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カテゴリ:タイガース背番号史
3回目に出てくるうち最初の2人は他球団からの移籍で とくに山内さんは世紀のトレードで入ってきた超大物よ 西村公一さんはドラフト1位入団だったけど ものにならず辞めてプロゴルファーに転向したって
福塚勝哉 捕手 福塚は昭和32(1957)年、県立和歌山商業から毎日オリオンズに入団した捕手。はっきり言ってプロ野球のレベルの選手だったかどうか「?」の選手だろう。 オリオンズには5年間在籍しているが、通算で87試合に出ただけである。そのうちの57試合が5年目で77打数15安打3打点打率.195という成績だ。5年間でホームランは1本も打てなかった。 昭和37(1962)年、2対2の交換トレードで飯尾為男とともにタイガースに移籍し、「背番号8」を遠井から譲られる。 この年のタイガースはリーグ優勝しているが、福塚の出番は少なく28試合12打数2安打1打点の成績だった。わずか2安打だが、そのうちの1本がプロ入り初本塁打、タイガース3年間で打った唯一のホームランだ。また、日本シリーズには7戦中5戦に出場し、第7戦ではスタメンマスク。シリーズでは2安打も記録している。 2年目の昭和38(1963)年にはプロ生活最多の85試合に出場したものの打率は1割台だった。 3年目には世紀のトレードで入団した山内一弘に背番号8を譲り、「28」に替えている。2年目ほどの出番はなく41試合の出場にとどまり、このオフに阪急ブレーブスの西本幸雄監督に請われ移籍していった。 阪急では2年間プレーし、昭和41(1966)年を最後に現役引退した。
山内一弘 外野手 山内は愛知県立起工業高校出身。2年時だった昭和24(1949)年に中日ドラゴンズの入団テストを受けている。この時は1次選考を通過したものの2次選考で落選、3年次にも再度受験しようとしたが「前年不合格」を理由に受けられなかったため、高校卒業後は川島紡績へ入社する。中日は大きな魚を逃した。 川島紡績では4番打者として都市対抗本戦にも出場した。昭和26(1951)年11月に毎日オリオンズの入団テストを受けて合格しプロ野球入りしている。 1年目は44試合で1本塁打に終わっているが、2年目は72試合にでて7本塁打と成長。3年目の昭和29(1954)年には全140試合に出場し、504打数155安打97打点28本塁打、打率.308の好成績でレギュラーとなり打点王にも輝いた。翌年は打率2位本塁打も2位で99打点、あわや三冠王の成績で2年連続打点王になっている。 昭和38(1963)年オフ、山内は10年選手制度の移籍特権で読売への入団をもくろんでいたが条件面で折り合いがつかず頓挫。そこへタイガースから小山放出のトレードが持ち込まれ、電撃的に4番打者とエースの交換という「世紀のトレード」が成立した。背番号はオリオンズ時代に着けていた「8」を福塚から譲られる。 翌昭和40年7月4日には巨人戦で史上初の300号本塁打を達成、また10月14日のサンケイ戦では2000本安打も達成。これは川上哲治に次ぐ史上2人目、昭和生まれでは初の達成者となった。 昭和41(1966)年から昭和42(1967)年も、それぞれ18本塁打を記録するなど主力として働いたが、35歳になっており、チームの若返り方針から戦力外とみなされる。 進退が注目されたが、広島の新監督に就任した根本陸男の誘いがあって、無償トレードの形で昭和43(1968)年に広島に移籍する。 広島1年目には全134試合にでて467打数146安打69打点21本塁打で打率.313と気を吐く。真剣に野球に取り組む山内を見て、山本浩二や衣笠祥雄、水谷実男などが育っていったのはこのころであり、山本の背番号8は山内から引き継いだものだ。しかし昭和45(1970)年に体調が思わしくなくなり引退に追い込まれた。 通算2271安打、396本塁打、1286打点の数字は強打者ぶりを表す素晴らしい数字だが、山内はオールスターでもすごかった。通算16回出場しており38試合で105打数33安打で打率.314と好成績を残し、MVPも3度輝いている。長嶋同様お祭りに強かった。 引退後は巨人、阪神、ロッテ、中日、オリックスなどでコーチや監督を務めているが、タイガースでの実績を見てみる。 昭和50(1975)年から3年間の第一次吉田監督時代に打撃コーチに就任し掛布や田淵を指導しているが、特筆すべきはキャンプからオープン戦で使い物にならないと酷評されたラインバックをマンツーマンで指導し続け、見事シーズンで3割を打つバッターに仕立てたことだろう。変化球を迎えに行って泳がされ凡打を繰り返していたラインバックがシーズンに入ると体重を残して左右に打ち分ける好打者に変身していた。 平成7(1995)年に再びタイガースのコーチに就任したとき、新庄剛志は山内理論が全く分からず打撃をおかしくしているし、八木や石嶺もついていけなかったようで、チーム全体の打撃不振の責任を取って1年で退団している。現役の19年間を「背番号8」で通した。
西村公一 内野手・外野手 「背番号8」は山内が広島に移籍した翌年は空き番になっている。昭和44(1969)年から「8」を継いだのは西村公一だった。 西村は183センチの大型内野手で、山梨県甲府工業時代に4番打者として昭和41(1966)年夏の選手権に出場してその強打が認められ、同年秋の第2次ドラフトで1位指名されてタイガースに入団している。 1年目の昭和42(1967)年、最初の背番号は「22」だったが、これは2年間着けて昭和44年(1969)年に入団した田淵幸一に譲り、「8」に替わっている。「8」も2年間で、昭和46(1971)年から3年間は「43」を着けた。 ドラフト1位で大きな期待をされた西村は1年目に10試合に出場している。しかし、2年目以降も16試合、23試合、12試合と足踏みが続く。背番号を「43」に替えた5年目の52試合101打数17安打4打点1本塁打というのがキャリアハイで、6年目はわずか5試合。7年目は一軍登録されることなく終わりオフに引退している。 その後はプロゴルファーに転身したという。
まとめ 福塚さんと西村さんは初耳の選手ね 活躍しないと記憶にも記事にも残らないのがプロ野球なのね そういう選手のほうが多いのかもしれないけど・・・福塚さんも西村さんも現役時代の写真は見つからなかったなあ 山内さんはタイガースというより日本の野球の歴史の中でもレジェンド的な存在ね ただし独自の感性でやってた面があるので指導者としては万人向けとは言い切れないのよね オリックスのコーチのときイチローさんの打撃を酷評して振り子打法をやめさせようとしたんだって イチローさんは無視して自分のフォームを変えず成功できたからよかったけど潰されてたかもしれないの 自分に合った指導者に出会えるかどうかも運ね 8の4に続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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