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タイガース非公式サイト2代目

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ヒロくん2010@ Re:タイガース背番号史 23-2(06/28) おはようございます😃 曇り空で比較的涼し…
アキくん@ Re:わけの分からないメールが届きます(2)(06/25) 役に立ってて良かった 間違ってたら間違い…
アキくん@ Re:わけの分からないメールが届きます(06/24) 間違えてますよと返信すれば思いっきり変…

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2024年06月23日
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背番号23(その1)

本日は2024年6月23日 甲子園で予定されていた横浜DeNA戦が雨天中止になったので背番号史を掲載します

 背番号23の第1回目です

「23」が永久欠番なのは多くのタイガースファンならご存じだよね 吉田義男さんが着けていた番号です

でも球団創設の1936(昭和11)は誰も付けてなくて 2年目の1937(昭和12)年に原一郎さんという方が着けたのが最初なの 戦前は3名の選手しかつけていないし 吉田義男さんを含めても7名しかいないんだよ

なので「23」はその3までになります

原 一郎 捕手

広島県出身。地元呉港中学時代はのちにタイガースに進む藤村冨美男とチームメイトで甲子園でも活躍している。

 1934(昭和9)年は春夏ともに出場して夏には全国制覇、1935(昭和10)年夏も出場しベスト8、1936(昭和11)年には正捕手となって春夏出場している。

 1937(昭和12)年、先に入団していた藤村のあとを追うようにタイガースに入団し、背番号「23」を着けたが、公式戦では1打席(凡退)しか記録に残っていない。同年の5月に大東京(ライオン)へ移籍しているからだ。

 これほど早く移籍してしまった理由は不明だが、「23」の最初の選手として名を残した。

 大東京では出番に恵まれ、1937年秋には20試合64打数15安打8打点1本塁打の数字が残る。

 1938(昭和13)年も春秋併せて25試合に出ているが、同年に軍に召集されてそのまま戦死したとされる。ほとんど資料は残っていないが、次の写真は大東京時代の原と言われている。

 通算成績は51試合148打数34安打13打点1本塁打2盗塁14四球16三振、打率.257。

富松信彦 外野手

兵庫県西宮市出身で実家は上甲子園にあった旅館。甲子園球場と国道43号線を挟んだ北側にあった甲陽中学の出身(旧ダイエーのあたり)。

1932(昭和7)年は投手として選抜大会で甲子園の土を踏む。学校から目の前で歩いてすぐというのはどういう感覚だろう。

大学は立命館に進みかなりの強打者だったという。1939(昭和14)年、タイガースへ入団し原の移籍後1年間空いていた背番号「23」を着けた。

1年目は85試合に出ており240打数48安打20打点2本塁打の数字を残しているが、2年目の1940(昭和15)年は19試合36打数5安打と振るわず、この年のオフには黒鷲に移籍している。

黒鷲移籍後は1941(昭和16)年79試合、1942(昭和17)年にも77試合と出場数・成績とも安定したが、1942年のシーズン途中で西鉄軍へ移籍する。

1943(昭和18)年は西鉄でプレーしたが62試合187打数27安打で打率.144と低迷した。その後は戦争激化のため職業野球が中止され、そのまま終戦を迎える。

戦後、職業野球が再開されると1946(昭和21)年の1年だけパシフィックに所属してプレーしたのち引退。

その後社会人野球のコロムビアに入団し都市対抗野球で活躍している。最後は川崎コロムビアの監督を務めた。

プロ通算では424試合1367打数251安打93打点7本塁打49盗塁、打率.186という数字を残している。

渡辺誠太郎 投手・内野手

 秋田県秋田市出身。土橋商業時代から投手兼一塁手として活躍し、1941(昭和16)年にタイガースへ入団し、富松の移籍で空いていた「23」を引き継いだ。

公式に残る記録では身長182センチ(実際はもっと高かったとも言われる)となっており、当時としてはずば抜けた長身だった。そのため球速自体は並みだったが「ドロップ」と呼ばれた縦のカーブの落差がすごかったという。

 戦前はあまり出番がなく、1941年が1試合、1942(昭和17)年が11試合1勝1敗、1943(昭和18)年が4試合0勝2敗で、その後軍に召集されて、そのまま終戦を迎えている。



 戦争が終わると1946(昭和21)年にタイガースに戻り、32試合10勝12敗、防御率3.64。また戦後の選手不足から、投げない日はファーストとして48試合に出場しており、投手として出場した分も合わせて80試合250打数72安打33打点2本塁打、打率.288という打撃成績を残しているようにバッティングセンスもかなり好かった。

 1947(昭和22)年は21試合で5勝4敗と成績を落とし、オフに太陽ロビンスに移籍する。

 ロビンスでは1950(昭和25)年まで3年間プレーしているが、2勝、6勝、5勝と大きな戦力とはなっていない。

 1951(昭和26)年には大洋ホエールズに移籍し1年間プレーする。しかし9試合で1勝0敗に終わり引退。下は大洋時代の集合写真。後列左から2人目が渡辺。

 投手としては通算149試合30勝34敗158奪三振、637回で防御率3.79。

 打者としては219試合449打数113安打47打点3本塁打、打率.252だった。

まとめ

3名の選手を紹介したんだけど やっぱり3人とも何かの形で戦争の影響を受けてしまってるね

最初の原さんは戦死だし 富松さんは2年のブランク 渡辺さんは戦地で終戦を迎えてるわ みなさんもっと成績を残せたかもしれないのに時期が悪かったというしかないよね

 世界中では今も紛争が絶えない 安全にスポーツを楽しめる時代は何時になったら来るんだろう 

23の2へ続く



 

 

 

 

 

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Last updated  2024年06月23日 17時43分14秒
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