■『橋をかける-川と水のくらし』大竹三郎著 1985年発行
本棚:子どもコーナー オ
橋と言われても、谷根千エリアではピンとこないが、へび道がまだ藍染川だった頃の、枇杷橋(合染橋)跡というのがある。
この本の第1章で「流れ橋」を見にいく、とあってオヤっと思う。橋げたと橋脚を金物だどで止めるのではなく、完全に流されないためのロープで繋いでいるだけ。大水になって橋げたまで水が届くようになると、橋げたは、流れに沿って川の中にたてに(8枚)並んでうくという塩梅。流されるのをある程度想定して(想定外にしないで)、流れに身を任せることで、水を通してやる。逆にもし、そこで頑張ってしまったら、そこが堰(せき)のようになって水の深さは急増し、堤防をこえてあふれだす恐れすらあるというのです。昭和26年、京都で作られたそう。
続いて、橋の上を通る水。またオヤっ。考えてみれば、水道の水が川を渡るのにも橋は要る。まさに「水道橋」だ。江戸の上水道を整備した大久保主水のお墓は谷中の瑞輪寺にあるので、ついでに行ってみよう。
日照りで悩む福岡の三池藩。水道水を引くには逆川を横切らねばならなかったが、それだけの橋の技術がない。そこで辿りついたのが、長崎の技術。長崎だけは外国との交流があり、石づみのアーチ橋めがね橋があったのである。
話が、やっと長崎めがね橋にまで辿りついた。
昨日が8月9日。長崎原爆投下の日だったので、話を長崎にブリッジしておきたかったのだ。ちなみに、谷中コミュニティセンターの前の防災広場には、被ばく「柿の木」二世が植えられている。樹木医が蘇生したこの木を「生命の尊さと平和を愛する心を谷中の子」たちと一緒に考え行動し、育ち合っていこうと、谷中コミュニティ委員会で植樹されている。(692字)
正面が谷中コミュニティセンター。右が、被ばく「柿の木」二世
(防災広場側から撮影)