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2024年02月26日
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テーマ:ニュース(99587)
カテゴリ:ニュース
一昨日、昨日と連日引用した山元研二氏のインタビュー記事の続きは、中学校教員として生徒とともにフィールドワークの実践を重ね、かつて家族の一人が軍隊に招集されたときの様子を劇として上演することを通して生徒が戦争の実態を理解する様子を、次のように述べている;


■どのように学びあったのか

――実践をとおして、若者と戦争や「特攻」について学びあうとき、どんな工夫をされてきたのでしょうか。どんなことを大切にして実践されてきたでしょうか。

 【劇-生徒に気持ちを体感させる】

 私は授業で教えることとともに、劇にこだわっています。まず聞き取りをする。聞き取りをしてそれをシナリオに書く。劇なので、もちろん少しは創作を入れますが、8割方は事実です。それを子どもたちに演じさせると、当時の状況で子どもたちがわからない部分がでてきます。ある生徒は、今から死ににいくのにまわりの人たちが「万歳、万歳」と言う意味がわからないと言いました。そこで、生徒を集めてそのことについて教えたり、議論したりするわけです。

 授業だけではたぶんそういう質問は出てこないと思います。自分がせりふを担当してしゃべると、その時代の雰囲気というものや、意味がわからないことが意識化されるわけです。それを、私は大事だと思うのです。体感する、その気持ちになる。母親の気持ちになって考えているとき、兄が特攻に行くとなったときの弟の気持ちになったときに、まわりはみんな「万歳、万歳」と言う。「おめでとう」と言われる。それはどういうことなのかと。

 劇は、保護者も見に来ますが、地域の人も見に来るのです。甑島(こしきしま)がそうでしたが、地域の人たちが何十人も見に来て、「こういうことがありました」と思い出して泣くのです。タブーになってきたことがたくさんあるのです。なかなかそれは語れないでいたが、でも80歳を過ぎるぐらいになると、「もういいか。もうしゃべっていいか」と、しゃべってくれる人もいる。だから劇というのは一つの授業だと思うのです。

 地域の人たちにも見てもらう。おじいちゃん、おばあちゃんたちにも見てもらって、そこからまた新しい事実が入ってきたりするのです。「先生、実はこういうこともあってね」というのも入ってくる。そういったやりとりを赴任した先々で一応やったつもりです。最初は知覧のもので、万世(南さつま市)のものもつくり、甑島のものもつくり、薩摩川内市の船間島のものもつくったし、やろうと思えばいろいろな場所でできると思います。

 【フィールドワーク-現場を見る】

 もう一つ重視をしたのがフィールドワークです。今も、社会科の教員養成の現場でも大事にしたいと思っていますが、教室のなかで語るのも大事ですが、教室を飛び出し、歴史の現場を見ることはとても重要な「学び」です。強制連行・強制労働の話をするのにも、今私が赴任している大学の近くにもその現場となった炭鉱があり、また慰霊碑もあるから見に行く。見に行って初めて感じることはたくさんあると思います。

 南さつま市の中学に赴任していたとき、私は郷土研究会をつくりました。「郷土」と名がつけばたいがい管理職はオッケーしてくれます。自分としては、地域のフィールドワークなのですが、「地域」というといい顔はされません。「郷土」というと、彼らは喜ぶのです。

 そこでフィールドワークです。そこで見たり経験したりしたことを文化祭で発表する。あるいは新聞につくって郵便局や役場に配って回る。そのなかに特攻の話もたくさん入れたのですが、そのほかにも子どもだちとともにオンボロなトーチカを見に行ったりしました。すると生徒たちは、「先生、僕はこのなかに入りたくない」と言います。コンクリートなんてほぼなくて、ほとんど石ころで、鉄筋にあたるところには竹が入っている。これでアメリカの機械化された武器と戦おうとしていたことがどれだけ無茶なことかはだれだってわかります。

 特攻については、子どもたちはたいてい飛行機の特攻しか知りません。特攻には、ほかに「回天」「震洋」「海龍」「伏龍」など、さまざまなものがありました。鹿児島などでは「震洋」の基地は相当な数できていました。ものすごくたくさんの基地があるのに知らない。知覧が全部引き受けた形になっているのです。靖国神社がすべてそこを象徴しているような形で「英霊」神話になってしまっている。

 震洋は、ベニア板でつくったモーターボートです。それに250キロ爆弾を乗せて、集団で海の上を敵艦に向かっていく。当然、相手から丸見えです。それで突っ込んでいく作戦ですから死ににいくようなものです。軍も命中率は最初から10分の1と想定していて、10分の9は失敗して死ぬことを前提にしている。実際はもっと低く、ほとんど成功することのない作戦で、無責任の極みだったのです。

 生徒たちと、出水にも行ったし、鹿屋にも行ったし、足元には震洋の基地がたくさんある。「なぜここが震洋の基地になったと思う」と聞けば、「陰になっていて、敵から攻撃されにくい」「隠しやすい」とかわかるのです。「ここらあたりにたくさんあるのは、どうして」と聞くと、上陸地に近いことにも目が行く。オリンピック作戦とよばれた米軍の日本本土上陸作戦で、吹上浜に上陸しようとしていたこともわかってきます。

 また、震洋の基地のあるところでは沖縄の「集団自決」(強制集団死)のように、「住民はOOに集まれ」という命令がどこにもあった話が聞けます。実は、私の母も種子島で指示を受けていたそうです。種子島の西之表のある地域、今空港があるあたりだと思いますが、最後はそこに集まれと言われたのです。みんな口々に「あそこで死ぬんだと思った」と言います。沖縄でもそうですが「集団自決」という命令書などあるはずがないのです。あっても絶対に残さない。でも、戦争のじゃまになるから、女、子どもを中心に老人もみなそこに集める。それは死ねということだとみんな思っていた。だから母も、「軍隊は島を守る気ない」と、そのときから思っていたそうです。最終的に天皇が住んでいる宮城を守るために、いかに時間稼ぎをするかだと感じていた。まだ母は元気ですが、今の南西諸島の基地の話になると、「ここでいかに時間を稼いで、本土の守りを固めるか、それだけの話よ」と冷めた感じで言います。

 【継承すべきことはたくさんある】

 教師として鹿児島のあちこちを異動して回りましたが、必ず特攻基地がありました。しかしどこでも、その事実はほとんど語られないのです。一つは兵士たちが引き揚げていっているので、しゃべる人がいないということがあります。しかし、見ていた人たちはいるし、そういう人に聞き取りに行けば、必ずしゃべってくれます。「うちの学校、その司令部でしたから」といった話がたくさんあり、これは掘り起こさなければという話もあります。しかし、放っておいたら消えていくだけです。

 よく「特攻を語りにくい」「教えにくい」という言い方がされますが、語りにくい、教えにくいの前に、まず材料を自分たちがきちんとつくっていないのです。知覧に行って、そこで材料を探してくるから「英霊」の授業になってしまうわけですが、足元にはいくらでも材料はあり、足を運べばいくらでもしゃべってくれる。これはたぶん鹿児島だけではなく、あちこちでそうだと思います。心ある教師がいるところでは、その事実は掘り起こされるでしょうけれど、いなければなくなります。

 よく「継承」ということが問題になります。兵士たちは亡くなって、直接話を聞けることはできなくなるかもしれませんが、埋もれている事実は後から後からどんどん出てきます。私たちは、それを明らかにしないといけない。関東大震災の朝鮮人虐殺の話でも、私も10年前には千葉県野田市の福田村事件などは知りませんでした。ああいう事件が100年たって映画になり、みんなに知れわたる。そういうことは、戦争に関することではたくさんあるのではないでしょうか。

 私の恩師である岩井忠熊立命館大学名誉教授も、私たちの学生のころは特攻についての話をすることはほとんどありませんでした。晩年になって語り始めたわけです。浜園さんも、私の妻がまず聞きに行って、いろいろ語り始めて、それが教材になったり、本になったりし始めている。そういう作業は今からでもできるし、特攻兵士たちが亡くなってからも、やらないといけないと思います。

 当人たちから聞くだけでなく、埋もれている事実を掘り起こしていく作業を続ければ、眠っていたものがどんどん出てくる。特攻もそういう要素がたくさんあると思います。実際、この本を出してから、いろいろな史料が私のところに送られてきます。同僚の地理学の教員が、「実はうちの父は鹿屋で整備兵をやっていたのに、特攻のことはほとんどしゃべらなかった」と言いながら、その父の戦友会の冊子を私にくださった。たぶん私に何か役に立つことがあればと託したのだと思います。こういう作業が大事だと思います。
(つづく)


月刊「前衛」 2023年11月号 177ページ 「シリーズ 戦争と平和の岐路に問う-『新しい戦前』に『特攻』の経験から学ぶこと」から一部を引用

 ここに引用した記事の冒頭に出てくる「いまから死にに行くというのに、周りの人たちが『万歳、万歳』と言う意味が分からない」という中学生の発言は印象的です。これが幼いころから教育勅語を叩き込まれた世代であれば、天皇陛下をお守りするための軍人になって世の中の役に立つ立場になったのは目出度いと、そういう意味で「万歳」なのだと理解するわけで、それはまた、当時「万歳」を唱えた大人たち自身も本音では「今から死にに行くのに、万歳もないものだが・・・」と心の中では思っていても、それは口には出さずに、建前として「万歳」を唱えれば、周りもそれに調子を合わせる、そういう屈折した世の中だったということを、後世の我々は学ぶべきだと思います。また、この記事の後半で指摘されているように、社会科の先生たちは「特攻を教えにくい」と発言することが多いとのことですが、それは私たちの社会が明治維新以来の「侵略戦争」路線をしっかり反省していない証左だと思います。菅原道大やその他の元軍人が戦後に生き延びて、「英霊」神話をでっちあげることに暗躍した結果、靖国神社には極東軍事裁判で死刑判決を受け処刑された軍人や政治家が「英霊」として秘密裏に合祀され、そのことが発覚したその年から、昭和天皇もそれまでは続けていた靖国神社参拝を、それ以降は参拝しないことになったという「不祥事」だったわけで、戦争に対する反省の不徹底が反映した事象だと思います。





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最終更新日  2024年02月26日 01時00分08秒
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