そんな訳で、わが夏は、終わったのであった・・・とは、言わせず、気を取り直して、涼しいサンフランシスコ(以下「シスコ」と略す)を探索することにするのである。いつまでも空港にしがみついている訳にはいかないのである。
空港に置いてある、市内マップを見ると、市内に行く方法として、シスコからはここ数年でできたというバートという結構速度を出す(加速力があった)列車があり、それに乗る。風景を見ながら、下を見ると、まるで、仕事をしにきたみたいだぜ、フッと悲しい横顔が旅愁をそそるというものである。
それにしても、私は、用意周到なのである。シスコには行く予定はなかったのではあるが、半年ぐらい前に「地球の迷い方、シスコ&シリコンバレー編」の最新版が105円で売られていたので、とりあえず、意味なく大人買いしていたのである。そして、出かける寸前に買ったことを思い出し、趣味で集めている世界ガイドブックコーナーINマイルームを散策すると、出てきたので、まあ、重いけど、一応念の為に入れておくか・・・なんて荷物の底に入れておいたのであった。そんな、もしもシスコに行くはめになってしまったらと一瞬1パーセント程度思ってしまったのが、ポジティブシンキングから外れてしまったのか、最悪を考えると、それが現実になってしまったのか、大変複雑な心境になっていたのである。
そんな心境になり続けること30分で、メインの駅であるパウエル駅に到着したのであった。パウエルストリートのパウエルの由来は知らないが、多分、コージーパウエルでも、ベーデンパウエルでもないとは思う。そういえば、ボーイスカウトの創始者ベーデンパウエルってさ、スパイだったんだねえ。
まあそんなことを思いながら、まずは、宿を取り、荷物を置くことにしようと、駅の近くから、外観を見ながら、宿を探す。宿だらけである。
しかしである、観光シーズンなのか、10数件回っても全部満室、または、居住者長期滞在者向けのホテルばかりで、だんだん、どこでもよくなってきたのも事実である。
16件目にやっと1室探し当てる。中心の広場ユニオンスクエアから奇しくも50メートルぐらいしか(1ブロックも離れていない)ない便利なロケーションなのであった、というか、もうどこでもよかった、値段以外はどうでもよかったというのが正直な感想だったりなんかもするのである。ホテル探しに、90分という長い年月を費やした私は、早速チェックインし、地球のだまし方を開いた、と思うと同時に目が閉じたのであった。
いかん、いかん、時差ぼけに負けてはいかん、と意識を回復したのは90分後であった。とりあえず、もう夕刻である。アメリカ本土に到着してから観光に出かけるまで、すでに、8時間という長い年月を費やしていることに気がつき、そういえば、寝てたので機内で朝飯も食ってないので、神妙な計算をすると16時間ぐらい飲まず食わずの状態であることにも、気がついたのである。
まずは、メインのユニオンスクエアに出てみる。ここで有名なのは、ここの地下が世界初の地下駐車場であるということぐらいである。ちょうど、フィリピン人バンドによる催し物が開催されていたのであるが、奇しくも、中央の円柱は、米西戦争時代、米軍がフィリピンのマニラを陥落させた記念に建てられたものだということなのである。勿論、フィリピン人にとっては、為政者が代わっただけである、というか島国なので、国という概念もなかったはずである。
そんな訳で、呆然とむちゃでかい消防車を見て、アメリカはでかいのお、とカッペになる。
そうして、坂を歩き始めるのである。私のシスコの知識は、何か坂が多い街なのだという程度である。
それから世界一古いケーブルカーがあるということだが、街中を走っているとはしらなんだ。
しらなんだというついでに、いくつも丘があり、起伏の激しい街ということもしらなんだ。一つの丘があるだけかと思っていたが、これはなかなか珍しい街だなあと思う。いくつもの丘まるごと都市なのである。丘を越えてテッペンかと思えば、また下り、また上るのである。勿論、地図からは分からなかったのである。
よく、日本でも西洋人が意味のないところで、街中へたり込んでいることがあるが、あれはよく分かる。私も各都市で、歩き過ぎて、意味ないところでへたり込んで休憩することがあるのだ。そんな訳で、休憩ついでにアルコール度10パーセントのフルーツビールのようなもの500CCを買って、へたり込んで飲んでいるが、これが非常に不味く、休憩中も、修行中のような気分なのであった。(以下明日以降続く・・・と思われる。誰も期待していない。)
二〇〇七年夏
メキシコ行き失敗
メキシコ行き失2敗
サンフランシス1コ
サンフランシスコ2
サンフランシスコ3
サンフランシスコ4
サンフランシスコ→成田→バンコク
矯正博物館
バンコク原点序章1
バンコク原点序章2
歓楽街にて コンドムレストラン
クルンテープにて
1985年のロンリープラネット
1987年バンコクから南下