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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号21(その1) 背番号21の第1回目です 「21」は球団創設当時に選手が着けたなかで一番大きい番号ね これより大きい番号は監督が着けた「25」と「30」だけです 創設年の1936(昭和11)年は監督が途中で交代してるから「25」と「30」なんだね これはまたそれぞれの番号で紹介します 第1回目は戦前に背番号「21」を着けた5人の選手を一気に紹介するよ 小島利男 内野手 愛知県名古屋市出身で愛知商業 大学は早稲田大に進み、1934(昭和9)年に首位打者、1935(昭和10)年秋にはリーグ最初の3冠王になった。 卒業後1936(昭和11)年に実業団の三菱鉱業へ入社するが同年8月に退社して、創設間もない大阪タイガースへ入団した。背番号は「21」。 この年は秋季から公式戦に出場し31試合117打数30安打18打点、打率.256の成績を残している。 小島は早稲田大の先輩である森茂雄監督を慕ってタイガース入りを決めたが、森は1936年7月29日に突如解任されており、小島が入団した8月には2代目の石本秀一監督に代わっていた。 これを不服とした小島は何かにつけて石本監督と対立してしまい、球団からチームワークを乱すと判断されて、1937(昭和12)年春季の途中に突然イーグルスへ移籍することになる。ただし、イーグルスでは前年タイガースを解任された森が選手兼任監督となっていたため、ある意味で念願がかなった。 イーグルスでは1937年の春季の途中から終戦まで所属しているが、1939(昭和14)年から1940(昭和15)年に1度目の応召、1941(昭和16)年から1942(昭和17)年にかけて2度目の応召、さらに1944(昭和19)年から終戦まで3度目の応召、ほとんどの期間を戦争に翻弄され続けた。 1946(昭和21)年、プロ野球が再開されるとパシフィックに所属してプレーしたが、八百長が蔓延していることに嫌気がさして途中退団し、引退してしまう。1947(昭和22)年に電通に入社し3年間籍を置いていた。 1950(昭和25)年に西日本パイレーツに招かれて選手兼任監督を務めたが1年で辞め、電通に戻った。 その後は実業界に身を置き、文化放送を経てフジテレビの役員を務めた。1969(昭和44)年、55歳で逝去。 プロ通算成績は276試合949打数215安打120打点4本塁打26盗塁103三振で、打率227だった。 比留木虎雄(ひるきとらお) 内野手 長崎県出身で長崎商業学校時代には1933(昭和8)年の選抜大会で甲子園を経験している。当時はセンターを守っていた。1936(昭和11)年11月にタイガースと契約。 1937(昭和12)年が1年目のシーズンだが、当初背番号は無く、小島が移籍した春季リーグ途中時に「21」を継承し、おもにサードで起用されている。この年は春季・秋季合わせて8試合に出たが14打数0安打1打点でヒットは出なかった。 1938(昭和13)年1月早々に応召すると約3年間軍隊生活をおくる。 1940(昭和15)年の秋に復帰して7試合13打数2安打2打点、翌1941(昭和16)年には背番号を「27」に変えたが17試合で29打数3安打0打点に終わって引退した。 プロ通算は実働3年32試合56打数5安打3打点1盗塁9三振、打率.089である。 木下 貞一(旧姓:松本) 投手・内野手・外野手 愛知県出身で東邦商業時代には春の選抜で3回、夏の選手権で1回の甲子園出場を経験しており、1939(昭和14)年の選抜大会ではエース兼3番打者として優勝。甲子園通算10勝1敗の成績を残すスター選手の一人だった。 内外野どこでも守れる万能選手だが、投手としては、ハエがとまるような超スローボールを織り交ぜながら打者を翻弄する巧みなピッチングで人気を集めたという。 1941(昭和16)年にタイガース入団。背番号は比留木から「21」を受け継いだ。この年、16試合に登板して2完封を含む4勝4敗、73回2/3を投げて自責点13、防御率は1.58という数字を残すとともに、外野手としても11試合に出ている。 ところがこの年木下家の養子となると、木下家の希望にしたがってシーズン途中で現役引退している。 戦後は社会人野球の愛知産業に所属して主軸として活躍し、1953(昭和28)年には名古屋ドラゴンズでプロ野球に復帰する。ドラゴンズでは非常に成功率の高い代打専門の選手として「日本一のピンチヒッター」と呼ばれ2年間過ごしたのち引退している。その後は妻の実家の瀬戸市で陶磁器製造業を営んでいたが2007年12月に88歳で逝去。 大橋 棣(やすし) 投手・内野手 大阪府出身、旧浪速中学から関西大学へ進み遊撃手として活躍。卒業後は門司鉄道管理局に所属し、1942(昭和17)年10月にタイガースへ入団している。背番号は引退した木下の「21」を引き継ぎ2試合に出場した。 1943(昭和18)年は5試合に出場、そのうち投手として1試合に投げたが、同年オフに退団してしまう。 その後はアマチュアの指導者となり、1954(昭和29)年には監督として米子東高校を夏の甲子園に導いている。 プロ通算成績は、打撃が7試合8打数0安打0打点、投手として1試合防御率4.50だった。 塚本 博睦(ひろよし) 外野手 広島県呉市出身、旧制呉港中学私大の1934(昭和9)年には藤村富美男などと共に春選抜に出場し全国制覇している。 卒業後は立教大学に進んだが、先にタイガースに入団していた藤村の誘いを受けて中退し、1936(昭和11)年12月17日、タイガースと契約した。最初の背番号は「22」で、この番号を着けた最初の選手である。 1937(昭和12)年に6試合、1938(昭和13)年に15試合とレギュラーに慣れないうちに同年末に応召され1941(昭和16)年まで3年間の兵役を務めることになる。 1942(昭和17)年に復帰すると94試合に出場、主に1番センターとして20盗塁を決めるなどレギュラー選手となった。 1943(昭和18)年も81試合に出たが打率は1割台で、どちらかと言えば「守備の人」のイメージだったが、1944(昭和19)年は打率が2割5分台になって向上したが、戦争の激化で31試合しか出場機会がなかった。 戦後にプロ野球が再開されると、1946(昭和21)年にタイガースに復帰し背番号を「21」に変える。 1947(昭和22)年には106試合347打数104安打34打点17盗塁で打率も3割を記録して優勝に貢献したが、金銭面などの待遇で球団に不満があり、オフに自由契約を希望して阪急ブレーブスに移籍してしまう。 1948(昭和23)年、阪急では135試合に出場し536打数139安打48打点4本塁打、39盗塁を決める大活躍を見せたが1年で退団。 通算成績は885試合2824打数712安打219打点17本塁打170盗塁229三振、打率.252である。2009年8月20日、90歳で逝去。 まとめ やっぱり戦争の影が色濃く影響してるなあ 小島さんは野球やってる期間より戦争に行ってる期間のほうが長いくらいだし比留木さんに至っては3回も応召してる やってらんないよね 4人の写真が残ってるっていうのは奇跡に近いわ これまでの背番号史を振り返っても 戦前の選手たちはホントについてないわ 戦争によって人生を台無しにされた人が多いのよ でもこういう人たちがつないでくれたから今のプロ野球があるわけね 背番号21の2へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024年03月18日 18時51分28秒
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