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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2021年10月29日
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カテゴリ:絶対存在論
神の存否-214
 「第二部「精神の本性および起源について」の定理一〇の系で帰結として、人間の本質は神の属性のあるあり方の様態的変状(モディフィカティオ)から構成されていることになると結論しています。系に次いで
 証明 なぜなら、実体の有は人間の本質に属さない。ゆえに人間は(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。)により、神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないであるものである。言いかえれば(第一部定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。この証明は定理一五および定義五から明らかである。)により、神の本性をある一定の仕方で表現する変状あるいは様態(モードス)である。
 備考 神なしには何ものも在りえずまた考えられえないということは、確かにすべての人の容認するところに違いない。なぜなら、神は万物にとってその本質ならびに存在の唯一の原因であること、言いかえれば神は、単にいわゆる「生成に関して」だけではなく「有に関して」も「モノ」の原因であることをすべての人が認めているのであるから。しかしそれでいて大抵の人々は、ある物の本質にはそれがなければそのある「モノ」が在ることも考えられることもできないようなものが属すると言っており、これで見れば彼らは、神の本性が被造物の本質に属すると信じているか、それとも被造物が神なしにも在りあるいは考えられうると信じているか、それともまた、そしてこれがもっともありそうなことであるが、これについて何ら首尾一貫した意見を持ちえないでいるか、そのどれかであることになる。こんなことになる原因は、私の見るところでは、彼らが哲学的思索の順序(デカルトの方法序説参考)を守らなかったことに在るのである。なぜなら、神の本性は認識上から言っても本性上から言っても最初のものであるから何ものよりも先に観想されなければならなかったのに、彼らはこれを認識の秩序の上で最後のものと信じ、そして感覚の対象と呼ばれる物をすべてのものに先立っていると信じたからである。この結果として彼らは、自然物を観想するに際しては神の本性については少しも思惟せず、またあとで、神の本性の観想に心を向けた時には、彼らが初め自然物の認識を築くに際して根底としたもろもろの勝手な想像については少しも思惟しえなくなったのである。そうした想像は神の本性の認識に何ら役立ちえなかったのであるから。だから彼らがいたるところで自己矛盾に陥ったのも何ら怪しむに足りない。
 しかし私はこのことには深く触れないでおこう。というのは、私のここでの意図は、彼らを攻撃することにあるのではなく、ただなぜ私が「ある物の本質には、それがなければそのある物が存することも考えられることもできないものが属する」と言わなかったかの理由を。すなわち、私がそう言わなかったのは個物は神なしに在ることも考えられることもできないが、それにもかかわらず、神は個物の本質には属さないからだということを、示そうとすることにのみあったからである。それで私は先に、ある物の本質は、それが与えられればそのある物が定立され、またそれが除去されればそのある物が滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものから必然的に構成されていると言ったのであった。



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最終更新日  2021年10月29日 06時10分04秒
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