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カテゴリ:タイガース背番号史
引き続き背番号1を見ていきます。背番号ごとの列伝になっていますので、重複で登場する人物も多いです。ご了承ください。 背番号1(その2)
白坂長栄 内野手 1948(昭和23)年にタイガース入団。背番号は27番、26番、17番を経て、1958(昭和33)年から2年間1番をつけた。 名二塁手として活躍し、1950(昭和25)年には二塁手最多併殺136(プロ野球記録)などを記録、オールスターにも3度出場している。 引退後は二軍監督やスコアラーをつとめ、2015年、92歳で亡くなった。
伊賀上潤伍 打撃コーチ この人は既にその1で紹介した人物。タイガースで最初に1番をつけた伊賀上良平が改名したもの。1960(昭和35)年、打撃コーチとしてタイガースに復帰し、2年間1番をつけた。
滝田政治 外野手 大映、阪急で内野手として活躍したあと、最晩年の1962(昭和37)年にタイガース入団。タイガースでは外野手登録で代打を中心にして53試合に出場したが1年で現役引退した。
フランク・ヤシック 内野手 タイガース歴代4人目の外国人選手。吉田と共に名三塁手として三遊間を担っていた三宅秀史の目の負傷で空いたサードの穴を埋めるため、1963(昭和38)年にデトロイト・タイガース傘下3Aノックスビルから入団した。 来日時には、インタビューに対し「40本塁打を打つ!」と豪語して話題となったが、メジャー経験は無く、タイガースでは87試合でわずか38安打、2本塁打、打率1割9分1厘と口だけに終わり、1年で解雇されている。
朝井茂治 内野手 ヤシックに代わり、三宅のあとを受け継いだレギュラー三塁手。最初は40番だったが、1964(昭和39)年から4年間1番をつけている。その後1968(昭和43)年に広島へ移籍した。
大倉英貴 内野手 1967(昭和42)年にタイガース入団、1年目は13番だった。2年目から引退する1973(昭和48)年まで6年間1番をつけた。三塁手だが打撃の才能に恵まれず、レギュラーになれないまま控えで過ごした。
一枝修平 内野手 明治大から中日ドラゴンズに入団し、俊足巧打の名ショートとして活躍する。その後、近鉄を経て1974(昭和49)年にタイガースへ移籍して1番をつけた。この年は掛布の1年目とかぶっている。 タイガースでは1年のみで現役を引退し、翌年からは吉田義男監督の下、守備走塁コーチを務める。吉田監督の信頼が厚く、のちに第2次、第3次でもコーチに就任しており、通算8年間をともにしている。 1989(平成元)年には、村山監督の後任候補として監督要請されたが固辞したことでも有名。辛口理論派の解説も定評がある。 次の写真は、どえりゃー懐かしい、しかも貴重なタイガース時代の一枝氏。関本のバッティングフォームとよく似てるよね!
昭和30~40年代ころの選手たちを見てきたが、この時期、1番は主に内野手の背番号として定着した感はある。 そこには、名サードだった三宅秀史が小山正明の球で目を負傷した後、なかなか三塁手が定着しなかったため目まぐるしい補強をしたことも大きな要因になっている。 ただし、外野手やコーチ、外国人選手もつけているので、まだ深い意味のある番号とまでは言えなかったのではないかと感じる。 続く
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