もはや100万部になろうかの勢いで゛消費されているらしい村上春樹の新刊「1Q84」であるが、出張旅行の合間に読み進み、山梨県から東京に行く夜汽車のなかで読了。
「わたしの見ているのは、ほんとうの世界なのか?ここはどこ?わたしは誰?」という疑問符が、なんとなく漂うワークショップを導いて、心地良い疲れとともに読み進めば、驚くことに本の中でも主人公のひとりは、山梨県に「猫の街(まぼろしの街)」を訪ねてクラスマックスに至り、最期は哀しく美しい決意と共に、東京行きの汽車に乗り込み、こういう偶然の一致は当たり前の世界に住んでいる僕だけれど、なにやら世界はゆらぎだして、思わず月がふたつないかと空を仰いだりして、読んだ後と読んだ前では、確実に変化があった。
いったい何に変化があったのだろう?
一巻は、ミイラ取りがミイラになってしまったのではないかと心配するくらい例えばカルトや犯罪や暴力の闇は深く、さすがの村上春樹さんも、たたきすぎて舞い上がったほこりに捲かれてしまって、本自体のエネルギー(波動)は低く、荒っぽく、下に下がるものだった。
(ここの数年の修行のおかげか僕は活字(やそのかたまりの書籍)の波動を感じて測定することがいつの間にかできるようになった。物や人や食べ物や場所なんかのエナジーが高かったり、低かったりするように、活字、メール、本にも確実に波動があり、そのいろんな波動に取り囲まれて、影響を受け、汚染されたり、浄化されたりしているのが、僕たちのエネルギー・ボディとマインドだ。で、魂というか中心は不動で、さまざまなエネルギーに影響はされずに、輝いたり、輝きを忘れたりはするから、エネルギー(波動)がいくら低くても、魂が喜ぶ書物とかはあるように思えるけれど、だいたい波動が高い=周波数が高い=振動数が細かいものは、良いお水のようにつるつると喉ごしが良くて、読むとこころが浄化されて、キレイで軽くなる。
村上春樹の本は、例えば最近の短編集の「東京奇譚集」なんかもそういう軽くて、きれいになるエネルギーで、よしもとばなな もそういう本を書くけれど、彼女よりも光があるのはさすがである。
しかし今作の「1Q84」はどうかというと、一巻は重く暗く荒い波動で、読むのがつらかったけれど、二巻目からは少しずつエネルギーが変わり、つまり今までの村上春樹的世界が展開してきて、最期は光が見えたけれど、これはストーリー展開や文体の変化のことではあるけれど、本それ自体(つまり活字のかたまり)からの印象のことで、まるで文中の空気さなぎの描写のように、重くて暗い波動の塊の中の方から、ほの暗くかすかな光が内側からさしてるみたいなエネルギーの状態をしているように思う。
その光は、内側から外側を破って輝くまでには至らず、それはあやうくミイラとりがミイラになるやも知れないテーマの闇の深さと、その取り上げる題材の平板さ故に起ってしまった現象なのか?三巻、四巻目への続きがあるかもしれない故なのか?は、わからないけれど、計算して練り上げた文体と構成が創りだしたエネルギーだとしたら、やっぱり村上春樹は天才だと思う。ものすごい努力のできる天才だ。
その天才の満を持して放った今作は、今までの作品のように、読むとこころがきれいになる美味しいお水や食べ物のようなエネルギーではない。もう一度書くけれど、二巻目中盤くらいから、エネルギーが少しずつ変わり、読後全体の印象は、ぶあついもやもやした暗く重たいエネルギーの中の方から光がさして、暗い気体(雰囲気)のさなぎの内側から光が浸透して、外の殻の方も透明になっていくような感じのエネルギーというかなんというか・・・
(夢)物語というもの自体が、ハートの想念世界から現れるものだけれど、これだけ多くの人をハートのもやもやした世界に誘い込み、道案内するなんて、すごい責任のある仕事だなあと思う。小説家と言うのは。
規模はぜんぜん小さく、形態も違うけれど、僕の仕事も人々の固い日常意識にゆらぎをもたらし、思い込んでいた夢のせいで苦しんでいるならその夢から覚めることを手伝って、こころのもっと奥地に探検することを誘う水先案内人みたいなものだとしたら、他人事ではない。
資本主義の共同幻想も崩れ、たくさんの人たちが、インフルエンザの悪夢を見てマスクで顔を隠していると同時に、世界が明日も確実に続いていくという夢も頼りなくなってきたこの時期に、今度はもっと深いこころの闇にページを繰りながら迷い込み、何が現実で何が現実でないのかあやふやになっているとしたら、すごいことだなあと思う。
一巻を読んでの感想で、たくさんの人が「瞑想」や「コミューン」に平板でつまらない印象を持つことを危惧した。その感想に変わりはないけれど、二巻まで読めば、たくさんの人が固い日常の意識から、あやふやで朦朧とした夢のような世界にシフトするならば、たくさんの人がこの本を読むことは良いことのような気がしてきた。それほど現代の闇と眠りは深く、光が差しにくいのかもしれない。
自分が当たり前に考えたり、信じたりしていることに疑問を持って、「問いかけ」ていくことの大切さは、僕がこの度のワークショップで参加者に伝えようとしたことのひとつだ。
瞑想をしていけば自分が過去や世間に条件付けられたマインドの壁に取り囲まれて、現実を今ここで認識するよりも、頭蓋骨の中に投影した映画を見て、喜んだり悲しんだりしていることが、だんだんわかってくる。自分が見ているこの世は、夢のように思えてくる。夢から覚めたと思っても、その夢の層は分厚く、新たな夢の見て壁を上塗りしたりする。夢の壁に落書きされたり、その夢を買ってくれたり、買ってくれなかったりすることで、人は幸福になったり、不幸になったりする。
悪夢が良い夢になっていって、夢がだんだん透明になっていく過程が、セラピーから瞑想に至ってヒーリングされていくプロセスに例えられる。いずれにしろ最初は自分が夢を見ていることに気づくことから始めるしかない。そのために例えば「すべては夢である」と想い続けるチベットの瞑想もある。
ハート瞑想も続けていけば、「すべては幻である」かの境地がやってくる時がある。「試してごらん・・両脇のあいだに、平安が満ち、それが自分自身の中心、ハートの中枢にひろがってゆくのがわかれば、世界は幻のようにみえるだろう。それは、あなたが瞑想に入っているというしるしだ。そのとき世界は幻のように見え、幻のように感じられる。だからといって、世界を幻だなどと考えてはならないし、その必要もない。-OSHO-
(ハート瞑想ついてもっと読みたい人は)
世界は幻のようにみえ、それが瞑想に入っているというしるしであり、そのとき世界は幻のように見え、幻のように感じられる。だからといって、世界を幻だなどと考えてはならないし、その必要もない(繰り返しになるけれど、そう思い続け瞑想もあるが)としたら、「1Q84」を読んで、現実感があやふやになって、月がひとつなのかふたつなのか空を見上げる時に、その空を見上げているものは誰なのかに気づくことこそが大切なのではないか?
月はひとつになったり、ふたつになったり、みっつになったりするかもしれないけれど、それを見ている(意識している)ものは、誰なのか?何なのか?それを発見していくのが、自由であり、そのための手段として瞑想がある。
夢の世界に踏み迷い「どうしたらよいのだろう」と嘆きながら、天路歴程の旅をするには(この小説が下敷きのひとつであることは最終章近くでそういうタイトルがあることからもわかる)
天路歴程
「愛」が道しるべになるということを、村上春樹は提示しているように思う。
(参考に。『1Q84』の解釈・感想)
(この人の考察はおおむね僕は賛同する。注意*ネタバレありです。読後に読まれることをお勧めします。)
しかし村上春樹は、愛とは何か?は定義しないし、むしろ自明のものとしている。だが僕は、愛とは学ぶものであり、それは瞑想なくてはあり得ないと思っている。愛と瞑想はふたつの翼であり、そのひとつの翼を無考察に切り捨てているかに見える作者は、僕から見たらまるで瞑想修行者のようなランニング走者なのだから不思議な話だけれど、ほんとんどの読者にとっては、夢のような世界を迷わずに進むには、「愛」だけでは頼りないのではないか?
愛と瞑想の両翼の大切さを狙って、一人称でなく俯瞰的な三人称の文体を執ったとしたらすごいけれど、この文体についてはたぶん違った意味があるのだろう。