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2024年02月25日
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テーマ:ニュース(99333)
カテゴリ:ニュース
軍の上層部がどのようにして「特攻作戦」を始めたのか、「志願」の実態はどのようであったか、昨日の欄に引用した山元研二氏のインタビュー記事は、次のように報告している;


■一人ひとりの命を語る

――特攻の授業はどのようにすすめられるのでしょうか。たとえば「志願だった」「みんな喜んでいった」という言説などもくり返されていますが、これに対して、「特攻」について、どのように説明されたりするのでしょうか。

 【元特攻兵士からの聞き取り】

 「英霊」という大きな物語に対抗するためにはどうすればいいのか。大きな物語を崩すためには、一人ひとりの命を語っていくしかないと考えました。本当にみんな喜んで死んでいったのだろうかと、まず『きけわだつみのこえ』に向き合うことになりました。そこでは上原良司など特攻の兵士たちの本音が出てきます。

 平和会館にある遺書は検閲を通したものです。なかには本音の人もいるかもしれませんが、すべて本音とは言えない。知覧には、「なでしこ隊」という女子学生たちの組織がありました。期間は短くほんの数力月ですが、特攻兵士の身の回りの世話をした知覧高女の女子学生だった前田要子さんに話を聞いたのですが、知覧の検閲された遺書には本音はないとズバリ言います。「あれは先生、書かされていますから。あれを本音だと思っちやダメです」と。

 そこで、人に当たるしかないと思ったわけです。『きけわだつみのこえ』を読み、城山三郎さんの『指揮官たちの特攻』なども読み、そして浜園重義さんという実際に特攻に行った人の話を聞くなかで、特攻の実相が少しずつ見えてきたのです。

 志願か強制かという問題も、浜圉さんは、「あの時代は志願しないなんて考えられなかった」「強制と一緒でしょう」と言っていました。○、△、×という印を用いてという言い方をするときもあるし、○、○、△というときもあり、どちらかわからないのですが、そういう形で志願をつのる。多くは志願せざるを得なかったが、断った人もいたのも事実です。しかし、その人も特攻に行かされた。説得されたのか、見せしめで行かされたのか、真実はわかりません。

 浜園さん自身は、特攻を「ばかげた作戦だと思った」と言いました。そしていくつかのエピソードを語ってくれたのですが、そのなかには、出撃前に大西中将(瀧治郎、特攻の生みの親とされる)に向かって、腕利きのパイロットが「私は搭載した爆弾で、敵の輸送艦を2隻ぐらい沈める自信があります。それだけ沈めたら帰ってきていいですか」と言ったことに、大西中将が「死んでくれ」と言ったという話がありました。特攻が何を目的におこなわれたのかがよくわかる話だと思います。

 そして作戦を考えた人たちに対しては強い怒りがあった。浜園さんが上官に対して「特攻に行くとき、大西を20ミリと13ミリで銃撃し、命中しなかったら、250キロ爆弾を投下して行く」と言ったことに、上官は「お前の言うことは当たり前であるが、この世界ではそれが通らないことが多いんだ」と言ったそうです。上官にそんなことを言えば、まず殴られると私たちは考えます。しかし、軍の人たちのなかには、不信感、怒りはたくさんあったのです。ところが、なぜそういう作戦になったのかは、知覧の特攻平和会館の展示では何も見えてこないのです。

 浜園さんは出撃した後、引き返してきたわけですが、「英霊」の物語からすると、引き返してはいけないわけです。陸軍の場合は引き返してくると福岡につくられた振武寮に閉じ込められて、ひどい待遇を受けたとされています。海軍はそういうことはなかったようです。しかし、不時着したり引き返してきたりした人は当然いました。知覧特攻平和会館の学芸員の調査でもかなりの数です。半分とは言いませんが、少なくとも一割などという少ない数ではないはずです。

 そういうところは平和会館の中では隠されています。教員たちが語る特攻の話にも、そういう話は出てこないのです。浜園さんは軍人として「これでは役に立たない」と思って帰ってきたわけですが、そういう1人の兵士の姿から、特攻作戦のおかしさが見えてきたという気がしました。


 【特攻の指導者たちの戦後】

 浜園さんは、天皇に対しても批判的で、何より上官に対しては許せないと批判しています。私は、指導者がどういう戦後を送ったかを知りたいと思い、陸軍で2人、海軍2人の指導者を調べました。

 特攻の生みの親と言われている海軍の大西瀧治郎は、敗戦の玉音放送の翌日、遺書に「死を以て特攻の英霊に謝す」と書いて自決しました。しかし、彼が自決したことによって、彼に全責任を負わせ、ほかの指導者たちの責任が曖昧になっていったと思います。彼が生き残って多くの証言を残した方が、かえってよかったように思えてなりません。

 陸軍中将で、フィリピンにおける特攻作戦を指揮した富永恭次はフィリピンにおけるマニラ戦の現場から、司令官であったにもかかわらず部下を戦場に置きざりにしたまま台湾に逃げています。戦後は、シベリアへ送られています。帰国後は多くを語らずすごしています。その息子は、戦争が終わる直前に特攻で亡くなっているのです。

 海軍中将の宇垣纏(まとめ)は、部下を道連れにし、敗戦後の「私兵特攻」をおこなって死にました。しかも、玉音放送後に「未だ停戦命令に接せず」として、中津留達雄大尉などを引き連れて特攻したわけです。浜園さんは「行くのだったら一人で行くべき」と怒っていましたが、その事件は軍隊のなかでもすぐ広まっていて、浜圉さんたちの耳にも入っていたのです。戦争は終わったが、突っ込んでいこうという雰囲気は軍のなかではあったようですが、浜園さんたちは、そんなバカなことはやめようと言い合っていた。にもかかわらず指導者がそれを実行した。

 陸軍中将の菅原道大(みちおお)は陸軍の特攻作戦を指揮した人物です。この人が戦後の「英霊」化の道をつくったのです。彼も、敗戦後、特攻で死ぬと言っていて、出撃用の航空機まで用意していたのですが、その後、私の仕事は別にあると態度をあらため、「特攻を知る私こそが、特攻精神の継承、顕彰をおこなうべき」と、「英霊」化をすすめる活動をしています。特攻隊の遺品を巣めて、知覧の特攻平和会館の礎をつくったのは彼なのです。最初は「遺品館」といって、展示しだのは写真と遺書だけでした。隣は護国神社ですから、そうやって国の「英霊」としての形をつくった。彼は遺族に対して「どうしてご主人は特攻なんかに志願したのでしょうか」と言って、顰蹙(ひんしゅく)を買ったという話も残っています。

 この指導者たちの責任も、許せないと私は思います。これを授業で扱うかどうかは別として、教師は事実としては頭に入れておかないといけない。

 いずれにしても、「英霊」神話でつくられた大きな物語に対しては、こういう一人ひとりの兵士の事実を積み重ねていき、語るしかありません。現実というのはそこにある。「喜んで死んでいった」という言説に対しては、姿を具体的に語っていくしかないし、「志願だった」というのも、追い込まれた状況だったことを想像する必要があります。そして、それは中学生であれば受けとめることのできることだと思います。
(つづく)


月刊「前衛」 2023年11月号 177ページ 「シリーズ 戦争と平和の岐路に問う-『新しい戦前』に『特攻』の経験から学ぶこと」から一部を引用

 この記事で山元氏が主張するように、私たちは戦争の当事者が敗戦した後も尚、自分たちの行動を美化した「英霊神話」を安易に受け入れて、それが真実であるかのように思い込むのではいけないと思います。あの戦争は祖国を守るための戦争だったのではなく、明治政府発足以来の海外膨張政策の挙句の近隣諸国侵略であったことを先ずは反省し、300万同胞の命を失ったのみならず、2000万のアジアの人々の命を奪ったという事実を自覚し、二度と戦争はしないと憲法に誓ったことを、私たちは新たな歴史の出発点とするべきであり、戦争当事者の不十分な反省の元に建設された「平和館」は、遠くない将来に平和憲法の思想に則った展示内容に改編し、間違っても母親が幼子に「あなたも、こういう人になりなさい」などと恐ろしいことを吹き込むようなことのないようにしたいものでございます。





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最終更新日  2024年02月25日 07時59分01秒
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