持つことになるからだ。 基本的には、自分で自覚しているのでない限り、 憂鬱で悲しくなるような人の側には、 決して近づいてはいけない。 こちらが自覚しているなら、何も問題はない。 憂鬱はやって来て、そのまま過ぎ去る。 決してそれを自分の気分だと思うことはない。」 OSHO (信心銘)禅文化研究所 この本の日本語訳で、「自覚」と書かれているのは、 たぶんAwareness(アゥエアネス=気づき)のことだろうと思う。 ということで、ラムダスなんかは気づきのうんと深い人だから、 死に行く人と共に瞑想するというプロジェクトを続けて、 いろいろ受けちゃても、それらは過ぎ去り、 それを自分の気分と思わないのだろうから、 結局、いろいろは受けちゃわないと言うことだろう。 やはり、 生きている人と付き合うにも、 死に行く人と付き合うにも、 たぶん死んだ人と付き合うにも、 パワー・オブ・自覚(Awareness) が、 鍵なのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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