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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号23(その2) 2024年6月28日のヤクルトvs阪神戦が雨天中止になったので背番号史を掲載しますね 最初の呉昌征さんは戦前から戦争を挟んで戦後も活躍した数少ない選手で巨人と阪神の両方でレギュラーになってます 現役生活20年に及ぶ息の長い選手です 2人目は中田金一さん すでに背番号「16」で紹介済みだけどもう一度全文を載せておきます。 3人目の丸岡武さんは情報がほとんどありませんね 2年間しか在籍してないし 呉 昌征(ご しょうせい) 外野手 当時日本領だった台湾台南市の出身。嘉義農林学校時代には春選抜に1回、夏の選手権に4回の甲子園出場がある。初出場当時「はだしのプレイヤー」として有名になったが、実は買えなかったわけではなく、出場記念に新調したスパイクのサイズが合わず靴擦れで困ってしまい、はだしでプレーしたのが真相のようだ。 1937(昭和12)年、当時の巨人監督だった藤本定義(のち阪神監督)が嘉義農林学校の監督と松山商のOBというつながりがあったため、読売へ入団することになった。 小柄だが非常に俊敏な選手で、1年目の春季からセンターのレギュラーになり、打率.289、18盗塁の成績を残す。三塁打はリーグ最多の8本。選球眼もよく四球を多く選んでいる。 1937年の秋季から打撃面で壁に当たり、1938(昭和13)年から1939(昭和14)年にかけて低迷期が続き出場試合が激減している。 1940(昭和15)年に91試合、1941(昭和16)年も89試合に出場してようやく一人前といえる成績を挙げ、レギュラーに定着する。 そして1942(昭和17)年に打率.286、1943(昭和18)年には打率.300を記録して2年連続の首位打者に輝くまでになった。この当時は非常に反発の悪い粗悪なボールが使われており、1942年に記録した2割台での首位打者獲得はNPB史上唯一のことである。 また、1942年は40盗塁・77四球、1943年は54盗塁・84四球を記録しており、出塁率が高い上に出れば走ってチャンスを広げるリードオフマンとして大活躍。相手にしてみたら非常に厄介な選手で守備も軽快そのもの。「人間機関車」の異名で恐れられた。 1943年のシーズンが終わると、台湾へ帰郷すると申し出て退職金1500円をもらって読売を退団。ところが帰郷途中に立ち寄った大阪で、なぜか神島化学工業に就職して国内にとどまる。さらに神島化学の宮原社長がタイガースの富樫社長に紹介してトントン拍子で話が進み、タイガース入りが決まったと伝えられている。事前に話ができていた疑いもあるが真相は定かではない・・・ タイガースでは1944(昭和19)年からプレーし、戦後の1946(昭和21)年から1948(昭和23)年の3年間はいずれも100試合以上出場するセンターのレギュラーとして活躍している。 また、特に1946年は戦後の投手不足を補うため、投手としても27試合に登板しそのうち20試合に先発、181回1/3を投げて14勝6敗、防御率3.03の好成績を挙げており、投打にわたって貢献度は高い。 ところが呉は1949(昭和24)年の2リーグ分裂を機に、パリーグに移籍した若林忠志と行動を共にして毎日オリオンズへ移籍してしまう。タイガースでは在籍5シーズンを通して背番号「23」でプレーしたことになる。 毎日に移ってからも8シーズンプレーするが、そのうち4シーズンは100試合以上出ており、ケガの少ない丈夫で長持ちの選手だったようだ。 1987(昭和62)年に67歳で亡くなっているが、その功績がたたえられて特別表彰で1995年に野球殿堂入りしている。 通算成績は実働20年1700試合4867打数1326安打389打点21本塁打381盗塁818四球、打率.272だった。 投手としては31試合15勝7敗66奪三振、自責点77防御率3.48の数字を残した。 中田金一 捕手・内野手・外野手(再掲) 中田は背番号「16」で紹介しているが 改めて全文を掲載する 163センチと当時としても小柄な選手。お笑い芸人のような面白さがあり、チーム内の人気者で「金ちゃん」と親しまれていた。主将や監督として時代を共にした松木謙治郎が「笑いすぎて横腹が痛くなるほどだよ」と著書に書いており、「彼は道を間違えた」とみんなから言われてからかわれたという。 次の写真の一番右の眼鏡の選手が中田金一。その左の小さい人物はグラウンドボーイなので間違えないように! 1年目となる1939(昭和14)年は11試合9打数1安打1打点に終わったが、2年目の1940(昭和15)年は64試合に出場しており、157打数35安打14打点1本塁打、打率.223の数字を残す。 1941(昭和16)年は24試合と出場が減り、翌1942(昭和17)年に応召されて満洲方面へ出征。戦後も1948(昭和23)年までシベリアに抑留されて辛酸をなめた。 帰国した1948年10月に背番号「16」でタイガースに復帰したが出場は1試合のみ。1949(昭和24)年が2試合、1950(昭和25)年は背番号を「23」に変えたが4試合の出場に終わり引退している。 出場106試合211打数43安打1本塁打15打点1盗塁32三振、打率.204が通算成績である。 引退後はセリーグの審判員になった。 丸岡 武 外野手 この選手の資料はほとんど見当たらない。NPBの在籍者名簿によると1950(昭和25)年から1952(昭和27)までの阪神に在籍となっている。 滋賀県彦根市出身で彦根高校卒業、左投左打ちの外野手。1950年2月にタイガースの入団テストを受けて合格し背番号「36」をもらうが、その年は1軍でのプレーはない。
1952年は24試合に出場、12打数2安打2盗塁3三振の数字が残っている。ここで現役を引退、その後社会人チームの日鉄二瀬に入ったという情報もあるが確認はできない。 写真やプロフィールが残っているのが奇跡的である。プロフィールでは「彦根商」となっている。 まとめ 3名の選手を紹介しました 呉さんは有名な人 タイガースでもダイナマイト打線の一員だったよね 戦前からやってる選手の中では20年もプレーしてる人って珍しいし 運もよかったんだろうね プレースタイルは現代的な感じ 今のベースボールでならもっと活躍したんじゃないかとおもうなあ 中田金ちゃんは2度目の登場 ムードメーカーって団体競技ではチームに必要なのよ 3人目の丸岡さんは奇跡的に写真が残ってる 実力はプロでやれるだけのものじゃなったようだし知名度もほとんどないんだけど タイガースの歴史に名を残し写真も残してるってすごいことかもよ さて背番号「23」は残すところ吉田義男さんだけになったね 次回は詳しくお伝えするからお楽しみに ![]() 23の2へ続く ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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