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カテゴリ:昭和~平成・評論家
『夏目漱石』十川信介(岩波新書) 漱石イヤーの2年目という事で、改めて漱石関係の本を読みました。 こういう風に、タイトルにまともに作家名を入れた評伝は、当たり障りのないことしか書いていない入門書のような気がしませんか。 そう思って私は、本書を買おうかどうか少し迷ったんですね。でも本の帯に、かつて1000円札に描かれた有名な漱石の写真が印刷されてあって、その隣にどうも漱石の書簡からの引用じゃないかと思うのですが、わりと大きな字で一文が書かれてありました。 この一文がなかなかいい文で、まー、言ってみれば本書の宣伝担当者の狙いに見事に私は引っかかったのですが、この一文に後押しされて本書を買いました。 それはこんな一文です。 「僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである」 いい文でしょ。ただ、私が読み落としたのか、この文が本文のどこにあったのか分からないんですけどー。 ま、そんなわけで買って読んだ本です。 しかし私が買おうかどうか迷った「危惧」はやはり少し当たっていまして、漱石入門書めいた部分がかなりありました。(いえ別に入門書の記述がいけないというのではないのですが、一応すでに知っている情報をそのままに読まされるのに少し、少し抵抗があっただけのことです。) でも逆にそんな少々の不満を抱えながら読んでいたからか、ところどころハッとするような指摘に出会えました。そんな中から一つを紹介したいと思います。 『坊ちゃん』についてなんですけれど。 『坊ちゃん』について、私は以前から二つの疑問を抱いていました。なぜ私がそんな疑問を持ったのか、素朴に『坊ちゃん』本文を読んだ感想だったようにも思いますし、漱石関係の評論のたぐいに書いてあったのか、よくわかりません。とにかくこの二つの疑問です。 1、少年時の坊ちゃんはあまりに両親に愛されなさすぎはしないか。 一方なぜ下女の「清」はあれほど無条件に坊ちゃんを愛するのか。 2、坊ちゃんと清が同じ墓に入るというのは、なにか少し変ではないのか。 この二つについて、私でもそれなりに答えることはできそうなのですが(ちょっとだけ書いてみますね。この人間関係・家族関係は漱石のあこがれだった、とか。)、本書の仮説によると一気に解決できます。こんな仮説です。 強引すぎる推測を承知で言えば、「俺」は草双紙に出てくるような、父と清の間に生まれた子供だったという感じさえ生じてくる。「婆さん」と言っても、当時の感覚では四十女は婆さんである。(中略) ……うーん、どうでしょう。本文ではこの前後に、もう少し続けてこの仮説の証明がされています。 例えば、「清」は主人(坊ちゃんの父親)の意に反してまで坊ちゃんをかばうが、この時代下女はあり余っていて、なぜ清は本当に失職の恐れをも厭わず坊ちゃんをかばったのかとか、父親の死後、坊ちゃんの兄が、坊ちゃんへの手切れ金と一緒に清にも六百円を渡しているが、この額は下女の退職金としては高額すぎると書いてあります。(もちろん兄は、清の真実を知っていたんですね。) また、『三四郎』について書かれた箇所にも、「広田先生」の見た夢の話に絡んで「両親の子供ではない幻想」とでも言うべきものが(これは広く少年少女が取りつかれる幻想ですが、漱石の場合はさらに「心の傷」として実際にそんな状況下にあったことは有名な話)、仮説の逆照射として書かれてあります。 ……という風に、なかなか興味深い指摘が所々にあります。 「あとがき」を読みますと、筆者が本書の狙いについて書いています。必ずしもその通りに描かれているとは感じなかったのですが、とにかくこのように書いてあります。 本書が主としてめざしたことの一つは、彼が友人、弟子との対他意識ばかりでなく、妻子、特に妻の鏡子と対等に接しようとする変遷であり、その分岐点はやはり修善寺の大患にある。(中略)『彼岸過迄』以下、その淋しさは徐々に肥大化し、表面にせり上がってくるが、それが男性だけでなく、結婚した妻たちにも現れるのが、晩年の作の特徴である。 私はこの文章を全くその通りだと思うのですが、ただ現代に振り返ってみると、晩年の漱石の気づきは、現代人が当たり前のように持つ夫婦観とか孤独観の入り口に、やっと辿りついたに過ぎないのではないか、と。 ではそんなやっと入り口に立っただけの漱石の人生観を、なぜ我々は繰り返し繰り返し読むのでしょうか。 それは結局のところ漱石生誕一五〇年の間、この巨大な問いに対して人間はほとんど答えを手に入れることができず、戸惑ったままであったからではないでしょうか。 現代人の憂鬱は一向に解決せず、それ故にその黎明期に苦闘した漱石の足跡は、そのまま現代の我々が苦悩を考える手立てとして、大いに有効なのでしょう。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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