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カテゴリ:想うこと
新刊が出るのを楽しみにしていて、昨日本屋で山盛りに(冗談でなく)なっていたのを買って帰ったから、僕は村上春樹のファンなんだろう。
チャンドラーの「さよなら愛しき女よ」村上春樹訳は、本のページからお酒の波動が伝わってくるような気がしてまいったけれど、ハードボイルド・ワンダーランドの種本はこれだったのかと思わせるぐらい、彼の文体の集大成を感じさせて、これを翻訳しながら同時進行で書いていただろう新刊の「1Q84」はどうなるのかと思っていたけれど、案の定一人称はやめて三人称のような文体で、しかし三人称とはこんなのだったろうか?と思わせる感じ。 すべてを俯瞰している視点というか、誰が俯瞰しているのかわからないのだけれど、瞑想で言うところの観照者の視点であるかのように感じさせるのは、彼のマラソンのエッセイを読めばまるで瞑想者じゃないかと思った記憶からの来ている。 実際は、何か誰の視点かはっきりしないところが、不思議な居心地悪さを感じさせて、そのへんをねらってるのかもしれない。アフターダークという読みにくい暗い前作が、たぶんこの小説の習作だったのだろう。 「羊をめぐる冒険」や「ダンス・ダンス・ダンス」やせめて「ネジマキ鳥」あたりのようであって欲しいという多くの読者の期待を裏切って、新たな地平を開拓しようと試みるのは、たいがいの芸術家は何かのスタイルで成功するとそのスタイルを繰り返して、第五チャクラを一定のパターンに固定させるというのは、たしかサトルボディヒーリングの本で考察されていたことだから、村上春樹のクリエィティブに挑戦する姿勢はえらいなあと思う。 その三人称も読み進めるにしたがって気にならなくなり、例によって重層的な物語世界を語るのには、これで良かった気もしてくるが、一人称と違ってやはり感情移入しにくい。主人公が二人いて(あるいは、ふたりに別れているのか?)章ごとに男と女の話が入れ替わり、だんだん二つの世界が交わってくる。ハードボイルド部分と内省的でスーパーノーマル的な部分と分けて、統合されていくのかな?とも思う。 タランティーノのキル・ビル的な必殺仕掛け人風の女殺し屋の孤独と、村上春樹君的な小説家の卵の青年とディクレシイアの美人女子高生とのふれあいという筋書きは暗く、なんとなくこんな小説なら他にもあるのではないかと思わせる。1Q84は、やはりジョージ・オーウェルの逆ユートピア小説から来ていて、1984年頃にその曲がり角があったという暗示か、政治革命の季節が終わり、社会がカルト化して行った暗示か、新島純良氏の山岸会参入とその脱会をモデルにしていたり、そしてオーム真理教の闇と例えば「エホバの証人」のエピソードなどが、題材として使われている。当時、新島純良氏などにも会ったことあるし、山岸会の特講は受けたことはないけれど、その近いところに接したことのある僕としては、何やら読んでいてはらはらするものがあった。何かその描写が平板なのだ。 今のところ読む限り、何万人になるかもしれない読者が、「コミューン」という言葉や、「瞑想」という言葉に、悪い印象を持つだろうと思うと、暗澹たる気持ちなる。オーム真理教のおかげて「瞑想」という言葉が、すっかりやばいもののようになっていたあの頃をやっと脱して、スピリチュアル・ブームなんてものもやって来た時代に、だからこそ書いたのだろうけれど、「瞑想」が悪者になるのは、村上春樹じゃないけれど、やれやれ。だ。 イスラエルでの割れやすい卵の側に立つ発言にあるように、村上春樹は例えば、 「日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきでないのだ。」というこの一節にあるように、そのまっとうな優しさは、僕は嫌いではない。 しかし、学生運動は少しはしたかもしれないが、コミューンも宗教活動も、ましてやNHKの集金も実際にはしたことはないだろう作者が、取材と想像力だけを頼りに、モラリスティックに裁くのは、主人公のひとりがドメステック・バイオレンスのバトラーを裁くように、はらはらしてしまう。 以上は一気に読んだ上巻のみの感想であり、続きを読めばどうなるのかわからない。1984風にビック・ブラザーに支配されているらしいカルト教団に対して、敵か味方かわからないリトル・ピープルが、「空気さなぎ」を作るあたりで、村上春樹にしか書けない味を感じたが、えのきどナニガシかのシュールなナンセンス漫画を思い出した。 もしかしたらそのリトル・ピープルというのは、ライヒの「聞け!小人物よ」の小人物のことかもしれず、そうだとしたらビック・ブラザーよりもその方が怖い展開になっていくだろう。もし本当にそうならすごく期待できる。 一気に読んだが、その後、僕の親友が癌になったという不吉な夢を見たので、何やら不穏なざわざわした感覚を残す小説だ。 もう一度書くけれど、とてもたくさんの人が、コミューンや瞑想に悪印象を持つだろうことが予想されて哀しい。十羽ひとからげにして、山岸会も他のコミューンも、オーム真理教の瞑想も他の瞑想も同じものに考えてしまう可能性はある。 壊れやすい卵の味方たる村上春樹氏が、こんなふうに一読者を傷つける可能性もあることを知っているのだろうか? 脱カルト(社会)の手法としては、マインドに気づいてそこから脱同一化する「瞑想」がなによりも武器になると思うが、それがカルトの手段とされるのはかなしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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「壊れやすい卵」の側にいたいというのは、自分を正義の側に置きたいということで。
自分を正義の側に置くということは、そうでないものを悪として裁くということで。 これだけの支持を集めている中、村上春樹自身の「正義」が、読者や日本社会にとってカルト的な働き方をしないよう祈ってます。 (2009.06.01 22:38:58)
oroさん
>「壊れやすい卵」の側にいたいというのは、自分を正義の側に置きたいということで。 >自分を正義の側に置くということは、そうでないものを悪として裁くということで。 > >これだけの支持を集めている中、村上春樹自身の「正義」が、読者や日本社会にとってカルト的な働き方をしないよう祈ってます。 ----- 書き込みありがとうございます。 僕も村上春樹は大好きなんですが、彼の固くて、悪を裁く生真面目さには、少し辟易した感じを持ちます。きっとエニアグラム性格診断によるところのタイプ一番。勤勉な完全主義者じゃないかと思います。このタイプの人は、怒りっぽくて怒ったら完璧でなくなるので、怒りを避けますが、不完全な世界にも、不完全な自分にも怒ってます。ユーモアが救いとなります。これは顔とか体型とか思考法とかでなんとなく勝手に判断してることですが・・・ (2009.06.08 22:04:38)
下巻70項からのH&K「拳銃」の作動・操作方法の描写は違います。
「空のマガジンが装填されていなければスライドはオープン保持しません」 < http://homepage3.nifty.com/WGI/> ; (2009.10.25 08:20:40) |
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