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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号15(その2) 背番号15の第2回目です 日本シリーズも終わったのでボチボチ再開するね 御園生崇男さんが退団したあと1959(昭和34)年~1960(昭和35)年は空き番となります その後、3人目に「15」を着けた人が西山和良さんなんだけど 皆さん聞いたことある? タイガースに8年いた選手だよ 西山和良 外野手 西山は和歌山県伊都郡かつらぎ町の出身で、県立和歌山商では3年次に外野手として夏の選手権ベスト4。その後関西大学に進み、通算71試合で238打数66安打、打率.277、5本塁打を記録している。 大学卒業後の1956(昭和31)年にタイガースへ入団。最初の背番号は「27」で、「15」は1961(昭和36)年から3年間着けている。 走・攻・守とも飛びぬけたものがない。アベレージヒッターでもパワーヒッターでもないし、盗塁はルーキーの年の年間7個が最多で、ホームランは3年目の7本が最多。プロ11年間の通算でも20盗塁、22本塁打にとどまる。 1年目から公式戦に出ているが、出場試合数と打席数から見ると、スタメンと代打が半々くらいと想像できる。スタメンの場合は6番に入ることが多かったようだが、1960(昭和35)年にマイク・ソロムコが入団すると外野の一角に定着したため、スタメンの機会はほとんどなくなったようだ。 実際にこの年から出場試合数と打席数の差がグッと小さくなる。1962(昭和37)年になると51試合で57打席、1963(昭和38)年も79試合で86打席となっており、ほぼ代打専門になってしまっている。 この1963年のオフ、小山正明と山内一弘のトレードの陰で、金銭トレードによって東京オリオンズに移籍している。 オリオンズでは3年間プレーしたが、やはり代打での起用がほとんどだった。1966(昭和41)年のシーズンを最後に現役引退。 プロ11年間の通算記録は、771試合1170打数277安打121打点、22本塁打20盗塁で、打率は.237だった。 引退後は1970(昭和45)年にタイガースへ戻り、一軍・二軍打撃コーチや二軍監督などを務めたのちにフロント入りし、最後は編成部長で退職している。 レノ・ベルトイア 内野手 西山のあと、1964(昭和39)年の1年間だけ背番号「15」を着けたのがレノ・ベルトイア。 1962(昭和37)年にサードの三宅秀治がキャッチボール中の事故で左目を負傷して以降、タイガースはサードのレギュラーポジションに穴が開き、毎年のように誰かをあてがってみるが誰も固定できず、掛布雅之が定着するまでの間、10年以上も苦しむことになる。 開幕当初20試合に使ってみたが、62打数10安打2打点1本塁打、打率は.244というお粗末な内容だったため早々に見切りをつけ、4月中で解雇という結果になった。 権藤正利 投手 佐賀県鳥栖市出身。幼少期の怪我で左手の人指しゆび先端の一部を欠損したことが後に「懸河のドロップ」と異名をとった落差の大きなキレのあるカーブを生んだと言われている。 左投げで177センチ60キロの極端な細身。元オリックス〜阪神の星野伸之やソフトバンクの和田毅に似た感じの投手だ。 柳川商業高校から1953(昭和28)年に大洋松竹ロビンスに入団した権藤は1年目から活躍する。35試合に登板しており、そのうち26試合は先発だった。 高卒1年目にして222回2/3を投げ、15勝12敗、防御率2.77、170奪三振という素晴らしい成績を挙げて最優秀新人に選出されている。 この3年間は毎年100個以上のフォアボール(105個、143個、103個)を与えているし、3年連続の暴投王になっている(6個、9個、9個)。 プロ入り最初のころは制球に難があり、前述の落差の大きな「ドロップ」を持て余していた時期だろう。ただしこの「ドロップ」は有効であり、3年間で奪った三振は170個、222個、161個なので、やはり星野や和田に近いものを感じる投手だ。 しかし4年目の1956(昭和31)年はさらに落ち込み、20試合を投げるも0勝で、13連敗を喫してしまった。 5年目の1957(昭和32)年に12勝を挙げて復活するが、続く2年間が3勝、0勝。1960(昭和35)年に12勝するも翌年が5勝と、非常に波のある計算しにくい投手だ。ただし、12勝した年は184個、140個の三振を取っているから捨てがたい。1961(昭和36)年からはリリーフ中心に転向していく。 権藤は、大洋松竹ロビンス→洋松ロビンス→大洋ホエールズと名称が変わる中で11年間在籍し、この間の成績は70勝115敗だった。 1964(昭和39)年、大洋は権藤の放出を決定したがトレード交渉が上手くいかなかった末に、自由契約選手としている。権藤は自ら東映の水原監督に相談を持ち掛け東映フライヤーズに移籍することになったが、東映では25試合で1勝1敗に終わり、オフにタイガースへ移籍する。背番号は「15」で在籍9年間を通して着けている。 1967(昭和42)年には、40試合9勝6敗で防御率1.40という好成績を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得している。 また、1969(昭和44)年には10勝4敗で、タイガース在籍中唯一の二けた勝利も記録した。 タイガースでの9年間の通算は、283試合46勝38敗、842回2/3で自責点226、防御率は2.41である。大洋時代と違って勝ち越しているし、防御率も素晴らしい。 ただし、タイガースでは金田正泰監督と折り合いが悪く、監督の暴言や悪口に耐えかねて、1973年11月23日のファン感謝デー、監督室で金田監督を殴打して引退を宣言し、21年間の現役生活に別れを告げた。 権藤は通算の数字が、2513回を投げて防御率が2.78、奪三振も1943個で、これは一流投手の数字である。21年間の現役生活を通じて一軍で投げなかったシーズンは無い。 117勝154敗と大きく負け越しているのは大洋時代に援護が少なかったからだ。記述した通り1956年に13連敗しているが、実は前シーズンの終盤の8連敗から始まっており、翌1957(昭和32)年も開幕から7連敗を喫して、足掛け3年で28連敗を記録している。これは同年7月7日に巨人を完封することで止まり、マウンドでナインから胴上げされている。
西山さんの現役時代の写真は見つからなかったなあ やっぱりバイプレーヤーってことよね でも代打ではかなり起用されてるみたい そういう選手はどの時代でもチームに絶対必要なのよ 2番目のベルトイア選手はもうコメントしたくないような成績です タイガースの場合こういう外国人選手って多いわ いずれ先代がまとめた(仮称)外国人選手史を公開していく中で詳しく紹介しますよ! 権藤さんは「好投手」と言うのがぴったりね もし当時巨人に所属してたら優に200勝超えてたんじゃないかな? 権藤さんは人柄も好かったみたいで 阪神バッキー投手と巨人荒川コーチの乱闘事件の試合再開直後に王さんの頭にぶつけてるんだけど また乱闘になりそうになった時に巨人の川上監督が「権藤に限ってそんなことをする投手じゃない」と言って、ベンチを飛び出した選手たちを引き上げさせたほど みんなから人格を認められていたそうよ!
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